第17話 会いたくない人
「課長、これ掲示板に貼って来ますね」
「おぉ、悪いな。よろしく」
セミナーの新しいチラシを持って、席を立った。寒くなり始めると、こういうことが皆億劫になる。私はというと、溜まっていくのが気になってしまうタイプだった。今日は金曜日。ーの新しいチラシを持って、席を立った。寒くなり始めると、こういうことが皆億劫になる。私はというと、溜まっていくのが気になってしまうタイプだった。今日は金曜日。少し早めに上がって、何か美味しい物を食べようか。
「あ、ヒナちゃん。お疲れ」
「あら、今日は終わり?またね」
「そうだ。ヒナちゃんさぁ、先生にセミナーのこと教えたでしょ?」
「え?あぁ、バレた?」
「今日ね、ほら前に話したでしょ。企業の人が来て、新商品の意見がどうのって。あれだったんだけど。先生が知ってたからさぁ」
「あぁそれで」
私を『ヒナちゃん』と呼ぶこの学生は、征嗣さんのゼミの子である。時々居る、懐こい学生の1人。あまり呼ばれ慣れてはいないが、今私がそう呼ばれるのは、何だかちょっと面白い。緋菜ちゃんに話をしたら、笑っちゃうかしら。
「別に良いんだけどさ。先生がそんなこと気にする訳ないのに知ってたから、絶対そうだって笑っちゃったよ。先生ね、今日娘の誕生日なんだって。ちゃんとプレゼントとか用意出来るのかねぇ」
「へ、へぇ。どうだろうね。そういう旦那さんだと、奥さんがやるんじゃないかな」
「だよね。あ、バイト遅れる。じゃあね」
「またね。気を付けて」
元気良く手を振ってくれるあの子。いつも私に「先生がこんなこと言うの」と、図らずも征嗣さんの日常を教えてくれる。駆けて行く背を見て溜息が零れる。寒くなって来たというのに、あんなに短いスカートを穿ける若さ。それが、ちょっとだけ羨ましい。こうしてぴゅぅッと吹く風も、学生にはまだ何も気にならないのだろう。
「誕生日かぁ」
また、図らずも征嗣さんの今日を知る。娘の誕生日。そっか。ちゃんと父親なんだもんな。重い現実が私に圧し掛かる。年数が重なっていく度に、私の罪悪感はどんどん色濃くなっていた。直ぐそこの掲示板が、何だか遠い。今日はやっぱり早く帰ろう。何か温かい物を食べても良いな。こういう時、誰かを気軽に誘えたら、気晴らしにもなるのだろうか。
「成瀬くん、か」
セミナーの案内を鋲で止めて、そう呟いた。彼は今独り身だって言っていたし、こういう時って誘っても良いのかな。いつも1人で食べる光景に、彼を加えてみる。
「ダメよね」
また呟き直して、ガラス戸の鍵を掛けた。こんなことを考えるのも、久しぶりだな。緋菜ちゃんを誘えばいいのだろうけれど、昌平くんとのデートの前に余計な感覚を与えたくないし。凄く気を遣ってしまう。そうすると、私が気軽に誘えそうなのは、彼しかいなかったのである。
実際に誘いはしないが、想像する相手が居ることで十分だった。奥の棟にある、もう一つの掲示板。今見に行かなくても良いけれど、期限の切れた掲示物を剥がしに行こう。肌寒さを感じながらも、そうやって足が動いた。私、そんな妄想だけで楽しめるんだ。ちょっと笑ってしまいそうだった。自分がそう思っているのも可笑しくて、上を向いてフゥと息を吐く。まだ白く見える程ではないその息を追った視線。そこに意外な人が居る。学内に居るはずのない人が。こちらに向かって歩いて来ていたスーツを着た男性2人。その1人が急に、「あっ」と声を上げ、私を見ている。それは、今勝手に思い出していた彼――成瀬くんだった。
「え……なる」
そう言いかけて、慌てて口を噤んだ。スーツの2人の後ろに立って居た人。あの人――征嗣さんだったからである。
「あぁ、小川さん。この間は有難うね。こちらはその文具メーカーの方だよ。あれ?君たち知り合いだった?」
征嗣さんが、そう笑顔で言う。ただ、あの目は疑って、探りを入れている目だ。流石に、私でも分かる。
