第16話 私の秘密
週末は何だか忙しかった。あんなに人と会って、話して、笑って過ごしたのなんて、いつぶりだったろう。皆、良い子で「陽さん」と私を慕ってくれた。ちょっと素直じゃなかったりもして、それもまた可愛らしくて。何だか一度に、沢山弟妹が出来たような、そんな気持ちでいる。研究室の並ぶ棟の階段を上りながら、1人フフッと笑ってハッとする。幸いにして誰もいないが、気を抜いてはいけない。小さく首を振って、また階段を上る。私も友人だと言ってくれた彼らの優しさ。嬉しかったのに、結局は素直に受け止められなかった。真っ直ぐに見られると、つい背いてしまう。もういい大人なのだから、そういう所は上手くやり過ごさないといけない。今の状況が続ていくのなら尚更だ。
そんなことを考えながら、立った扉の前。この向こうに、全ての原因がいる。深呼吸をして、薄暗い気持ちを吐き出す。それから、重たい、重たい扉をノックした。
「失礼します。就職課小川です」
「あぁ、どうぞ」
研究室に入り、軽く一礼する。今日もあの人――
「お問い合わせのあった書類、お持ちしました」
「あぁ悪かったね。僕が取りに行けば良かった」
「いえ。そこまで手間ではなかったので」
「そう?いや、悪かったよ。データ送って貰えば済んだ話だ」
彼はそう言うと、一応は苦笑いをして見せた。愛想が良いわけではない。だからこういう時でも、片頬は引き攣っている。
教授であるこの人と就職課の私。現状では、接点などないに等しい。たまたま彼のゼミが何処かの企業に協力するとかで、マナー講座の受講歴等の問い合わせがあった。企業の方とお会いするのに失礼があってはいけない云々言っていたが、多分この情報は必要ない物だろう。単なる私を呼びつけるための材料に過ぎない。
「一昨日は悪かったな」
「一昨日……まぁ、それは」
ほら、本題はこれ。この人はこういう人。嫌味のように言ってしまってから、急に反省をし始める。私としては、別に謝ってくれなくて構わない。寧ろ誰かに聞かれる方が、相当不味いのである。
「別に誰も来ないさ。今日は学生も来ないだろう」
「いえ、そう言うわけには」
ついキョロキョロと警戒した私に、彼は偉そうにそう言った。この階の最も奥に位置しているこの部屋。彼に用事がない限り、足音が近付いてくることはない。それでも、ここは学内だ。そういうプライベートな話をする場ではない。
「急にさ、妻が子供を連れて実家に帰ったんだ。だからさ」
「そうでしたか。こちらこそ、すみませんでした」
謝る必要などないことは、私自身が一番分かっている。分かってはいるが、長年の『残念な習慣』とでも言おうか。彼との力関係がハッキリしているが故の、悲しい性である。
「また、連絡入れる」
「……はい」
「あぁでもさ。お前に休みの日に遅くまで会っているような、友人が居るとは思わなかったよ」
「そう、ですよね。たまたまです」
何とか微笑み返した。あまり深く突っ込まれたくはない。面倒なことになるのは、目に見えている。
「男、か」
「は?あぁ、いえ。学生時代の友人です」
ほら、始まった。自分はお偉い先生の娘と結婚をして、子供までいるくせに。私に男の影があることが気に入らない。昔からそうだった。妬いてくれる程に愛されているのだ、と思えたのはいつまでだったろう。こんなことを10年以上続けていれば、今はもう面倒なだけである。
「竹下か?それとも、田中……」
「いえ、高校時代の友人なので。先生はご存じないかと」
「そうか」
「では、仕事がありますので。失礼します」
話を切り上げたが、多分納得はしていないだろう。私たちの関係など、馴れ合いだ。甘い関係ではない。不倫、と括られてしまえばそれまで。社会的に非難される関係性であることは、何も変わらない。
「陽、そんな顔するなよ」
「いえ、仕事中ですので。もう行きますね」
どんな顔だ。無愛想だ、とでも言いたいのか。そんなことを言うのなら、自分だって同じじゃないか。腹が立つ。
「やめてっ。……やめてください」
何とか彼を突き放す。そして、下から見上げるように睨みつけた。どうしてこんなことをするの。そんなに私が誘いを断ったのが面白くなかったのか。自分は勝手に結婚をしたくせに。あの時の私の絶望を、いつまでも濁したくせに。キッと睨みつけた私の目は、少し潤んだのが分かった。泣きたくない。そんなの、絶対にしない。
「すまん。悪かったよ」
心にもないのに謝罪をする彼。苛立った表情をまたワザと見せつけていた。それでもこの人は、余裕の表情しかしない。どうせいずれは、私が甘えてくるとでも思っているのだろう。
「本当にやめて下さい。ここは学校です。それでは失礼します」
「いや、おい」
私はその言葉を無視して、そこを飛び出した。閉まる扉の隙間で、呆気に取られた顔をしていたあの人。もしかしたら、私の抵抗を初めて感じたのだろうか。今までだって、何度も何度も苛立ちを見せていたというのに。
清算するタイミングを逃したまま、私達は10年と少しの歳月を過ごしていた。反抗したのは、今日が初めてな訳では無い。けれど、彼には感じられていなかったことなのかも知れない。
あの人は、私のことを見ているようで、見ていない。そのくせ、私が離れて行こうとすると邪魔をする。全力で邪魔をする。だからいつの間にか、諦めてしまったのだ。自分の幸せ、というものを。
階段を駆け下りる。こんな関係を清算出来ない自分が悔しくて、情けなくて、嫌いだ。それでも、泣きはしない。泣くのは負けだ。私はもう、それほど彼を愛してなどいない。
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