第24話 2人の真実
「やっ、止めて」
思わず突き飛ばした成瀬くんが、小上がりに尻もちをついた。私の腹に触れていた手は、肌を辿りながら外へ滑り落ちる。しようとしたことを咎めはしない。寧ろ私の頭は、自分の醜い体を見られたくない気持ちが勝っていた。
「……ごめん」
「コーヒー飲もう。はい、どうぞ」
「……有難う」
成瀬くんに気付かれないように、小さく息を吐いた。彼が気にしないように微笑みを作って、まだバクバクいう心臓に『これは事故だ』と言い聞かせている。小上がりの縁に並んで、ゆっくりコーヒーに口を付け、成瀬くんが小さく溜息を吐いた。
「陽さん、ごめんね」
「何の話?……気にしてないよ、大丈夫」
「いや……何から話せばいいんだろうな」
「話さなくていいよ」
「ううん。陽さん。僕、聞いて欲しいんだ」
並んで、互いに前を向いている。彼がどんな顔をしているのか、私は分からない。でも、彼は苦しんでいると思った。
「サキ……さっきの彼女は、僕の元妻なんだ」
「元妻……妻?」
思いがけない言葉に、驚いた。可愛らしい男の子だと思っていた成瀬くん。まさか、結婚をしていただなんて考えもしなかった。
「サキは、結果的にはショウタと不倫をした。僕を置いて、家を出たんだ。離婚届だけを残してね」
「……そっか。不倫、か」
自分の後ろめたさが、思わず視線を泳がせる。不倫をしている女が、不倫された男の話を聞かされているのだ。私に、何が言ってあげられると言うのか。
「でもそこに至るまでの経緯は、完全に僕が悪い。僕は家庭を顧みることをしなかった。サキが年齢を気にして、出産に焦っていたのに、煩わしいとしか思ってなかったんだ。きっと彼女は、寂しかったんだと思う」
「寂しかったからって……」
そう言い掛けて、言葉が続かなかった。私が堂々と言えることなど、やはり何もなかったのだ。
元々3人は、同じゼミだったようだ。成瀬くんが話に耳を傾けずにいた時、彼女は彼と再会してしまった。そしてそのうちに、関係が始まってしまったのだろと言う。
そんな、と思ったところで、何も言えなかった。始まった状況なんかは違えど、していることは私も同じ。一体、何を言ってあげられるのか。
「その頃、僕は大きな仕事の担当になった。だから余計に現実から目を逸らして、仕事ばかりしていたんだろうね。でもその結果、仕事も上手くいかなかった。それが悔しくて、酒を煽っていた僕を見たサキが言ったんだ。文人の力不足でしょって。それで苛ついた僕は……サキに手を上げた。それが、30歳になる少し前の話」
空笑みを浮かべた成瀬くんに、泣いてしまいそうだった。同情なんかじゃない。彼の気持ちを聞いて、私も悔しかったのだ。
「陽さんは僕を優しいって言ってくれたけれど、そんな風に言われる資格なんてないんだよ。サキが言った通り。僕は直ぐにキレたし、最終的に手を上げてしまった。サキだって仕事があって、出産への焦りがあって、僕に寄り添って欲しかったはずなのに」
成瀬くんの頬に、ポロっと涙が零れた。膝の上に置かれた手は、またグッと強く握られている。私はそれを覆って、上からキュッと握り締めた。成瀬くんの涙が止まらない。今は泣けば良いんだ。きっとずっと泣けなかったと思う。こうして他人に吐露したのなら、気が済むまで泣けば良い。
「今まで泣けなかったのね。もう良いんじゃないかな。自分を許してあげても」
「いや、でも僕は」
何か言おうとした彼を遮った。もう良いと思う。彼は十分に苦しんだと思った。
「さっき彼女は、成瀬くんに立ち向かったよね。震えてもいなかった。それに、私に忠告までしてくれた。ってことは、今も苦しんでいるわけじゃないんじゃないかって思ったの。トラウマになる程なら多分、成瀬くんに気付いたら走って逃げるわよ。だって、怖いんだもの。何て言うか、単に悔しかったんじゃないかな」