そうか。さっきの子が前に言っていたな。新商品に学生の意見を取り入れたい企業が話を聞きに来る、とか何とか。就職課にも話は来ていたが、それは私の管轄外。企画書がチラッと目に入ったくらいである。あぁまさか、こんなところで彼に会うなんて。
「いや、人違いかと思います。メーカーの方でしたら、今後お世話になるかも知れませんので宜しいでしょうか。就職課の小川と申します」
仰々しくポケットから出した名刺を彼に差し出した。まだキョトンとした顔をしている成瀬くん。ごめんなさい。どうか私を知らぬ振りをして欲しい。この間は、とかそんなことは、一切口に出さないで。私は祈りながら、彼へ名刺を押し込んだ。
「すみません。知り合いととても良く似ていたので。成瀬と申します」
彼から差し出された名刺。私はそれを受け取りながら、成瀬さんですね、なんてワザとらしく繰り返した。これを戴くのは2枚目なのに。さも初めてのような顔をして、一緒に居た男性とも、同じように名刺交換を済ませた。緊張して、手が微かに震える。絶対に征嗣さんに見られてはいけないと、少し強く彼らの名刺を握っていた。
「そうだ、小川さん。うちのゼミの子が、講座の案内貰いに行くだろうから宜しく頼むよ」
「了解しました」
征嗣さんは疑い始めている。あの目。全然微笑み掛けて来ない視線。あぁこれは面倒なことになりそうだ。
「では、我々はこれで失礼します。教授、またご連絡致しますので宜しくお願いします。娘さんのお誕生日おめでとうございます」
「あぁ、有難うね。それでは」
丁寧にお辞儀をする彼ら。私は表情を変えぬまま見送った。征嗣さんの脇にぽつんと立って、小さく会釈をして。その流れのまま、では、と立ち去ろうとする。簡単にそれが許されるとは、思ってはいないが。
「ヒ……小川くん。知り合いだったのかい?」
「え?いやぁ、全く。先生。私って、結構従兄妹に似てるとか言われるんですよね。そんな類の間違いじゃないですか?」
必死に笑顔を作ったが、頬が引き攣っているのが分かる。一つも笑っていない征嗣さんが、なるほどなぁ、と納得した素振りを見せた。さっきよりも、風が冷たく感じる。冷や汗が出始めたからだろうか。征嗣さんがボソッと、近いうちに行く、と呟いた。ゴクリと唾を飲み込んでから、では、とにこやかに微笑み掛ける。
「失礼します。娘さんのお誕生日、おめでとうございます」
征嗣さんが少しだけ、表情を崩した。私に言われるのは、一番嫌だったのだろう。早足でその場を去る。征嗣さんは気不味そうに、有難う、と言ったが、それも冷めた顔をしてやり過ごした。
「どうして?」
私ばかりが我慢をして、私ばかりが嫌な思いをしなければいけないんだろう。友人だって、居たって良いはずなのに。彼はそれを許さない。自分には妻子があるのに。私には、友人すら許さない。こんな関係って、正常なのか。あぁ、違う。そもそも、私達の関係は異常なんだった。フッと乾いた笑みが零れた。もう限界が来たんだろう。永遠に続いていく関係ではないのだ。彼は離婚なんてする気はないし、私もそれを望んではいない。ただ、私達の後ろめたい関係を、すっぱりやめてしまえば良いだけだ。ポケットに入れていた携帯が震える。きっと成瀬くんだろう。彼は気付いてしまったろうか。不安になりながらも、掲示板の前に立つ。期限切れの掲示物を剥がしながら、また大きく溜息を吐いた。
何があっても、誰かに気付かれてはいけない。成瀬くんが気付いてしまったとしても、認めてはいけない。もう終わる関係なのだとしたら、知られないままで居た方が良いに決まってる。これは、私と征嗣さんの問題。他の人に愚痴を言ったり、相談をすることもない。そう決めて、私は彼との関係を続けて来たのだ。今までと同じ。大丈夫、大丈夫。私は不穏になる胸を無視して、何とか平静を装っている。
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