第8話 共犯
それから、文房具の話をしていたら、2、3分なんて直ぐ終える。駅に着いて、もうそこにはタクシー乗り場。少し残念な気持ちになるのは、この僅かな時間が楽しかったのだと思う。女同士で様々な話をしていたのとは、また違う。趣味の話を延々をしていられるような、そんな気楽さだった。
「あ、そうだ。陽さん、連絡先教えてもらっても良いですか」
彼がそう言うと、私の胸はドキンと跳ねた。それでも平静を装おうとするのだから、自分に笑ってしまいそうになる。「あぁそっか。その方が明日便利ですよね」なんて言って、澄ましているのだ。多分、彼もそういう意味で聞いたはず。だから、分かっていますよ、という顔をしている訳である。
もう何年も更新されていない私の携帯。思いがけず、今日は2件も増えた。緋菜ちゃんにしても、成瀬くんにしても。こんなこと何てことない行為だろうな。明日で終わってしまう関係だとしても、何だかそれがくすぐったい。私にとっては、その位嬉しいことなんだけれども。
連絡先なんて気軽に交換しないから、もたもたと操作をする私を、彼は何も言わないまま笑顔を維持して待っていた。ええと、と漏らしながら、実は結構焦っている。確か、こう操作するんだった。そうやって思い出しながらやっているものだから、呆れられても仕方ない。まぁ成瀬くんの表情からは、その気持ちは読み取れないけれど。
「成瀬くんは、緋菜ちゃんのことどう思ってますか?」
場を持たせたかった私は、徐にそんなことを聞く。これは結構重要なことだと、今更気付いたのである。
「何ですか、突然。まぁ綺麗な子だな、とは思いますけど、飲み友達と言うか、そんなところですね」
「そ、そっか。うんうん、なるほどね」
「あ、出来た」と小さな声を漏らして、私は携帯を差し出した。そんな声に気が付かず、彼はサッと連絡先を登録していく。男の人の指が、サッサッと携帯を操作する。あの人とは違う指。ボォッとそれを眺めた私に、じゃあSMS送りますね、と直ぐにポンッとショートメールが飛んで来た。メッセージアプリのIDを交換すれば良かったんだ、と今更気付いたってもう遅い。
「じゃあさ、昌平くんはどう思ってると思う?」
「昌平くん?」
「そう。明日お誘いしたのは、純粋に皆に仲良くいて欲しいなっていう気持ちだったんだけれど。もしどっちかが彼女を好きだとか、両方が好きだとかって言う話だったら、どうしようって思って」
あの僅かな時間の感覚では、ショウヘイくんは緋菜ちゃんのことが好きだ。好き、というか、気にはなっているのだと思う。本人がそれを認めているかどうか。問題はその位だろう。そしてそれ以上に厄介だと気付いたのが、感情を表に出さなかった成瀬くんもまた、緋菜ちゃんを好きだった場合である。
「うん、なるほど。それを僕に聞きます?もし二人共緋菜ちゃんのことが好きだったら、ここで既にややこしくなり始めますよ?僕が陽さんを味方につけてとかって」
「え?あっ……本当だ。じゃあ、忘れてください」
恋愛なんて、もう何年もしていない。あの人以外を見たこともなければ、ときめいたことすらない。そういう駆け引きをするものだということも、すっかり忘れていた私の頭。必死に「忘れて」と言ったけれど、それも可笑しい。多分彼も思ったのだろう。どちらからともなく、フフッと笑い声が漏れた。
「そう言う意味では、僕は本当に何とも思っていませんよ」
「そう?ごめんなさい。唐突に」
「いえいえ。僕は……今恋愛とかそう言うのは興味ないので」
「そう?なんだ。そっか。うん、そんな時期もあるよね」
忙しかったり、他の事が楽しかったり。恋をしている暇がない時なんて、山ほどある。私だって人のことは言えない。
「そう、ですね。すみません。勝手に言っておいて、気を遣わせてしまって」
「いやいや。心を許してる友人にだって、正直なところは全て話せるわけでもないし。だもの、私なんかに全部話すことないわよ」
そうだ。私だって、彼に相談など出来ない。私達は、それくらいの関係なのである。
「僕はそんなですけど、昌平くんはどうだろうなって思ってます」
成瀬くんが顎を揉みながらそう言うと、私達の意見は一致する。そう?やっぱり?って、簡単に盛り上がり始めてしまう。自分にそんな恋愛がないからか。ショウヘイくんの微かな恋を応援したかった。成瀬くんはどうなんだろう。同じように思っているだろうか。
「あんなに食いついて緋菜ちゃんを心配してて。気になってるのかなって、思って」
「実は、僕。今日聞いたんですよ、彼に。緋菜ちゃんのこと好きなの?って」
え、本当?と食い付いた私。恋愛なんて興味がない。他人の恋愛だって同じ。そう思っていたけれど、実際はそうでもないな、なんて一人思っていた。そして成瀬くんは、さっき私を待っていた時のことを話し始める。ストレートに、緋菜ちゃんのこと好きだよね?とぶつけてみた。その言葉に、好きじゃねぇ、とショウヘイくんは口を尖らせるだけ。決して認めなかったらしい。だから意地焼けて、じゃあ僕が狙っても良いよね?と吹っ掛けたと言うのだ。
「大胆なことをしましたね」
「そうですね。だから、帰ってから訂正しようかと悩んでいたんです」
本当は直ぐに否定して、もう一度訊ねるつもりだったそう。私が来てそのタイミングを逃してしまった、と。これは、改めて訂正した方が良いのか。どうなんだ?