そう一度に言った私に、彼は驚いていた。大分、彼に寄り添ったことを言っているとは思う。彼女は確かに苦しんだだろうし、当然言ってやりたいこともあっただろう。けれど、あれ以上は何も生まれない。それぞれが前を向いて歩まねばならないと思った。
「これは私の推測でしかないけれどね。成瀬くんを許さないって言ってはいたけれど、彼女たちにも不倫をした後ろめたさはあったと思うの」
それは、進行形で不倫をしている私だから言えることだった。例えその夫婦生活に諦めがあったとしても、罪悪感を持つのが人である。それすら持てない征嗣さんのような人は、最早結婚なんてするべきではないのだ。成瀬くんは、とても真剣な眼差しで私の話を聞いてくれる。どうかこれ以上苦しまないで欲しい。私は今、それだけを考えている。
「だけれど、目の前にあなたが現れて。更には、私達が幸せにお付き合いをしているように見えた。それがムカッとして、恐怖や思い出したくないって言う気持ちよりも、何か言ってやりたい気持ちが勝った。彼女の気持ちとしては、そうじゃないかなって。……思いました」
言い終えた私を、彼はギュッと抱き締めた。少しでも心が解放されたのなら、それで良い。
「陽さん、有難う」
「あら、どういたしまして」
ドキドキする胸を抱えて、平気な顔をする。これはただの、有難うのハグだ。深い意味など何もない。
「ねぇ、成瀬くん」
「は、はい」
「呑み直さない?コーヒーじゃなくて」
「うん。そうしよう」
なかなか離れられなかった彼に、私はそう微笑み掛ける。涙の止まった目が、ようやく笑った成瀬くん。両手を解きながら、私のおでこにチュッと小さなキスをした。玄関でしてしまったキスよりも、その後のキスよりも。何だか一番恥ずかしくて、へへへ、と照れ笑いを浮かべて、そこを擦った。ちょっとだけ、温かいような気がした。
「どこかに行く?それともここで飲む?どっちでもいいよ」
「んん……どこかに行こう。ここだと全部陽さんにお願いしないといけなくなる。それじゃあ、お礼も出来ないよ」
「お礼?要らないわよ、そんなもの」
彼がいつもの成瀬くんに戻った。でもちょっとだけ変わったように見えるのは、重荷を少しだけ下ろすことが出来たからかも知れない。
「何にしようか。成瀬くんって好き嫌いある?」
「うぅんとね、キュウリ」
「キュウリ……じゃあポテトサラダにキュウリの入ってないところにしよう」
「何それ。そんな店ある?」
気を利かせて言ったのに、そんな風に返すから。「何よ、もう。あるわよ、きっと」って、ちょっとムスッとしてやった。何だろう、この感覚。楽しい、幸せ、満たされる。そのどれでもなくて、その全てでもあるような感じがする。
「年越し、この部屋なら余裕ですね」
「そう?寝袋は厚みが分からないから、小上がりに敷いて貰って。私たちはテーブル寄せて、この辺にお布団敷いたら何とかなるかな」
部屋を見渡した彼が、一点を見つめる。そこに置いてあるのは、沢山の母の写真。私のただ一人の家族。
「あれはね、母なの」
「よく似てますね」
「そう?」
母の写真を見て、彼はそう言ってくれた。それだけで、本当に嬉しくなった。母は私の唯一の家族だった人だから。
色々言い合って私達は結局、近所の居酒屋へ出ることにした。さっき家まで歩いた時とは全然違う彼が、楽しそうに話をする。昌平くんは、パンを焼くのも上手いらしい。緋菜ちゃんは、字が上手なんだよ。そんなことを話す成瀬くんは、気張っていない、気取っていない彼だと思った。
「陽さん、あのさ」
「うん?」
「さっき、本当に有難う」
「ん、それは聞いたよ?」
「あぁそうじゃなくって。紗貴たちに会った時のこと」
「それねぇ……私、言い過ぎちゃったかな。部外者なのに」
冷静になり始めると、流石に私の立場では言い過ぎていた。当然、恋人ではない。友人であるかすら怪しい。そんな関係だというのに。
「いやいや、いいんです。サキはアレだけど、ショウタは陽さんのこと、じろじろ見てたし。本当にごめんなさい」
「いやいや。何て言うか……イラっとしちゃって」
