第18話 一体何があったのか
十二月六日、金曜日。年末のイベントに向けて浮かれながら、定時で上がった同僚を見送ると、私はデスクの上に置いてある携帯電話にそっと触れる。征嗣さんから連絡は着ていない。
あの後、征嗣さんが来たのは2日程経ってからだった。成瀬くんのことを疑っていたようではあったが、結論から言えば、彼はあまり触れては来なかった。私の変わらなさも有ったろうが、あの日のことに触れれば娘の誕生日のことを言われる。それが分かっていたのだ。征嗣さんは、深く追及をして来なかった。それに、今まで私に、あまりに友人が居なかったことも大きかったと思う。陽に友達なんて、という感情が、征嗣さんの中で安心材料になったのだろう。
「小川さんは、少し残業するのかい?」
「そうですねぇ。どうしようかなって考えてたところです」
課長に話し掛けられて、チラリと携帯に目をやる。さっき緋菜ちゃんから連絡が着ていた。彼女は今日、昌平くんと猫カフェに行っている。その時に撮ったであろう可愛い猫の写真が送られて来たのだ。仕事を終えたら、連絡をしてみようか。それとも、彼女からの連絡を待つか。今それを考えながら、パソコンと向き合っている。デートの邪魔だけは、してはいけない。
「すみません……」
カウンターの向こうから、何だか男の子の小さな声が聞こえた。生憎カウンター寄りに座っている子たちが居なかったので、「はい、ちょっと待ってくださいね」と一先ず声を掛ける。私も35歳。老けたな、と思ってはいるけれど、よいしょ、とつい声にしてしまうと苦笑いしてしまう。
「すみません、お待たせしました」
えぇと、と眼鏡を持ち上げて見上げる。私は、身長160cm。そこまで低くはないだろうが、やはり男の子は大きい。首をもたげ、目の前の顔を見た。
「え……えぇと」
私はその顔を見ながら、パチパチと二度瞬きをした。明らかに私の前に居る男は、学生ではないのだ。今日、猫カフェに行っていたはずの男――
「どう、されました……か?」
「仕事中にすみません。あの……」
何かを言い始めた彼に、直ぐシッと人差し指を立てた。キョロキョロと辺りを見渡し、視線を確認する。幸にしてウチの部署には人がいない。課長がチラリとこちらを見たが、何か言ってくる様子もない。そもそも、大学という特性だろうか。部外者が居ても、好奇の目で見られにくいのである。私はそれを逆手にとって、堂々と彼に向かい合うことにした。彼のような学生は、構内には沢山いるのだ。
「あぁこれですね。今週末の」
「あ……えっと、はい」
「これはね、えぇと」
適当なチラシを手に取って、私は説明を始める。週末のセミナーの知らせだった。そこに、お気に入りのボールペンで近くの喫茶店の名を書く。今ここで、話を聞いてあげる訳にはいかない。とにかく、彼と別の場所で落ち合わねばならないのだ。
「この用紙を持って行って大丈夫なので、遅刻しないようにね」
「有難うございます」
良かった。昌平くんも察してくれた。セミナー、と書かれた紙をじっと見ながら、彼は大きく頷く。「出来るだけ早く行くから、ごめんね。ちょっと待ってて」と囁いて、昌平くんを見送った。その背を見て、ふぅ、と大きく息を吐く。ギリギリ、学生に見えたろうか。課長は自分の仕事をしているようだし、とりあえずは何とかなった。それにしても、昌平くんが来るなんて。緋菜ちゃんと何かあったのだろうか。
「小川さん、お友達だった?」
「え、いや学生ですよ。週末のセミナー、申し込みしたけれど、時間忘れたとかで。良くありますよね」
「そうだねぇ。就職の時期なら、メモ書きもしておいた方が良いと思うんだけどねぇ。若い子は写真で記録取るだけだったりするじゃない?」
「確かに。大事なことは二重三重にしておいても良いと思いますよね」
課長が何かを察したか、と緊張が走ったが、一先ずこの場は収まった感じか。適当にやり過ごして、胸をホッと撫で下ろす。変な様子を見せて、噂になって、征嗣さんに知れてしまったらいけない。まぁあの人は、私の仕事まで気にも掛けないだろうが。
急いで仕事を終わらせるために、速度を上げてタイピングし始めた。残業するか悩んでた人間が、昌平くんが来た後で、急に帰るなんて不自然だ。懸命に打ち込んではいるが、頭の中は彼らのことで一杯になっている。昌平くんが私を頼って来るなんて。緋菜ちゃんと、絶対に何かあった。彼女は何か言って来ていたろうか。猫の写真だけチラッと見ただけで、ちゃんとメッセージを読んでいなかった。
『陽さん、今晩暇ですか?』
『暇だったら、ご飯食べませんか。何か昌平が帰っちゃって』
あぁ、やっぱり着てた。昌平くんが帰ったからと、私を代打で呼ぶ。こういう所が、彼女の何だかなぁ、と思う所である。仮にそうだとしても、言い方というものがあるだろうと思うのだが、それは若い子には通じないのだろうか。私はこれからどうするかと策を練りながら、必死にパソコンを打った。急いでやるほどの物はないが、来週の自分が困らないように。
「課長、今日はお先に失礼しますね」
「おぉ、珍しいな」
