第12話 2人並んで
「緋菜ちゃんが楽しそうで良かったです。陽さん、本当に有難うございました。大事な友人をなくすところでしたから」
「いえいえ。仲良しが一番よね。大人になると、昔の友人とはなかなか会わないし。だからと言って新しい友人が、同じように出来るわけでもない。大事よねぇ」
「そうですね。同僚とも違う、楽しく酒が飲める仲間は、本当に大切にしないと」
「そうねぇ」
律儀に、また礼を言う成瀬くん。そんなにもこの関係が、彼にとって重要だったのか、と考えてしまう。30歳を過ぎた男の人は、どれくらい友人達と関わるものなのだろう。結婚したり、子供が出来たり。そんな環境の変化で、男の人も変わるものなのだろうか。
「陽さん……も、ですよ?」
「ん?」
「陽さんも、僕の大切な友人です。だから、また飲みに行ったりしましょうね」
「あぁ……うん」
どんな気持ちで、彼がそう言うのか分からない。3人で居る時と、私が居た今日。何か変わったのかも知れなければ、それは悪い方向だった可能性すらある。彼の真意を探ろうとまでは思わないが、掘り下げないように、適当にやり過ごした。それは誰の為でもない。私の為である。
「そう言えば、陽さん。何も考えてなかったけれど、湯島から乗ります?」
「うぅん、ちょっと悩んでる。一駅だから、すぐ着く距離だし、歩いて帰ろうかなって」
「あぁ、じゃあ。お散歩しません?僕、送って行くので」
「いや、いいわよ。今日は、不忍通りの方を歩いて行くから」
「……じゃあ、そっち通って行きましょう」
彼の誘いを断ったからか。成瀬くんが少しムッとしたように見えた。私はただ怖かったのだ。どんどん彼らから離れにくくなってしまうことも。もしかしたら、あの人に見られてしまうかも知れないことも。けれど成瀬くんは、私の断りを無視して、先へ行ってしまう。「ほら、陽さん。行きますよ」と、何なら手招きで呼ぶのだ。私が帰る方向を阻まれた気がして、仕方なく諦めた。これは彼の優しさなんだ。女を一人で帰らせるわけにはいかない、という使命感なんだ。私はそう自分に言い聞かせた。
「腹ごなしの散歩です。このまま家に帰ったら、寝ちゃいそうだから。三十過ぎて、気にしてるんですよ。ちゃんと貯蓄されてきてるなぁって」
そう言って彼は、大して出ていない腹をポンと叩いて見せる。彼の優しさと頑固さ。苦笑いしながら、有難う、と受け取った。
「あんまり気にしたことなかったけれど、この辺って散歩するには良いですね」
「あぁ、うん。春は桜が綺麗だし、夏は蓮。鳥も沢山いたりしてね。のんびりするには良いよ。あぁでも」
「でも?」
「いや、冬は寒いから。のんびりするなら、春かなぁと」
「ですよね」
そう言い終えてから、何を当たり前のことを、と気付く。成瀬くんの柔和な笑みと真っ直ぐに会話をすることに、私は緊張していたのだろう。
「あぁ、でも。寒くなったら、カフェも良いですよ。あっちとか、えぇと向こうとかに、池を見ながらゆっくり出来るところがあるんです。おすすめです」
何とか普通の会話をしようと、キョロキョロしてカフェの方を指差した。まぁ店は1つではない。スマホで検索をすれば、私が知らせなくとも、彼も直ぐ見つけられるはずだ。世の中便利になったなぁ、なんて思わず口を滑らしそうになった。
「じゃあ、今度。そのカフェ行きませんか?」
「へ……?」
「あぁ、いや。深い意味ではないんですけど、ただ、ゆったり読書するのもいいなぁと思って。ホント深い意味はないんですけど」
彼の誘いに驚いた私を見て、成瀬くんはそう言うのだ。そんなに深い意味などないと言われると、流石にちょっと引っ掛かる。私だって、そんなことを望んではいない。もう私には、華やかな恋だけじゃなく、人と深く付き合うことすら出来そうにないのだ。またいつものように、薄暗い人生だな、とつい自分で嘲笑った。
「いや、そんなに繰り返さなくても……かえって傷付きます」
「すみません」
「やだ、謝られるのも傷付くって」
「えっ、あっ。ごめんなさい。あっ、あ……」
絵に描いたように、成瀬くんはあたふたしていた。ふざけている様子はない。図らずも言ってしまった、という状態なのだろう。成瀬くんも面白い子ねぇ、と思わず笑ってしまった。今見ていた様子、それからこの1日で見た彼は、悪い人ではなく誠実そうに見えた。それが、私の中の殻を少し叩いていた。あの人が、日曜日のこんな時間にここに来るはずがない。そう微かに気付いていたことを、心が叫んだのである。
「忘れて……いや、本当に行きません?」
「ん?カフェに?」
惚けた振りをしたが、内心バクバクと心が跳ねる。そんなこと、最近言われたことがない。男の子と2人で会うなんて、考えたことすらなかった。それは、触れても良いものなのか。
「そうです。そこに行ってみたいなって言うのもあるんですけど、昌平くんたちの作戦会議もしたいなって」
「あぁ、うん。……そうねぇ」