「そっかぁ。成瀬くんとしては、彼らが上手くいってくれるといいなぁって思ってるということで良いかな?」
「そうですね。飾らないで言い合えるって良いなぁって思ってて。それに、昌平くんには幸せになって欲しいんです、僕」
「成瀬くんはいい子ね。勿論、彼らもいい子なんだろうけれど」
「いい子って年じゃないですけどね」
まぁそれはそうだけれど。私にしてみれば、今をきちんと生きている若者なのだ。尊敬すらしてしまう。沢山の人と関わって、心配したり、愛し愛されたり。もう何年も避けてしまったことを今やろうとするだけで、総毛立つような思いすらしてしまう。末期症状のような感覚に、何とか苦笑を乗せた。
「うぅんとさ。いいんじゃないかな、そのままでも」
「訂正しないでってことですか?」
「うん。騙したって言うよりも、言い逃したのは確かだし。もし謝るとしても、素直に訂正しはぐった事実を伝えればいい。ちょっと意地悪かも知れないけれど、けしかけておいたままでも良い気がするなって。どうかしら?」
提案しておいてなんだが、流石に心は痛む。でもショウヘイくんがそう思っているのならば、そのモヤモヤした気持ちに気付いて欲しい。だから、せめて明日は。
「あの、陽さん。共犯ってことで、どうでしょうか」
「共犯?まぁ、そうよね。私たちは共犯。よし」
小指を差し出して、指切りをする。誰かがこの意地悪を共有してくれるだけで、気が楽になった。彼もそうだと良いけれど。
「私が明日、二人をお誘いしたのはね。緋菜ちゃんが『あの店に行きにくくなった』って零したからなの。あのままだったら、あの子はきっと行かなくなるだろうなって。そうしたら、昌平くんも責任感じちゃうだろうし、と思ってね」
「そうでしたか」
「うん。緋菜ちゃんも素直じゃないからね。意地張って突っ撥ねたら、自分から折れるようなことはしなそうじゃない?それに……」
「それに?」
「寂しいじゃない。これまでです、って線引いちゃうの」
せっかく大人になっても楽しく過ごせるようなお友達なのに。それに、ショウヘイくんだってきっと彼女を想っているのに。簡単に会わなくなってしまうなんて、私なら寂しい。それにもしそうなってしまったら、彼らに送って欲しいと頼んだ私にだって、責任はあるのだ。
「陽さんもお友達ですよ」
「え?……いや、私はだたの通りすがりよ。お邪魔かもしれないけれど、明日はよろしくお願いします」
お友達に私を入れてくれるなんて。ちょっと泣きそうになるのが情けない。誤魔化そうと丁寧に頭を下げれば、こちらこそ、と彼もそれに倣った。
「成瀬くんは優しいね。ショウヘイくんも幸せだなぁ」
こんな風に思ってくれる友人が居るということは、とても幸せなことなのだ。私にだって居たなぁ。間違っていれば叱ってくれる。嬉しいことは皆で共有し合えるような、そんな友人達が。彼女達は、何をしているだろう。母になったりしたはずだ。会えなくなってしまった友のことを、久しぶりに思い出している。友情、というものに触れて、懐かしくなったのだろう。
「いや、僕なんて。欠陥だらけ。優しさも偽善なんですよ、きっと」
「そうねぇ。偽善だとしても、よ。対峙した相手がどう思うかが大事じゃない?もしも今、あなたの中で上っ面の気持ちだったとしても、私はあなたが優しいと感じた。それで良いじゃない。ね」
「え……あ、はい」
「ね。私は成瀬くんが優しいな、と思った。それでいいんだよ」
そう、それで良いんだ。今日初めて会った成瀬文人という人は、優しかった。それが、私の中に芽生えた彼のイメージの全てである。微笑み掛けて、彼の背をポンッと元気良く叩いた。何だか本当にお友達になれたみたいに。
「僕、何だか明日が楽しみです」
「あら。奇遇ね。私もよ」
ちょっと意地悪な顔をした私達は、視線を合わせて腹を抱える。深夜の上野駅。タクシーの順番が、気付けばもうやって来る。その笑顔のまま乗り込む私に、また明日、と手を振った成瀬くん。今まで感じたことのないような気持ちが、私の中に在った。何て言い表して良いのか分からないような、不思議な感覚だった。
「近いんですけどすみません。根津までお願いします」
「はい。遅いと危ないからね。気にしないで」
「有難うございます」
運転手さんと簡単にやり取りをして、窓の外を見る。成瀬くんはまだそこに居て、動き始めた車に小さく手を振ってくれていた。
ポケットに入れた携帯電話。今まで番号を聞かれたことがあっても、いつも躊躇していたのに。何ですんなりと教えたのだろう。明日のことだって、時間と場所は指定してあるのだから、別に交換しなくたって良かったはずだ。あの時確かに、私は嬉しいと感じていた。彼とまた会いたい、と心のどこかで望んでいたのだろうか。今は何も考えなくても良いか。携帯に触れながら、いつの間にか私は少し微笑んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます