第5話 言いたくなかったこと
「緋菜ちゃん、道合ってる?大丈夫?」
「陽さん、心配し過ぎぃ。大丈夫。えっとねぇ、もうちょっと」
右にフラフラ、左にユラユラ。定まらない足を懸命に前へ進める彼女を支え、不安になりながらも歩いていた。彼らは緋菜ちゃんの荷物を持って、後ろから付いて来てくれている。だがそれも、素直にとはいかない。ショウヘイくんは、飲み過ぎなんだよ、と苛立ちを何度ぶつけたか。煩い、と往なす緋菜ちゃんの表情が、彼らに見えていない所で徐々に険しくなっていた。
「ったく。お前、何があったんだよ。こんなに飲んで」
何度も後ろから飛んでくる言葉に、緋菜ちゃんは微かに震えていた。言わなくていい。気にしないでいい。そう何度も宥めたが、それももう限界。ショウヘイくんのその言葉に、勢いよく振り返った彼女は力強く彼を睨んだ。
「煩いな。昌平には関係ないでしょ」
「あぁ?関係ねぇけど、ヒナタさんにだって迷惑かけてんじゃん」
「あ、あっ。ショウヘイくん、私のことは気にしないで。ね?」
何とか家まで乗り切らないと。彼らを誘ってしまったのは私。それによって、緋菜ちゃんが傷付いてしまうのは本意ではない。
「緋菜ちゃん、何かあったの?今日は本当に飲み過ぎだよ」
何とか誤魔化した、と思った矢先、今度はナルセくんが口を開いた。それはとても優しい声色。緋菜ちゃんも怒りに任せた返答はせずに、何もないよ、と少しお道化る。私から離れて、クルクルッと回って、いつもの私をアピールするのだ。それはとても痛々しくて、見ていられない笑顔だった。
「ただね。一緒に飲んでたらね、楽しくなっちゃって。飲みすぎちゃっただけよね」
「ねぇ。楽しかったもん」
何とか話を逸らそうとした私を察して、彼女も引き攣った笑顔を作って賛同する。この微妙な笑みは、この暗がりでは彼らには見えないだろう。このまま、このまま。
「そんなに仲良しなんだね。二人は」
ナルセくんのその言葉は、悪意もなく、素直な意見だと思う。私たちが、それに真っ直ぐに答えられないだけだ。
「今日ね。私がナンパしたの」
「そうなの。ヒナタさんがね、急に声掛けてくれて。でも楽しかったぁ」
「あら、それは良かった」
ふふふっと笑う女二人。きっと彼らは、まだ疑いの目で見ているだろう。私たちは、何とか笑い合って前を向く。その瞬間、緋菜ちゃんから笑みが消えた。何度も何度も飛んで来る、ショウヘイくんからの探り。あれが少しずつ、彼女の苛立ちを越えて、忘れようとしていた傷口を抉っている。
「よし、次の信号のとこだよ」
「うんうん。じゃあ、あとちょっとだ。頑張ろう」
「はぁい」
ちょっと大きな声で、わざとお道化た緋菜ちゃん。頑張れ、と耳元で囁くと、頷く肩が震えていた。今夜を切り抜ければいいだろう。関係性は深くないのだと聞いた。傷口が癒えてから、またあの店に行けばいい。とにかく、今はもう抉らないで。私の心が、そう叫んだ。
少し先のマンションを指差して、もう少し、と緋菜ちゃんが呟く。それから何でもないことで、ケラケラ笑って、何とか彼らの目を逸らそうとする。あぁ私が、彼らに付き添いをお願いしてしまったから。自己嫌悪に陥りながら、私は必死に緋菜ちゃんとの大袈裟なやり取りに集中した。
「緋菜。おい、お前本当に何があったんだよ」
我慢ならなかったショウヘイくんから、そう言葉が飛んで来る。それにビクッと反応したのは、私だけではない。みるみる緋菜ちゃんの肩が大きく震え始めた。
「何もないよ。うっさいなぁ」
「ないわけねぇだろ。こんなに酔ったことあったかよ」
「昌平には関係でしょ」
「はぁ?心配してやってんだろうが」
いつもだという激しいやり取りだったが、最後の言葉に緋菜ちゃんが固まる。心配してやった。上から目線のその言葉は、私でもイラっとする。何度も、何度も、上手く誤魔化して来たのに。事実を知りたいだけ。彼女のことが、自分が気になるだけ……あぁ、彼は緋菜ちゃんのことが好きなんだ。この僅かな間見ているのは、あれだ。好きな女の子にちょっかいを出してしまう男の子。あんなにしつこくちょっかいを出して。気にはなったていたが、今の言葉で確信する。それならば、もう少し優しく見守ってくれたら良いものを。