行こう、とは簡単には言えなかった。そんなことをしたら、あの人はどうするだろう。何も思わないだろうか。いや、そんなはずがない。
「ごめんなさい。旦那さん?彼氏さん?嫌がりますよね」
「旦那さん?誰の?」
「陽さんの」
自分のことを話さずに居た私。普通なら居るのであろうそういう相手を、成瀬くんは気に掛ける。居ない人だっているよ?居るのが当たり前じゃないよ?そう冷静に思い始めたが、きっと彼はそれも理解していると思った。それを解った上で、探ろうとしている。私を――この小川陽というちっぽけな人間を、知ろうとしてくれている。
「……いないわよ、そんな人」
そう、そう言うしかない。堂々と発表出来るような相手など、誰もいないのだから。ただ、一抹の寂しさが心を抉った。
「じゃあ、お誘いしても大丈夫ですよね?作戦会議って言う名目で」
彼もまた、キラキラした目で私を見る。ただ緋菜ちゃんとは少し違って感じるのは、成瀬くんが男の子だからだろうか。本当に深い意味などないのだろうに、抉れた面と反対側の心が大きな音を立てる。そして、これはノーとは言えない状況だった。
「うぅ……作戦会議、ね」
「はい」
「分かりました」
渋々、本当に渋々オッケーを出したのは、緋菜ちゃんの為だ。私を『お友達』と呼んでくれたあの子の為。それから、不器用そうなショウヘイくんの為。自分に言い聞かせた。変に意識をするな。浮かれるんじゃない。深い意味など、ないのだ。
「僕は、今日が楽しかったんです。何だか久しぶりに、遊んだって言う気がして。昌平くんたちも楽しそうにしてました。だからね、陽さんも同じように思ってくれるといいなぁって、そう思ったんです」
「え、あぁ。そうね」
「さっき陽さんも言ったでしょう?昔みたいに友人を作るのは難しいって。だから、こういう出会いは大切にしたいんですよ」
「うん、そう……確かにそうよねぇ」
あまり、私を知ろうとしないで欲しい。色んな嘘を吐かなきゃいけなくなる。私は、友人ではない。緋菜ちゃんとは少し仲良く出来るかも知れないけれど、彼らとは深く関わるつもりはない。だから、知り合い程度で良いのだ。心苦しい願いを持った時、成瀬くんが「ショウヘイくんたち、仲良く帰ったかなぁ」と夜空を見上げた。
「うぅん、大丈夫だとは思うけど。緋菜ちゃんも、今日は楽しそうだったし」
「昌平くん、待ち合わせの時に落ち込んでて。何だか結構前から待ってたみたい。チケット見つめて、ぼぉっとしてましたよ」
「そっかぁ。あの子も良い子よね」
ショウヘイくんは、緊張して今日を迎えたのだろう。今までの関係性を知らない私は、また喧嘩になったらどうしようか、という不安も勿論あった。けれど、それも杞憂に過ぎなかったのだ。昨夜のことを問い質そうともしなかったし、腫れものを触るような扱いもなかった。彼は彼で、色々考えて来てくれたのだろうと思っている。
「それにしても、昌平くんが保育士って言うのは驚いたなぁ。言われてみたら、あぁ合ってるねって思えたんだけれどね。成瀬くんも知らなかったんでしょう?」
「そうですね。だからちょっと、昌平くんにも拗ねられました」
「あら」
ふふふって笑いながら、歩いていた。こんな風に堂々と、男の人と2人で歩くなんていつぶりだろう。
あぁでも、これは異性じゃなくても感じることだろうか。いつもならば、どうしても下を向いて歩いてしまう。自分のしていることが後ろめたいと自覚しているから、前を向いて、笑って、誰かと楽しそうに歩くなんて出来ない。それは自分への戒めとして、その道を選択し続けている自分への罰として、1人勝手にそうしているのだ。あの人は、何てことない顔をして、堂々と生きているというのに。
「あれ?陽さん、携帯鳴りませんでした?音が聞こえましたけど」
「え?あっ、ちょっ、ちょっと待って」
そう言われて、慌てて鞄を探った。こんな時間に連絡が来るなんて、相手は大体分かっている。
急いで取り出した携帯には、1つメッセージが届いていた。『今から行く』と書かれた、冷たさを感じるような一言。あの人だ。血の気が引いていく。あの人に見られたのではないかと、一瞬で目の前が暗くなった。冷静になれ。冷静になれ。懸命に頭を働かせ、今の状況を知られた訳では無いだろう、と見当を付ける。今どこだ、と言われれば、もう着いているかも知れないけれど。これはまだ、電車にも乗っていない。
「何かありました?大丈夫ですか」
立ち止まったままの私を、成瀬くんが心配そうに覗き込んだ。何でもないよ、と笑わなきゃ。迷惑メールだったよ、とか適当に言わなくちゃ。そう思うのに、頭の中は『どうしよう』で一杯だった。
私はあの人に、何と返す?そもそも今どこにいるのか分からない。こんな時間、家でないことは確かだ。もし近くに居て、直ぐに来られるとしたら?成瀬くんと直ぐに別れて、電話を入れなくちゃ。何とかぎこちない笑みを作ろうとした時、私の携帯がまた何かを受信した。
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