「イラっとしたって、陽さんが?」
「うん。だって、私のお友達に何てこと言うのって思っちゃって。だからこう……言ってやりたくなっちゃった。文人くん、なんて呼んだことないのにね。自然だった?」
「う、うん」
良かった。彼にとって余計なことではなかったようだ。それでも、お腹の大きな妊婦に言うことではなかったと、まだ反省はしている。ただ何よりも今引っ掛かっているのは、図らずも彼の秘密を知ってしまったことだった。彼らに会うことが無ければ、成瀬くんは絶対に言わなかったことだろう。今日だって、幸せそうな家族連れに目をやって、寂しそうな顔をした彼。誰にも言うつもりはなくて、そのまま1人で抱え続けるつもりだったのだろうと思うのだ。何だかそれって、フェアじゃない。
成瀬くんはきっと、征嗣さんとのことを怪しんでいる。弁天門広場で見てしまったメッセージのプレビュー。そこには『せいじさん』と書かれていたし。私と征嗣さんが顔を合わせた時の微妙な間を、感じ取ったと思う。自分が、そうされたことがあったから。もし友人だと胸を張って良いのなら、フェアにいきたい。それに成瀬くんなら、茶化したりすることはないだろうから。
「成瀬くん、気付いてるんだよね?」
「へ、何を?」
「うん?私と征嗣さんのこと」
出来るだけ笑いながら、そう切り出した。こんなこと誰にも言ったことがないから、どう話すのが正解かが分からないのだ。
「あ、あぁ……何となく、そうかなぁって思って」
一瞬躊躇ってから、彼はそう認める。自分のされた経験が蘇ったのだろう。何か思い出されるようなことが、あの僅かな時間にあったのかも知れない。
「そっか。それで、止めとけって言おうとした?」
「まぁ、そうですね。僕は不倫をされる側の気持ちを知ってるから。原因を作ったのは自分だとしても、そうされることの悲しさを知ってる。だから、陽さんに加害者のままで居て欲しくなくて」
「加害者、か。確かにそうだ」
それが事実だったから、もう笑うしかなかった。加害者、と第三者に言われると、酷く胸を抉られるな。綺麗事を言うつもりはない。確かに私は今、加害者なのだから。
「愛して、るんですか?」
「え?愛してる?」
「教授のこと」
「愛なんて……もうないわよ。私たちの間にあるのは、惰性、慰め、馴れ合いってだけ。彼は分からないけれどね」
愛、か。征嗣さんは、私を愛しているだろうか。こうは言ったけれどきっと私は、まだ心のどこかでは彼を愛している。それを認めたくないだけだ。
「愛してないのに、教授と一緒に居ないといけないの?」
「いけない?いけなくはないよ、ね」
「でも結婚している人と付き合い始めて、そんなのって何か」
「許せない?」
そうだろうね。それは、そう思って当然だ。成瀬くんは私の冷たい聞き返しに、恐る恐る頷いた。
「成瀬くん、あのね。ちょっと違うんだ」
「違うって?」
「結婚してる人と付き合い始めたんじゃないの」
「え?」
「私がお付き合いしていた人が、結婚したの」
「は?」
「その反応は正解」
もう笑うしかなかった。
あの時を思い出して、今でも悔しくなる。どうして、私じゃ駄目だったんだろう。偉い教授の娘じゃないから?父親の顔すら知らないから?考え得る理由を並べて、自問自答を繰り返していた。征嗣さんは胸が痛んだろうか。せめてそのくらいは、私を愛していて欲しい。いつだって、今だって、そう思い続けている。
「ある日突然、俺結婚するわって言われて。何が何だか分からないまま、私は別れを選べなかった。結果的に、今の罪の重さは変わらないんだけどね」
「先に付き合い出したのは陽さんだったの?」
「うん。多分。私は付き合ってるって思ってたんだけど、初めからそう言うつもりじゃなかったのかも知れない。でも別れることもなく、そのままもう10年以上」
「10年……」
