第23話 私の知らない成瀬くん

「さっきの話なんだけど。2人を買い物に行かせるとして、僕が行かない理由考えないといけないかなって。多分僕は残っても、戦力にはならない。それなら買い出し係に回る方が自然じゃない?」


 結局、有益な作戦も立てられないまま、私達はランチを終えた。店を出て、目的もなくプラプラし始める。ふと成瀬くんが言うことは、確かにそうだった。私の部屋に残って自然なのは、成瀬くんじゃなくて昌平くん。と言うか、寧ろ緋菜ちゃんが正解。男2人で買い出しに行ってくれた方が自然である。


「それはそうかも。成瀬くんはここに居てって、言うのは不自然だし。昌平くんが上手くやってくれるかなぁ」

「そこは大事だよね。ちょっと昌平くんと相談してみて。何ならさ、年越しを迎える前に、昌平くんに僕の気持ちを伝えたって良いんだよね。騙してるのは好きじゃないし」

「そうかぁ。そうだよね」


 昌平くんに嘘を吐いたままの成瀬くん。心苦しいのだろう。そのタイミングも、ちゃんと見つけていかなければいけないな。

 上野公園を歩き始めた私達には、楽しそうな声があちこちから聞こえて来る。征嗣さんもあぁやって、子供と手を繋いで歩いているのだろうか。そう罪悪感にかられる私の横で、彼もまた何かを抱えた顔をしていた。散歩と言うよりも、適当に歩き始めてしまった私達。特に目的地などある訳でもなく、何となく清水観音堂の前を通って不忍池の方へ出た。そこは、初めに待ち合わせをしていた弁天門広場。私達は動物園通りを渡る為、横断歩道で信号の変わるのを待った。


「寒いのに結構居るんだね。誰も居ないかと思ってた」

「そうだね。今日は風もあまりないし、それでじゃない?」


 今日は確かに良く晴れていて、冷たい風は微かに吹く程度。12月としては、過ごしやすい日だろうと思う。道の向こうの広場には、動物園から出て来た家族連れだろうか。楽しそう父母の手を引く子が見える。それから、こちらへ向かって来るお腹の大きな妊婦さん。隣を歩いていた旦那さんが彼女に手を差し出せば、勝手にホッとしていた。沢山の幸せな構図が向こう側に広がっている。何だか私がそこへ入り込んではいけないような、そんな気がしてしまう。でもやっぱり寒いね、と言いながら、私達もその中に紛れ込んだ。異物だと取り除かれないように、ギュッと目を瞑って。


「あ、ねぇねぇ。そこにね、駅伝の碑って言うのがあるの」


 どうでもいい情報を話す私。幸せな家族連れから、目を逸らしたいのだろう。


「駅伝?」

「そう。何か京都スタートでここがゴールだったとかって。三日三晩走り続けたらしいんだけど」

「凄いね。何人で襷リレーしたんだろうね」

「あぁ確かに」


 それは考えたこともなかった。そう顎をつまんだ時、どこかから「アヤト?」と聞こえた。成瀬くんが立ち止まる。私も止まって、その声の元を辿った。目が合ったのは、さっき勝手に心配した妊婦さんだった。


「キ……」


 どうしたの?なんて呑気に彼を覗き込んでしまった私。直ぐに、それが失敗であったと気付いた。

 成瀬くんはクリクリした目を全開にし、そのまま固まっていたのである。向き合った妊婦さんもまた、彼をじっと見ていた。知り合いであることに間違いはなさそうだ。一先ず私は小さく頭を下げ、一歩引いた。友人にこうしてばったり会えば、話をするのだろうから。全くの部外者が、その邪魔になってはいけない。


「文人。……元気、そうね」

「……あぁ」

「成瀬も新しい女出来たんだな」


 横から顔を出した旦那さんが、何だか厭味ったらしくそう言う。そして、私を嘗め回すように見た。何だか品定めをされているようで、決して良い気はしない。何だろう。あの夫婦から彼に向けられる言葉が、全て刺々しい。いや、口調だけじゃない。視線も、態度も、何もかもだ。


「……るせぇな。ショウタには関係ねぇだろ」


 成瀬くんが拳を握り込む。フルフルと震えるその中で、爪が突き刺さっていそうなくらいに。


「私の時は、そういうことしなかったのにね」

「は?」

「そうやって、同じような恰好するの嫌だったじゃない」

「……あぁ、あの。これはたまたまなんです。合わせた訳じゃないんですよ」


 彼らの関係性は何も知らない。だけれど、段々と苛ついてしまった私。ついその空気をぶち壊すような笑顔で、そう割って入った。睨み付けはしない。ただニコニコした顔を維持して、その夫婦と対峙しているのである。


「そう。あなたも気を付けてね。この男、直ぐにキレるから」


 さっきまで、幸せそうだなと羨んでいた妊婦が、私に冷たくそう言い放つ。直ぐにキレる?私の知っている成瀬くんは、そんなことしない。一体何なんだ。


「私、今でも許してないからね。文人」

「……分かってるよ、分かってる」

「成瀬。俺もお前を許さないからな」

「は?ショウタはそうやって言える立場かよ」


 成瀬くんの右手が、またギュッと強く握られた。理由は読み取れないが、一食触発の雰囲気が漂い始めている。これはダメだ。きっと良くない。私は、サッと成瀬くんのその手を握った。