彼を睨みつける緋菜ちゃんの目に、涙が溜まり始める。言いたくないことだ。言わなくていい。私がそう口を開く前に、彼女の方が先に言葉を投げつけていた。
「フラれたのよ。これで満足?」
「緋菜ちゃん。いいから。言わなくていい、いいから」
私の胸にそっと顔を寄せて、クリッとした綺麗な瞳から、大きな涙の粒が零れる。ショウヘイくんをまた睨むと、ギュッと口元に力を入れ、マンションの方へ走り出した。「緋菜ちゃん待って」と叫んだが、決して振り返らない。
「バッグ、ごめんなさい。今日は有難うございました」
緋菜ちゃんの荷物をナルセくんから奪い取ると、私も懸命に走る。後ろから、彼らが追って来る様子はない。私はただ、彼女の背を追いかけた。
「緋菜ちゃん、緋菜ちゃん。待って」
必死に追いかけた私の声に、彼女が少し速度を落とす。マンションの入り口で振り返った緋菜ちゃんは、もう大粒の涙をボロボロと零していた。
「大丈夫?辛かったね……あんな風にしつこいとね。嫌になっちゃうよね」
ゆっくりと緋菜ちゃんに話し掛ける。何とか涙を堪えようとする赤い目。またグチャグチャになったメイク。全てが、彼女の苦しさを表していた。
「陽さん……ごめんね」
「ううん。私はいいの。辛かったのに、頑張ったね」
「……うん。ありがと」
ズズズッと鼻を啜って、薄っすらと笑みを作った。私よりも背の高い彼女の頭を、そっと撫でる。そうすると、またポタポタと涙が溢れ始めた。
「うん、いいよ。無理しないで」
それしか言ってあげられなかった。言葉が上手く見つからなかったのだ。ゆっくりと彼女の背を摩り、ズルズルと歩く彼女を支える。せめて緋菜ちゃんが落ち着くまで、寄り添ってあげたい。私には、それしか出来ないのだ。
「陽さん、有難う」
「ん?いいの。と言うか、私の方こそごめんなさい。何も考えずに、彼らに送って欲しいだなんて頼んじゃって」
「……ううん。大丈夫。それだけ、私飲んでたから。あぁあの店行きにくくなっちゃったなぁ。イカフライ、美味しかったのに」
剥がれ落ちたマスカラのカスを頬に乗せたまま、さっきより上手に、緋菜ちゃんが笑った。私に何が出来るだろう。今夜限りの友人だと思っていたが、このままではいけない気がした。
「陽さん、明日。本当にどこか一緒に出掛けてくれる?」
「え?勿論。私なんかで良ければ」
「やった。じゃあ、今日はもう何も考えずに寝る。朝起きたら、連絡するから……えっと、連絡先」
緋菜ちゃんが立ち止まる。ここが家なのだろう。鍵を開け、玄関にバッグを置いた彼女は、ガサゴソとバッグを漁る。いくつかポーチを出してから、ようやく出て来た携帯。連絡先を交換し終えると、緋菜ちゃんは「よろしくお願いします」と頭を下げた。
明日、彼女が笑えるように、どこか気晴らしに出掛けよう。それから、未来へ繋がるような何かを見つけられれば尚良い。自分の携帯に、久しぶりに登録された新しい連絡先。何だか本当にお友達が増えた気がして、ちょっと嬉しかったりした。
「そうだ、あの二人。もしかしたら、まだ居るんじゃないかしら」
「あぁ……そう、かもね」
「どうする?概要だけは、お話しても良い?きっと彼らも、心配なんだと思うの。緋菜ちゃんのこと」
「うぅ……うん。分かった」
「じゃあ。もしも居たら、そうするわね」
彼女の曇った笑顔。きっともう会いたくないんだろう。それならば何も言わなくても良いが、ショウヘイくんはどうだろう。彼の恋もまた、今日で終わってしまうのか。
「もしも居たとしても、彼氏が言ったことは何も言わないよ。大丈夫」
「うん……」
「よし、じゃあ今日はもう寝て。明日何か楽しいことしよう。美味しいもの食べに行っても良いし」
何も気付かない振りをする私に、緋菜ちゃんは「そうだね」と口角を上げる。目はまだ心から笑えていないけれど、それは仕方がない。
「じゃあ、陽さん。送ってくれて有難う」
「はぁい。また明日ね。緋菜ちゃん、お誕生日おめでとう」
長く話し込みはせず、出来るだけあっさりとその場を離れる。三歩進んで、小さく手を振って。私はもう振り返らなかった。
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