第7話 久しぶりの感覚に
「明日のこと、急にごめんなさいね」
「いえ。僕らのことを気遣ってくれて、かえってすみません」
肩を並べて歩きながら、素直に彼に謝っていた。ナルセくんはショウヘイくんに比べて、冷静だった。彼には、きちんと理由を説明しておいてもいいだろう。そう直感が働いたのだ。
「いえいえ。ヒナちゃんって、あなたちといるのは楽しそうだったから。きっとあの子も、関係を壊したくないんじゃないかなって思ってね。老婆心よ」
自分で言っておいて、苦笑してしまった。彼らにしてみれば、きっと私なんて大分上だろうし。その言葉に間違いはないけれど。穏やかに微笑むナルセくんは、何だか大人びていた。彼も緋菜ちゃんと同じくらいかしら。20代後半程に見える。それでも凄く落ち着いていて、私と幾らも変わらないような、そんな安堵感があった。
「陽さん、どっちの方ですか?」
一瞬、ドキッとしてしまった。ただ帰る方向を聞かれただけだろうに。家まで送りますなんて言われてしまったら、と一人青褪めていた。私?と聞き返した声が裏返る。
「根津です。だから公園抜けて行けば帰れるけど、流石に上野でタクシー拾うことにしようかなって」
上野から山手に乗って鶯谷へ降りても良いが、それだとまた少し歩く。公園を抜けなくたって、藝大の方を回れば歩いて帰れるのだが。その先の彼の言葉を想像して、思わず予防線を張っていた。そんな勝手な妄想をしてしまった自分が、酷く恥ずかしい。笑って誤魔化そうとした私に、良かった、と彼は胸を撫で下ろした。
「公園を抜けるのは、女性一人では危ないですよ」
「ですよね。こんなに遅くに通ったことないし、よく考えたら怖いかなって。ちょっと怖気付いてました」
こんな薄暗い顔をしたおばさんが、何を言ってるんだ。流石に自分を戒める。私は、日陰で生きていかなければいけないのだ。
「上野まで一緒に行きますね」
「え、あ……有難う」
広小路に帰るのに、ただ通り道なだけなのに。一瞬浮かれて、照れ笑いで返してしまった。きちんと一人の女として扱われたことが、こんなにも嬉しいとは。
薄暗い私の人生の中で、こんな経験をしたことはあったろうか。若い頃の話とは違う。大人になって、こう丁寧に対応をされたことなど記憶にない。それもそうだ。それだけ私は、周りの人と距離を置いている。自分で蒔いた種だ。そのことについては、仕方がない。ただ今の気持ちを思うと、勿体ないことをしてたな、なんて。ちょっとだけ後悔している。
「ちょっと、疲れましたか?」
「え?どうして?」
「いや、今日色々あっただろうなって」
「あぁ、そうね。でも楽しかったですから。年下の子たちと飲むのなんて、あまりないから。新鮮でした」
優しく私を心配してくれる。あぁこれって普通だったっけ。もう、そんなことすら思い出せない。『ちゃんとしている女』の仮面を被って仕事をして、『甘える女』の仮面を被ってあの人に会う。そんな生活を、もう何年も送っている。『本当の私』で他人に会うのなんて、いつぶりだろう。それは本当に、新鮮なことだった。
「でも……あの子ね、緋菜ちゃん。とってもハキハキした子だけれど、私は無理してないかなぁって、ちょっと心配。あのくらいの頃って、大人なのに未熟で、でも三十って言う大台が近付いて焦って。結婚って言うプレッシャーも感じるから」
馬鹿みたいな新鮮さを感じているのに、気付かれたくはない。と言うか、どうせそこまで気付かない。それならば、ちょっとだけ。久しぶりのこの感覚を楽しみたい……なんて。
「そうなんですかね。そうだとすると、性差ってあるのかも知れないなぁ」
「女って、30歳が本当に恐ろしくてね。周りの目も変わるし、自分も何かが変わる気がする。それを知ってる年上がきちんと脅すんだけど、そうすると本人には煩わしくてね。でも、仕事や恋愛で認められたいから焦る。そういう年かなって、思ったの」
30歳になった時の私なんて、29の時と何も変わらない。あの人が来るのを待って、静かに生きていた。そんな私の中にも、確かにあったのだ。そんな恐怖が。こんな関係をいつまで続けるの。このままで良いのか。そんな問答を繰り返しては、いつの間にか諦めていた。苦々しい記憶ばかりが蘇る。まだ瑞々しい笑顔を覗かせるナルセくんには、想像も出来ないことかも知れないが。
ふと、ナルセくんを見ると何だか浮かない顔をしている。何か嫌な記憶に触れてしまっただろうか。さっきまで、あんなに優しい顔をしていたのに。それがシュッと萎んでしまったように、彼は首を垂れていた。気になって覗き込めば、それにハッとして目を丸める。何か考え事をしていたのだ。大人になれば、そんなものは沢山転がっている。彼もまた、30歳というものに何か思い入れがあるのだろう。
「今、私のことおばさんだって思いましたよね?」
「そ、そんなことは」
何も気付かぬふりをするのが礼儀。私たちは、友人でもない。人生がすれ違った程度の二人なのだ。そしてナルセくんは、徐々に表情を取り戻し始める。
「と言うか、多分僕たち、そんなに年変わらないですよ。僕、32なんで」
「え?そうなの?やだ、もっと若い子かと思ってました」
