第9話 動物園の目の前で
「緋菜ちゃん。こっち、こっち」
午後12時55分。西郷隆盛像の前で、私は手を上げた。目の前には、昨日とはまた違う、キリッとした服を着た緋菜ちゃん。緩い服を着て、フワフワの髪を三つ編みで抑えている私とは、やっぱりタイプが違うな。サラサラの黒髪が、彼女が駆ける度に綺麗に揺れた。
「昨日はすみませんでした。有難うございました」
「いえいえ」
私の元へ駆け寄った彼女は、真っ先に昨夜の件を詫びる。全ては覚えていないだろうが、彼らとのことは忘れていないか。
「それより、急に動物園なんて言い出してごめんね。本当は美術館って思ったんだけれど、今日って文化の日で。美術館とか入館料が無料になるから、人が多いかもしれないって思って」
「あぁ、それで」
それらしい言い訳をして、彼らが待っているであろう場所へ足を運ぶ。今のところ、成瀬くんからの連絡もない。つまりは、予定通りという事だろう。
「緋菜ちゃんは、何見たい?やっぱりパンダ?」
「そうだなぁ。トラ?かなぁ。居ましたよね、確か」
「多分居ると思う。……自信はないけど」
歩き始めれば、気分はもう動物園だった。思いの外彼女も、楽しもうとしてくれていることにホッとしている。
私が彼女を動物園へ誘ったのは、今朝のことだ。昨日の彼らと同じ、賛同を得るまでに時間がかかると覚悟していたが、実際は想像と違っていた。彼女は、すんなりと行くことに同意したのだ。実際は、何を考えたかは分からない。でも私は、新しい何かを得たい、という思いがそうさせたのだろうと思っている。
「あ、そうだ。今日はマップとかは見ないで歩こうよ」
新しい発見がしたい彼女に、私はこう提案する。えぇ、と驚いた顔をした緋菜ちゃん。まぁ普通はそうだろう。私だって、目当ての動物が居れば、それを優先するだろう。でも、今日の目的はそれはないのだ。
「だってね。昨日の興味と今日の興味は違う。パンダを見ようって意気込んでいたとしても、もしかしたら小さな鳥の方に惹かれるかも知れない。だから気の赴くままに動いた方が、心に響くと思うんだ。まぁ要は勘よ」
へへへッと笑った私に、真面目な顔をして「なるほど」と彼女は頷く。私が思った以上に、彼女は真剣に何かを得ようとしているようだった。
「陽さん、本当にこれから色々教えてもらえませんか」
「ん?本当に?」
「私、本当に変わりたいんです。陽さんだから言っちゃいますけど、やっぱり悔しかったんです。昨日。お前は空っぽだって言われたみたいで」
「いやいや、そこまでは言ってなかったよ」
慌てて否定したけれど、それは彼女も分かっているのだろう。いじけるでもなく、真っ直ぐに私を見て来る瞳。本気なのは、それで確信している。変わりたい。そのきっかけにするには、いい機会ではある。問題は、私が何か力になることが出来るかだ。
「そうねぇ。あ、緋菜ちゃん。家のことやるの苦手でしょう」
「え、バレました?」
「うん。流石に玄関を見たら分かる。それをね、とやかく言うつもりはないんだけれど。もし掃除する気になったら、手伝うよ」
昨夜見た、彼女の家の玄関を思い出している。靴はバラバラと置かれ、雑然としていた。どんな仕事をしているのか知らないが、ゆっくり掃除が出来ないのかも知れない。そうも思ったが、携帯を取り出すまでに出て来た物。あれこれ思い返しても、片付け自体が苦手なのだ、と感じてしまうのだ。
「本当?でも、今日ゴミだけは捨てました。彼氏の……元カレの忘れ物も全部。それと連絡先も」
「思い切ったねぇ。でも前を向くのなら、引き摺ってもね。良いことじゃない」
ポンッと彼女の背を叩くと、緋菜ちゃんは晴れやかな顔をして前を向く。それが、私は少し羨ましかった。彼氏と別れた翌日に、こんなにもキラキラとした顔をして、新しい未来を見つめて歩めるのだ。同じようなことが、私に出来るか。あの人が居なくても、私は生きて行けるのか。何度も繰り返して来た問答を、悶々と心の中は繰り返していた。
