第21話 許しては、くれない
ただいま、と玄関を開けて、また大きく深呼吸をする。根津の駅からここまで来る途中、征嗣さんは途中で追い抜いて来た。そろそろ着く頃だろう。
「はぁ」
新しい空気を吸い込んだというのに、結局、溜息が出た。悲しいかな私は、彼の背を見つけた時に思わず顔が綻んでいた。もう止めたい。その気持ちはちゃんとあるのに、あの人が私を忘れないで居てくれることが、嬉しくなってしまう。もう本当にどうにもならない。
部屋に明かりを付ければ直ぐ、静かな部屋にチャイムが鳴った。はい、と無表情に出るのはいつも笑ってしまいそうになる。そして征嗣さんは短く、「陽、俺」と言うだけ。エントランスを開錠して、部屋まで彼が上がって来る。頃合いを見て玄関を開けたが、そこ立っていたのは酷く苛ついた征嗣さんだった。
「お疲れ様。待ってもらってごめんなさい」
「あぁ」
それだけを言って、彼は部屋に上がる。何があったのか、とにかく不機嫌だった。今は何も聞かない。母の写真をパタンと倒して、私はキッチンに立った。
「コーヒー淹れるね」
笑顔を貼り付けて、いつものようにそう誘った。彼がこうしてここへ来ると、まずはコーヒーを淹れる。それから他愛もない話や研究のこと、それから学生の頃を思い出さねばならない異様な難しい話をして、それだけで帰ってしまうこともある。まぁ勿論、大人の交わりをすることだってあるけれど。それでも先ず、コーヒーを飲むのが私達の習慣だった。
「いい。陽、こっちに来い」
「え?いや、コーヒー」
「いらないから」
そう投げかけられる言葉が冷たい。ギロッと睨むような目。仕事で何かがあった訳では無い。これは、私に向けられている。成瀬くんと鉢合わせした時だって、ここまで不機嫌にはならなかった。他に思いつくこともない。可能性があるとすれば、さっき「お友達と飲んでいる」と言ったことくらいだ。でもそれくらいで、怒るだろうか。部署の歓送迎会と何が違うと言うのだ。
「陽、本当のことを言いなさい」
「え?何を?」
「今までどこにいた」
「御徒町、だけど。さっき話したでしょう?お友達と飲んでたの」
本当に今さっきのことを言われ、素直に驚いている。確かに、今までそんなことをする友人などいなかった。けれど冷静に考えれば、その位居たって良いのではないか。疚しい関係などではない。何なら寧ろ、この関係の方が後ろめたい。
「嘘、吐くんだな」
「へ?どうしてそう思うの?だって、証明のしようはないけれど事実なんだけど。信じてくれないの?」
「信じられるものか」
征嗣さんが理不尽に怒る。正直に話をしているが、私が間違っているのではないか、と思わせるに十分な様だった。
「陽、これが何だか分かるね」
「え?」
征嗣さんが鞄から、スッと小さな袋を出した。ゴシックな店のロゴが印字された茶色い袋。見慣れている店の袋。仕事を終えて、私が昌平くんと会っていた喫茶店のものだった。
「あ、あぁ……喫茶店に行きました。その後に飲みに行ったんだけど」
「あの時の男と一緒か」
「あの時?征嗣さん、見てたの?」
血の気が引いた。そして恐る恐る思い出している。昌平くんと会計をした時に、店の奥から感じた視線。薄暗い店内に向けて頭を下げた私。それが……まさか。
「新しい豆を買いに寄ったところだったんだ。まさか陽が、男と居るなんて思いもしなかったよ。どうして嘘を吐くんだ」
「嘘を吐いたんじゃないの。騙した訳でもない」
「どうして嘘を吐くんだ」
「本当なんだって。彼はお友達でね。好きな子が居るんだけれど、それの相談を受けてたの。そんなこと滅多にないから、頑張ってたのに。征嗣さんはそれを疑うの?」
悔しい。昌平くんの恋を真剣に応援しているのに。信じて貰えない。あなたは結婚しているのに、私はお友達とも会えないの?その言葉が喉元まで出掛かって、引っ込んで行った。
「陽、あの男のことが好きなのか」
「は?何言ってるの。彼は本当にお友達なの。この間知り合った女の子が居て、その子のお友達なんだけれど。彼はその女の子のことが好きなの。あの後も彼女と合流して飲んでたんだってば」
冷めた目で私を見る。事実しか言っていないのに、征嗣さんはまだ疑っていた。暫く私を観察して、それから急に乱暴に唇を重ねる。あ、嫌な予感がする。そう思いながら、私は天井を見上げた。
「痛っ」
征嗣さんが、私の肌に爪を立ててから、ガブッと噛みついたのである。それからまた一つ、二つ。恐怖と痛みとでパニックになりながら、私は必死に耐えている。止めて、と言ったところで、素直には終わらない。征嗣さんは、何を思っているんだろう。あぁいつからだったか。彼は洋服から見えそうなギリギリのところに、自分の跡を付けて行くようになった。まるで子供の持ち物に名前を付けるかのように。手軽に吸い付いては、そんなことを繰り返した。これもそれと同じこと。自分の苛立ちを上手く昇華出来ずに、それから素直に私の話を信じられずに、彼は苛立ちをぶつけるのである。そして醜い体になった私を抱き締めて、ホッとするのだ。
「陽……陽。どうして」
「本当に、嘘なんて吐いてないの」
「そんなの、同罪だ」
「痛い」
一段と強く、小さな胸に噛みつかれた。薄っすら涙が出たが、零れては行かない。成瀬くんに、殴りはしない、と言ったけれど、それは間違いだったか。確かに殴られてはいないが、これもそう含めて良いのだろうか。例えそうだとしても。臆病な征嗣さの心が分かってしまうから、私は突き放せはしない。結婚なんてしなければ良かったのに。征嗣さんの頭を撫で、私は彼の愛撫を受け入れる。次第に噛む回数は減り、徐々に快楽へと指が動き始めた。あぁ甘美な声が漏れていく。結局、終わりはしないのだ。私達の関係は。
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