その年数に絶句した成瀬くんを見て、苦しくなった。引くよね、と明るく言ってしまえるような年月じゃないのは、私が一番分かっている。でも、そうするしかない。そうじゃなければ、惨めな自分を思って泣いてしまうから。
「陽さん、助けは必要?」
「そうねぇ、今は大丈夫。もう何年も諦めてたけれど、流石にね。そろそろ終わりにしないといけないって思ってて。あの人には幸せな帰る家があるのに、私だけ一人って寂しいじゃない。それに何かさ」
「ムカつくよね」
私の気持ちを代弁するように、彼がムッとしてそう言った。わざと言ってくれたことは分かってる。でも、泣いてしまいそうになった。
「ムカつくでしょ?私ね、思ってたの。もうこのまま、私の人生は終わって行くんだろうなぁって」
「何それ。まだこれからでしょ?」
「そうなんだよね。でも、そうやって思うことも出来なかった。私には友達もいなかったし、誰にも相談出来るような話じゃないしね」
こうやって誰かに話をして、叱られた方がきっと良かったのだと思う。鳥籠の中で大人しくするのではなくて、ピーピー鳴けば良かった。10年以上経って、ようやくこんな気持ちを手に入れる。何かを変えられるんじゃないか。そんな期待が、薄っすらと見え始めている。
「陽さん。何だか腹が立ってきた。相談に乗るのは当然だけど、僕だって何か言ってやりたい。陽さんが、サキたちに言ってくれたみたいに」
「まぁまぁ。私たちのことは、放って置いて大丈夫だから。そうやって思ってくれただけで十分。有難う」
「……じゃあ何で話したの?」
ピリッとした言葉が飛んで来た。折角打ち明けたのに、放っておいて欲しいってなんだ。彼はそう思うのだろう。でも、引き摺り出して欲しい訳じゃない。ただ傍で見ていてくれれば良い。そう思うのだが、きっとこの感情は彼には伝わらないだろう。
「だって、成瀬くんは知られたくないことを、私なんかに話してくれたじゃない?それなら私も言わないとなぁって」
「陽さん……私なんかに、なんて言わないでよ」
「え?あぁ……そっか。ごめん」
自己肯定感が異常に低い。昔は違った気がするけれど。今は、自分の存在価値すら見出せない。私なんか、と思うのは常日頃のことで、訂正されたのは初めてかも知れない。
「謝ることでもないよ」
「うん、そうだね。……成瀬くん、怒ってる?」
「怒ってないよ。怒ってない」
「あ、2回言った。私ね、2回そうやって言う人、信じないの」
この間の成瀬くんのように言い返した。もう、と彼は膨れたけれど、笑っていられたからこれで良い。今は、きっとこれで良いんだ。
「私、成瀬くんがお友達になってくれて、本当に良かったなぁって思ってるよ」
その言葉が自然と出た。今の今まで、私は友人ですらないのでは、と思っていたくせに。自分から『お友達です』と宣言したくなった。だが、成瀬くんはの反応は微妙だった。喜んでくれるかな、と思ったけれど。
「お友達」
「ん?お友達って言ってくれたじゃない」
「う、うん。そうだね」
違うの?陽さんもお友達だよって言ったよね?心が少し萎んだ。ちょっと勇気を出して言ったのに。剥れ始めた私の手を、彼がスッと握る。どうした?と聞いたが、こちらを見てはくれない。
「いいの、今日は」
「何それ」
「繋ぎたかったんだから、いいじゃん」
何それ、子供みたい。ムスッとして、私の手をキュッと握る。ドキドキなんてしたら駄目だ。これに特別な意味などない。
「……そっか。それじゃあ、仕方ない。こうして行こう」
ちょっと勘違いしそうになった自分を恥じる。でも今日だけね、と成瀬くんを覗き込んで、意地悪に笑った。
もしかしたら、慰めてくれてるのかな。成瀬くんは優しいから。付き合っていたと思った人に結婚されて、別れられずに居る哀れな女。同情だろうな。でも今は、それで良いや。初めて誰かに征嗣さんのことを話した、というちょっとした高揚感が、私の中で湧き上がっていた。
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