「そうしたら、気分転換に模様替えしようかなぁ。陽さん手伝ってくれます?」
「休みが合えばいいよ。緋菜ちゃんって、販売だっけ?」
「あ、そうです。仏壇の」
「仏壇?」
模様替え位なら手伝える。そうホッとした私にサラッと返って来た、思いもよらぬ答え。思わず、目を丸めてしまった。販売員とは聞いていたが、洋服だとか装飾品を想像していた。仏具だったとは。
「そっかぁ。ちょっと驚いちゃった」
「あぁ、そうですよね。大体がそんな感じです。でも、素直にそう言ってくれるのは有難い。だって、何でそこで働いてるの?なんて根掘り葉掘り聞き出そうとする人もいますから」
「えぇ。そんなの緋菜ちゃんの勝手じゃない、ねぇ。お客さんにいちいち許可が必要なわけでもないし。何だか苛々しちゃうわね」
そう聞きたい気持ちも、分からなくもなかった。彼女の印象とは、あまりにもかけ離れているのだ。緋菜ちゃんは華やかさがあって、人が集まって来そうな所に居るのが自然である気はするから。だからと言って、それを客にとやかく言われる筋合いなどない。お客様だけれども、他人である。他人の人生に気軽に踏み込んで来やがるな。私だって、ついそう思ってしまった。
「陽さん、有難う」
「え、何で。お礼を言われるようなことはしてないよ」
「そう?でもいいの、有難う」
ニコニコしながらそう言うけれど、私は礼を言われる程のことはしていない。当たり前だと思っていることを、発言したまでである。「何、変な子ねぇ」と言えば、緋菜ちゃんは嬉しそうにケラケラッと笑った。あぁ良かった。多少であっても、悲しみから離れられる時間になっている。その笑みを見て、一つ胸を撫で下ろした。動物園の思い出なんか話しながら歩く私達は、本当に友人のようだ。あの人が見たら、何て言うだろう。フンって、鼻を鳴らして終わりかも知れない。それも、ちょっと楽しい気がして、こっそり口角を上げた。
談笑しながら着いたのは、上野動物園の表門。見た所、彼らは……いない?不自然なことなく、チケット売り場の方へ流れるが、ショウヘイくんが躊躇ったりしているのだろうか。成瀬くんから連絡が着ているかも知れないが、流石に今見ることが出来ない。
「さ、着いた。チケット買わなきゃね」
「今いくらするんだろう」
「あぁ、私も知らないや。800円くらいする?」
「うぅん、キリよく500円でどう?」
券売機の方へ向かいながら、2人で予想を始める。休日の動物園。いくら昼過ぎだとは言え、仲良さそうに肩を並べる家族や恋人たちで溢れている。それをつい、悲しい目で見てしまう。もしかしたら、あの人もこうして……
「残念……600円。600円だ」
「ん?何でショウヘイがいるわけ?あ、成瀬くんまで」
チケットをヒラヒラッとさせながら、ショウヘイくんが顔を出す。瞬時に緋菜ちゃんの顔は苛立ち、私をキッと睨む。こんにちは、と穏やかに挨拶をした成瀬くんの声すら、聞こえていなかったかも知れない。
「緋菜ちゃん、ごめんね。私が呼んだの」
「……陽さん、騙したの?」
「騙した、か。そうね、騙したことになるのかな。ごめんなさい。でもね、このままだったら緋菜ちゃんあのお店に行かなくなるでしょう?彼らに会うのをすっぱり避ける。違う?」
きっと彼女は、何もしなければあの店には二度と行かないだろう。いくらイカフライが美味しいとは言っても、彼らに会う位なら別の店を探す方を優先する。そうしてしまう気持ちも分かるから、そんな寂しい方を選択しないで欲しい。伝わると良いけれど。
「そんなこと、ないよ」
俯きながら、緋菜ちゃんは否定した。目は伏せたまま、私の方は見ない。