「そうです?金曜ですから、私にも予定がありますよ」
「そっか。そうだな。お疲れ」
「お疲れ様でした」
珍しいな、と言われたことに、少しムッとした。私だって皆のように、早く帰ることだってある。いつも帰るのが最後なわけじゃない。そう1人でプリプリしながら、足を速めた。あぁその前に、緋菜ちゃんに連絡を入れておかねば。
『ごめんなさい。今日はまだ仕事が終わらないの。また今度でいいかな』
サラリと嘘を打ち込んだ。勿論、正直に言ってはいけないことくらい、私にも分かっている。それに、昌平くんの話が何なのか、どれくらいかかるか分からない。結局、今はこう返すしかないのだ。多分緋菜ちゃんは、昌平くんが帰ってしまったことの愚痴が言いたいはず。それは夜、電話でもいいから聞いてあげよう。
「成瀬くん……」
彼らのこととなれば、成瀬くんにも相談した方が良いだろうか。信号を待ちながら、彼の最後に見た顔を思い出していた。征嗣さんの隣に並んで、学内に来ていた彼を見送った時のことだ。何だか微妙な顔つきで、私達を見ていた成瀬くん。直ぐに『今夜会えますか』とメッセージが着たが、私はそれを今も適当にやり過ごしている。何となく、言われる話が見えているからだ。何度か連絡があっても、仕事が忙しい、と理由を付け一度も会っていない。
でも今日は仕方ない。直接頼られるとは思っていなかった人が、私の元に来た。つまり、緊急事態なのだ。どうしよう、と思う心を共有出来るのは、成瀬くんしかいない。意を決して、私は発信ボタンをタップした。
「はい。成瀬です」
彼は数コールで電話に出た。いつもの優しい声が、少し堅い。どこか事務的に聞こえるのは、まだ仕事をしているということだろう。
「すみません、小川です。お仕事中ですか」
「そうですね。もう少ししたら終わるかと思うんですが……どうしました?」
職場にいるうちは、彼は余計なことを言わないはず。そこに安堵した私は、事情を手短に話し始める。彼らが今日出掛けていたこと急に昌平くんが、私の職場に来たこと。緋菜ちゃんからも、連絡が着ていること。話の間に、彼は席を立ったのだろう。途中から後ろの声が静かになった。
「それは緊急事態ですね。昌平くんは?」
「今、近くの喫茶店で待ってもらってるの」
「急に来たのかぁ。余程のことがあったのかな。でもよく職場分かったね。僕は言ってないから、緋菜ちゃんかな」
「確かに。そうかも知れないですね」
仕事中だからといって、彼は急かすこともなかった。一つひとつ、一緒に考えてくれようとしてくれる。やっぱり優しかった。
「きっと緋菜ちゃんのことだよね」
「多分……でも、私一人でどうしようって思っちゃって。すみません、まだお仕事中なのに」
「いや、僕は良いんだ。どうしようね。とりあえずは、聞くしかないんじゃない?」
「あぁ……そうですよね」
確かに言われてみれば、もうそれしか答えがない。成瀬くんに相談をしたところで、現状は何も変わらないのだ。あぁ、バカ。予想外のことが起こったから、焦ってしまった。まだ彼は仕事中だと言うのに。
「陽さん、大丈夫?不安だよね。行ってあげたいけど、僕が行くと昌平くんが嫌かも知れないから」
優しい声が私に寄り添う。彼のような人は、幸せな家庭を築くのだろうな。フッとそんなことを思った。温かな、笑みの溢れる家族の中で、成瀬くんが微笑んでいるのが目に浮かぶ。羨ましいほどに、幸せそうな光景が。
「大丈夫。ごめんなさい。成瀬くんに話したら、ちょっと安心した」
「なら良かった。でも今日の話、後で作戦会議しないとね。明日はお休み?」
「うん。お休み」
「じゃあ、明日この間の広場のところでどう?昼前に」
「あぁ、うん。分かっ……た」
しまった。話の流れで、何も考えずにそう返答してしまった。歩きながら、ガクリと項垂れる。緋菜ちゃんや昌平くん、彼らと仲良くするならば、成瀬くんに二度と会わない訳にはいかない。そしてどうせ、昌平くんの話を聞けば、私一人でどうこう出来なくなるのは目に見えているのだ。仕方がない。彼を避けることは、出来ないのだ。
「よし、じゃあ頑張れ。本当に困ったらヘルプしてね」
「うん。有難う。では、行ってきます」
店はもうそこ。昌平くんを待たせている。気が重くとも、扉は開けねばならない。
「あ、陽さん」
「はい?」
「有難うね、連絡くれて」
「ううん、私こそ頼っちゃって、ごめんなさい。じゃあ明日」
「うん、また明日」と彼は小さな声で言った。プツッと直ぐ切れた電話。それを見つめて、ふぅと息を吐いた。明日、何を言われるのだろう怯える心。征嗣さんに隠し事が増える憂鬱。それなのに、ちょっとだけ楽しみ、と思ってしまっている。どれも、全部私だった。そういえば、成瀬くんとの会話が少し砕けたような気がする。友人ならば、多分それが普通だ。そんなことを思いながら、店の前に立つ。ダークブラウンの使い込まれた重たい扉。大きく深呼吸して、それを開けた。薄暗い店内。一番奥の赤いソファに、昌平くんが座っている。
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