第22話 波長の合う人

 土曜日の11時を少し回ったところ。成瀬くんと待ち合わせをした場所で、ぼぉっとしていた私の携帯が鳴った。緋菜ちゃんからだ。酷く唐突に、『料理出来る?出来たら教えて』と書かれている。何の説明もないから、一体何があったのか、と考えたが、これは多分あの子の思い付きだろう。これは私が彼女の凄いと思う所である。やりたいと思ったら早めに行動が出来るのだ。私みたいに、うじうじ悩み込むことは、恐らくあまりない。


「教えるのは良いけど、何が良いだろうなぁ」


 『夕べはごめんね』と彼女に送ったのは朝のこと。それから返信は一切なくて、急にこれである。お昼でも食べていて思い付いたのか。とりあえず聞けば、家庭的な物を作りたい、と言う。肉じゃが、金平、肉豆腐……あれこれ思い付きはするが、どれが手始めに良いのか判断が付かなかった。

 ふぅ、と息を吐き出して、突き抜けるような空を見上げた。こんなに空は高くて、鳥は自由に飛んでいるのに、私は自ら進んで鳥籠の中に帰るのか。率先して窮屈さを選ぶ自分が馬鹿らしく思える程、綺麗な空だった。


「そうだ。出汁の取り方を覚えたら、面白く感じるかしら」


 閃いた顔をして、そう小さく呟いた。そうでもしないと、心が平静を保てなかった。本当は、体だけじゃない。心の中もズタズタなのだ。全てを忘れていられる時間が欲しい。出来れば、1人で居たくない。だから私は、待ち合わせよりもずっと早く家を出て来たのだ。成瀬くんとの待ち合わせは、11時半。彼は絶対に余裕を持って来るらタイプだ。けれどそれ以上に、じっと1人で家に居るのが嫌だったのである。

 成瀬くんは昨夜、何度も電話をくれた。勿論出られる状況にはなかったし、征嗣さんが帰った後も掛け直す気力もなかった。朝起きてから掛けた電話。仕事が大変だった、なんて聞かれてもいないのに、有りもしない嘘を言って。飲食店の近い西郷隆盛像の辺りに待ち合わせを変えて、時間も伝えて。それから、食事の後に散歩に誘った。いつも1人で行くけれど、今日はそれじゃ駄目だった。延々と征嗣さんのことを考えてしまうから。成瀬くんが居てくれたら……きっと笑っていられる気がした。そんな自分勝手な誘いに、彼は何も言わずに受け入れてくれる。1人で言い訳のように話をする私に、彼は何も言わなかった。恐らく、昨日のことは仕事だとは思ってないだろう。それでもそうしたのは、深入りしないのが大人のマナーだからだろうか。単に、私に興味がないからか。後者の方が有力だが、深くは考えないことにした。緋菜ちゃんと少しやり取りをする。味噌汁なんかどうだ、と提案したりして、また気を紛らわせていた。


「出汁から取った味噌汁なら、応用も効くし……っと」


 出汁の取り方が分かれば、煮物にも何も応用が利く。幅が広がれば、違った興味も湧くだろう。心を落ち付けて、出来るだけ口角を上げるように意識する。そうでなければ、直ぐに無表情になるのが分かるのだ。

 あぁ、征嗣さんに見られていたの想定外だった。まさか昌平くんと居た場所に、彼も来たとは。思い出すだけで、大きな溜息が出る。どうして忘れていたのだろう。あの店を征嗣さんに教えたのは私。彼が来るかも知れないことを、念頭に入れていなければいけなかったのに。体中が悲鳴を上げている。どうしてこんなことになったのか。

 成瀬くんと電話を終えて、私は来ていたワンピースを脱ぎ捨てた。鏡に映るのは、自分の情けない体。目に入るだけで、溜息しか出なかった。シャツとスウェットを着て、手に取ったのは滅多に穿かないスキニーパンツ。髪は低めにクルッと丸めて、あまり掛けていない眼鏡を手に取った。上着は、軽くて暖かいボアコート。いつもと同じような格好では、気持ちが前に向かないから。違うテイストの服ばかりをチョイスしていた。


「陽、さん?」

「あぁ成瀬くん。こんにちは」

「あぁ良かった。お待たせしてすみません。何かちょっと違う感じだったから、少し悩んだよ」


 そう改めて言われると恥ずかしい。成瀬くんの顔から視線を外し、地面へ目をやった。その途中で視界に入った物。自分のとは違う、モコモコした生地。私は成瀬くんの全身に目をやって、少し顔が赤らんでしまった。休日でもジャケットを着ていた彼はそこに居なかったのだ。とてもラフな格好。靴もスニーカーで、それに……


「同じようなの着て来たね、僕たち」

「そうみたい、だね」


 互いに顔を見合わせて、嘘くさい笑みを浮かべる。軽くて暖かいからと選んだボアコート。彼が着ていたのも、同じようなボアのジップアップフーディ。それから黒のスキニーパンツを穿いている。言い合わせて来た訳では無いのに、無計画に合ってしまったことが互いの恥ずかしさを助長していた。


「何か照れるね。お散歩なら、スニーカーの方がいいかなって選び直した結果だったんだけど」

「私も軽い方がいいかって」


 よく見たら、彼も耳を赤くしている。まぁ意外と好みが合ったってことで、とやり過ごした。だって向かい合ったまま固まっていたら、ずっと恥ずかしいだけだから。近くのイタリアンを指差して、直ぐに並んで歩き始めた。同じような服を着て。征嗣さんとは絶対に有り得ないことだな、なんて思いながら。