「私はね。素のままの緋菜ちゃんが居られる場所は、失くさないで欲しいなって思ったの。彼らって言うよりも、あのお店。緋菜ちゃん好きでしょう?」
「それは……うん。あそこのイカフライ、美味しいから」
「うん、うん。あのお店好きなんだろうなって思ったから、昨日のことで行きにくくなっちゃうのは、嫌だなって思ってね。彼らも夕べ反省してたし。だから、皆で楽しく動物園行こうって、私が誘ったの……嫌だった?」
綺麗にリップの塗られた唇を尖らせて、子供のようにいじける。それを覗き込んで、様子を窺った。
「よし、分かった。皆で見た方が楽しいかも知れないけれど、嫌だったら別行動にしようか。動物見てるうちに、気が変わるかも知れない。どうする?」
口元を少し動かしながら、彼女は答えを探している。難しいことは言っていないし、本当に嫌なら逃げ出したって良い。ただどれをとっても、今の彼女に選択をさせるのは、嫌なことでしかないのだろう。彼女の答えを待つ。彼らも黙り込んだまま、気不味そうに目を合わせていた。そこに、小さな、消えそうな声が聞こえる。「……行く」と。私は緋菜ちゃんをもう一度覗き込んで、出来るだけ優しく微笑んだ。
「そうね、よし。そう決まったら、行きましょう。チケット買わなきゃね」
そう言っても、綺麗な顔はずっと下を向いたまま。への字に口を曲げている。あぁきっと顔を上げるタイミングも、笑うタイミングも、もしかしたら分からないのかも知れない。
「あ、陽さん。買ってあるよ。4枚」
「今日は、ショウヘイくんの奢りだそうですよ。僕のも出してくれて」
緋菜ちゃんをじっと見るショウヘイくんは、何も言わずにそれをグッと彼女に突き出した。少し顔を上げたけれど、口を尖らせ、チラリとそれを見た視線は直ぐに地面を向く。ヒヤヒヤしながら見つめている私と成瀬くん。八の字に眉を落とし、アイコンタクトを取る。その時、少しずつ緋菜ちゃんの右手がチケットへ伸び、聞こえて来た微かな「有難う」。私達は視線を合わせると、ちょっとだけ微笑み合った。
「緋菜ちゃん。昨日はごめんなさい。僕もショウヘイくんも心配し過ぎちゃったんだ。2人でね、反省したんだよね。ほら、ショウヘイくんも」
「お、おぉ。悪かったな。ごめん」
不器用に目を合わせない2人に、成瀬くんが助太刀する。ショウヘイくんは、その場をやり過ごすだけのような軽い謝罪だったが、拳をグッと握り込んでいるのが見えた。きっと、本当に言い過ぎたと反省しているのだ。あとは緋菜ちゃんがそれを受け止められるか。
「……いいよ。別に。フッてやったんだから」
緋菜ちゃんが、ボソッとそう言った。それでも口元にはギュッと強く力を入れて、何かを堪えているようだった。彼女の今一番の強がりなのだろう。私達3人は、顔を見合わせて小さく頷き合う。そう言えてしまえば、もう後は楽しんで忘れるだけだ。
「よし、なら行くぞ。もういいだろう?」
「うん。……いい」
ショウヘイくんの言葉に、緋菜ちゃんがようやく顔を上げる。酷く気遣われる訳では無く、ただいつも通りに。辛辣な対応だったとしても、もうあれで良い。きっと別れた彼のことを忘れるのは、そう時間は掛からない気がした。
「ほら、皆。行くよ」
一瞬凛々しい顔をして、緋菜ちゃんがそう言った。ショウヘイくんは呆れ顔。私と成瀬くんは、そんな2人を見てクスッと笑った。すると、急に走り始めた緋菜ちゃん。私達を煽るその顔は、心のつっかえが外れたように見える。恐らく、あれが彼女らしい彼女なのだろう。
緋菜ちゃんを追いかける昌平くんと、少しだけ歩を速めただけの私と成瀬くん。大人4人笑いながら、動物園へ踏み込んだ。何だか今日は楽しくなる。私はそんな気持ちで、一杯になっていた。
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