彼が年齢を教えてくれる。まさか、自分とそんなに変わらない子だとは思わなかった。まだ未来が輝いて見えているような若々しさ。私にはもうなくなってしまった夢や希望を、彼はまだ抱いていると思った。
「あぁ僕、童顔なだけなんです。昌平くんたちは、27とか8とかだったと思いますけど。僕は意外と。若く見られるのが良いのか悪いのか……よく年下に見られちゃって。舐められがちなんですよね。まだ営業じゃなかっただけ、マシなのかも」
「あぁ確かに。ナルセくんは童顔ね。可愛らしいと思うけれど、男の子じゃ嬉しくないよね。仕事の時に箔が付かないだろうし」
「そうなんですよねぇ」
くりくりとした黒目。一言で言えば、可愛らしい男の子。それが私の中の、彼の印象だった。緋菜ちゃんが周りの人に、そうされてきたように。私が、しっかり者だと決め付けられてきたように。彼にとっては、それは不本意なことなのだろう。
「童顔は急に老けるとも言われるし、何か良いことないですね。人間、外見だけじゃないって言うけれど、結局第一印象の外見って大事と言うか」
「そうよね。大体の人間は、一旦外面で線引きをして、その後にスタートラインって言うか。こっちはスタートラインに立ってるつもりでも、実はそこに並べてすらなかったりね。しません?」
「あぁ、分ります。スタートラインには立ててるのに、直ぐに足を引っかけられると言うか。本当に、舐められやすいんですよ。僕」
私の意見に共感した彼は、またそう言って苦笑した。それは、さっき緋菜ちゃんを見ていて感じていたこと。外見でスタートラインが分けられている。本人が気付いていても、いなくても。私達は、平等な所から人生を始めることは出来ないのだ。
「そっかぁ。私もね、いつも学生からため口なの。友達か何かかと思っているのかしらね」
私の職場は、私立の大学である。就職課に勤務しているのだが、そこへやってくる学生達は、いつの間にか私を『ヒナちゃん』と呼ぶのだ。彼らは就職関連の話をしに来ていたはずが、教授の愚痴になり、彼氏の惚気話になることなんて日常茶飯。それに溜息を吐いていた私に、「地方から出て来た子達にすれば、君は良いお姉さんなんだよ」と上司が言ってくれたことがある。その言葉を支えに、そんなもんかな、と納得させるようにはしているが。
フワフワの纏まらない長い髪が、風に靡いて煩わしい。これだって切ってしまえばいいのに。あの人が昔、好きだと言ってくれただけで、私は切れなくなってしまった。本当に、自分が嫌になる。学生に腹を立てているフリをしてしまう。こうして図らずも思い出してしまうあの人を、私は小さくすることも、消すことも出来ないのだ。
「あ、あの。今更ですけど、僕はこういう者です。
徐に彼は、財布から名刺を取り出す。私もさっき同じことをした。大人になって便利なことは、これで私の人となりがある程度は証明されることである。
「有難う。私は、オガワヒナタ。普通の小川に、太陽の陽って書いて、ヒナタ。さっき予備の名刺を緋菜ちゃんにあげちゃったから、手持ちがなくて。ごめんなさいね」
そう答えて、彼の名刺をじっと見つめる。就職課の記憶が役に立つかと思ったが、それも必要なかった。
ここに書かれている会社は、老舗の文具メーカー。名前は誰でも聞いたことがあるような、そんな会社だ。確か定着率も良くて、働きやすいと聞いたことがある。あぁそれに、と閃いて、私はバッグを漁り始めた。
「私、このノート買いました。しかも今日、ほら」
「あ、本当だ。お買い上げ有難うございます」
「えぇ。学生たちが良いよって言うので、万年筆のお試しに行ったついでに買ってみたの。多分、仕事で使ってるペンもそうじゃないかなぁ。若い子って色々教えてくれるので、つい買っちゃうんですよね」
「へぇ。そうですか」
学生は、新しい物を見つけるのが上手い。若いから、好奇心が旺盛なのだろう。職場のペン立てには、彼らから教えて貰った文具が、沢山立てられている。
「僕。学生の気持ち、分かったかも知れない」
「え、何で?」
「そんなにお話をしたわけじゃないですけど、僕はとっても話しやすいなって思って。あれこれ話したくなりました。だから、そうなんじゃないかなぁって」
「そう、か。喜んでいいのかな」
「どうぞ」
ニコニコッと笑う成瀬くん。その眩しい笑顔は、やっぱりまだ20代に見える。こんな時間を過ごして、それから褒めて貰って。久しぶり感覚に、やっぱり浮かれてしまう。あの人にバレなければ、こうやって遊んだりしても良いのかな。今更、そんなことを考えて、一人苦笑いをした。
上野駅まで、もう2、3分。もうちょっと、なんて欲張りな私が顔を出す。緋菜ちゃんと飲んで。彼らに出会って。家を出る時には万年筆だけが楽しみだったのに、今はその気持ちすら影が薄くなっていた。明日はきっと、もっと楽しいだろう。それが終えたら、彼らの中での私の役目は終わり。またいつもと同じ、平坦な日常に戻って。あの人がやって来るのを、一人待つのだ。でも、明日までは……このウキウキするような気持ちを持っていても、許されるだろうか。
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