「陽さん、誘ってくれて有難うね」

「え?誘ってくれたのは成瀬くんじゃない。まぁ、昨日が緊急事態だったからだろうけど」

「あぁ、いや。違うよ。散歩」

「散歩?そんなにお礼を言われることでもないよ」


 それはそうだ。自分の気分転換の為に、彼を付き合わせるのだから。礼を言わねばならないのは、間違いなく私の方である。


「1人で歩いたりもするんだけど。そうするとさ、運動になったなっていう爽快感よりも、内に悶々と問い掛けちゃって。結局気分転換にならなかったりしない?」

「へ、あぁそうだよねぇ」

「だから、誰かと歩けるって嬉しいなって思って。有難うね」


 成瀬くんが、ニコッと微笑み掛けたから、内心ドキドキしていた。まさに同じような理由であなたを誘いました、とは言える訳ないからだ。昨日のことは何も聞かないまま、彼は笑みを絶やさずに話し続ける。やっぱり彼みたいな人は、幸せな家庭が良く似合うんだよな。ちょっとしたことでも、丁寧に礼を言えるところ。こういう優しさが、征嗣さんに少しでもあったなら……まぁ私たちの関係などとっくに崩壊しただろうが。

 レストランに入って、向かい合って座る。天気の良い週末。店内は、家族連れや恋人たちが一杯だった。私達はどう見えるんだろう。なんて照れながら思った私とは違い、成瀬くんは何だか浮かなそうな顔をしているように見えた。


「ねぇ、成瀬くんって今日は何か用事ある?」

「いや、何もないけど」

「じゃあさぁ」


 私はワイン名が並んでいるメニューを、スッと彼に差し出した。彼も何かを抱えているのかも知れない。それならば、私と同じ。休みの日に昼間から飲んだって、誰にも咎められやしないんだから。


「いいね。ワインにしよっか」

「やった。そうしたら食べる物も変わるね」

「ピッツァとパスタとか分ける?」

「お、良い提案です」


 ようやく、成瀬くんに笑顔が戻った。私も深く追及はしない。2人でメニューを覗き込んで、ビスマルクとチーズクリームのニョッキ、それから前菜の盛り合わせとカルパッチョを頼んだ。昼間から完全に飲むスイッチの入った私達。この後しっかり歩けばいいよね、と言い訳を見つけて笑い合っていた。


「一先ずは乾杯」


 スパークリングワインを持ち上げながら、私はようやく今日の目的を思い出す。自分の憂さ晴らしではないし、ただの飲み会でもない。昌平くんの恋の為に、私たちは集まったんだった。


「昨日は驚いたね。学校は大丈夫だった?」

「何とか学生の体で乗り切った。ギリギリ見えなくもない、と思って」

「あぁ、それは大学の良い所かもね。僕の会社に来られたら、完全に浮くもん。それで色々話して、年末のこと決めて来たって感じ?」

「そうそう。何とか昌平くんの特技をアピール出来るように、って考えて。でも成瀬くんには、先に言っておけば良かったよ。2人も誘導していくなんて緊張しちゃって」


 夕べのやり取りは、酷く緊張した。部屋を提供することではなく、温泉に行きたい、と言われたからだ。あの緋菜ちゃんの熱意に皆が負けてしまったら、私は絶対に参加出来なかった。それは今の洋服の下で、赤黒い結果が物語っている。


「温泉はダメって、陽さんがあまりに強く言うからさ。何かあるのかって考えちゃった。でも、最終的にはそういうことね、って思えたけど」

「だって……冬の温泉なんて魅惑でしかないじゃない。私だって、本当は行きたかったもん、温泉」

「じゃあさ、今度行こうよ」

「ん?……そうだね」


 急に笑顔でそんなことを言うから、ドキッとしてしまったじゃないか。という意味だろうに。免疫の低下した私は、二人で行こうと言われたのかと思ってしまった。気不味さからカルパッチョに手を伸ばす。12月の食材はブリらしい。なるほど。これは家でも作れるかも知れないな。変に自分の中に湧いて出た緊張感を、目の前の食事に紛らわせていた。


「あの二人、陽さんはどう思う?僕は、そこそこすんなりと行くんじゃないかなって、思ってるんだけど」

「そうだね。ただ心配なのは、緋菜ちゃんが気紛れって言うか……こう、思い付きで行動することがあるから。それで大分左右されるかなぁって」


 さっきの料理の話のように、彼女は思い立ったら即行動するタイプだ。こちらが迷っている間に、2歩でも3歩でも進んでしまう。昌平くんもその辺は理解しているだろう。年末のことは、彼とも綿密に相談をしていかなければいけないかな。


「あぁ確かに。緋菜ちゃん、突発的に行動しそうだからなぁ。でも昌平くんとは、陽さんはタッグを組んだ形になってるんだよね?」

「そうだね。サポートするって話した。だから年末もね、彼にこうしたらいいんじゃない?って耳打ちしておこうかなって。ほら、買い忘れを買って来てもらうとかさ」

「いいねぇ」

 

 互いに年末の案を出し合いながら、ワインを飲んだ。明るい時間から大っぴらに飲めるって、本当に幸せ。つい、これ美味しいな、と声が漏れれば、成瀬くんに笑われる。そうなると、もう話は進まない。私達は、作戦会議そっちのけで、ただ休日のランチを楽しんでいた。

 最新の文房具の話を聞いて、私の唯一の趣味である万年筆の話をする。インクや紙のお勧めを聞いて、楽しくなっていた。作戦会議だなんて重々しい名前で呼び合っているが、こうして美味しいご飯を一緒にべる口実でしかないような気がし始める。彼はどう感じているか分からないが、私はそう思い始めていた。緋菜ちゃんや昌平くんよりも、ずっと年の近い成瀬くん。波長が合うというか、話をしていて自然に笑っていられる。彼は、本当に友人と呼べる人のような気がしていた。

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