、行こう」

「あなたも。早く別れた方が良いわ、こんな男」


 こんな男って……成瀬くんと繋いでいた手を一度キュッと握った。彼の手は、まだ震えている。


「……ご忠告、有難うございます。でも私は困っていませんし、それに私たち幸せなので大丈夫ですよ。ご心配いただいたのに、すみません」


 手を解き、きちんと頭を下げた。私まで怒りを表す必要はない。だけれども、だけれども……


「そろそろご出産ですか?」

「えぇ。年明けには生まれるの」

「そうですか。きっと可愛いんでしょうね。でも、今の言葉、聞こえてるんじゃないかな。ママのそんな気持ち、聞くのは辛いと思う。だからあんな言い方はしないで、互いに未来を見ましょう。お気を付けてね。元気な赤ちゃんが生まれますように。それでは」


 そう言い切って、引き攣った顔をした夫婦にニッコリと微笑み返した。深々と頭を下げ、それから成瀬くんとまた手を繋ぐ。わざとらしく、「文人くん、行こう」なんて言って歩き始める。目的地などない。とにかく、あの二人から離れることだけを目標に。成瀬くんは何も言わない。黙ったまま、私と一緒に歩き始めた。


 あの二人は誰だったのか。どうしてあんな風に、彼を責めたのか。余計なことを言ってしまっただろうか。いや。それでも私は、あの言い方が気に入らなかった。素通り出来ない程の因縁があるのかも知れないが、もう良い大人だ。睨みつけるのは仕方ないとしても、何も言わずにすれ違えないのか。完全部外者の私まで苛ついて、でもどこか冷静に彼らの正体を分析している。彼女の話からして、多分成瀬くんの元カノ。その夫だと思った彼は、きっと成瀬くんの友人だろう。今後の関係が悪化するようなことを言ってしまったろうか。

 そして、ハッと我に返る。しまった。何も考えずに、自分の家に向かって歩いてしまった。成瀬くんは下を向いたまま。泣いてしまいそうな程に、目元を赤くしているではないか。全く関係のない私すら、こんなに腹を立てている。彼はもっと、内に秘めた何かが沸騰していることだろう。私はそのまま彼の手を引いて、真っ直ぐに歩いた。躊躇いがなかったとは言わない。でも、今にも泣いてしまいそうな大人の男を、公衆の面前に晒しては置けなかったのである。


「ここ、私の家。とにかく落ち着くまでは、休もう。ね?」


 成瀬くんは頷くと、小さな声で「有難う」と言った。鍵を開け、扉を開ける。彼を先に押し込んで、私はそれを閉めた。冬風が隙間からひゅうッと入り込む。辺りはいつの間にか、陽が落ち始めていた。佇んだままの彼の背にそっと両手を置いて、温かい物でも淹れようか、とそれをそっと押した。


「紅茶とコーヒー、どっちがっ……」


 赤く生気のない目をした成瀬くんが徐に振り向くと、唇が私のそれと重なった。何が起きているのか分からない。見開いたままの私の目は、彼の長い睫毛を見つめている。彼は無表情のまま、私の頰を両手で包み込んでいた。バクバク言い始めた心臓の音。我に返った私は、彼を静かに引き剥がした。


「とにかく上がって。ね?」


 何でそんなことするの?なんて野暮なことは聞かない。あんな物、愛も恋もないのだ。ただ寂しさを埋める術。誰かが傍にいることを確認したに過ぎない。彼を部屋の奥にある小上がりの縁に座らせて、湯を沸かし始める。インスタントコーヒーの瓶へ伸ばした手が、酷く震えていた。そっとそれを戻すと、コーヒー豆の瓶を取り直す。ゆっくり、これを落とそう。その間に、先ずは私が落ち着かなければ。

 薬缶から出る湯気を眺めるふりをして、成瀬くんに目をやる。彼は何だか放心状態で、ただ空を眺めているようだった。もしかしたら、さっきのキスも覚えていないだろう。そんなのは別に構わないが、私の動揺はどうにかしなければ。カップを手に取り、それを温める。とにかくゆっくり。落ち着け、と自分に言い聞かせている。


「コーヒー淹れたよ。こっちに来られる?」


 成瀬くんに声を掛けるが、彼は微動だにしない。カフェテーブルにコーヒーを置くと、私は彼の前に立った。


「大丈夫?何があったかなんて、私に話さなくていいよ。だから、落ち着くまで一緒に居よう。ね?コーヒー、温かいうちに飲もう?」


 座ったままの成瀬くんを覗き込もうとすると、彼は私に抱きついた。私の背に回る腕が震えている。グッと寄り添って来たその頭を、私はそっと撫でた。大丈夫だよ、と。


「陽さん……」

「ん、なぁに?」

「僕のこと嫌いになった?最低な奴だって知って、軽蔑した?」


 私の知らない成瀬くんが、そこに居た。叱られた子供のような目で、彼は私を見上げる。きっと何か知られたくなかったことだったのだろう。もしかしたら、それを知られないようにずっと内に秘めていたのだろうか。


「そんなことないよ。誰でも知られたくない過去はあるし。それに、私の知ってる成瀬くんは、とっても優しいよ。だから、私にはそれだけでいい。過去は過去よ」

「陽さん……」


 成瀬くんのまだ赤い目は、さっきよりも意志のある瞳でこっちを見ている。彼は立ち上がりながら、私のシャツの中に手を伸ばす。そしてまた、静かに唇が重なった。

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