第2話 私のお節介
彼が去っても尚、彼女はそこに居続けた。伽藍洞な目をして、まだ温かいであろう向かいの席を見つめる。そしてもう冷めたカップに口を付けて、ほろっと涙を零した。
「あ、あの……大丈夫、ですか?」
恐る恐る、彼女へ声を掛けた。美しく若い女の子がそうしている様はあまりに目立つ。つい、いたたまれなくなってしまったのだ。きっと、同情されるのは嫌いなタイプ。それは分かっていたけれど、見世物のように視線を集める彼女を見ていられなかったのである。
ボォッと彷徨っていた視線が、直ぐと私を捉えた。それをキッと強い眼差しに変え、大丈夫です、と彼女は直ぐに視線を外す。そして躊躇いなく鞄に手をやると、逃げるように席を立った。
「あっ、お姉さん。落ちましたよ。あっ、あ、あの。お姉さん、ストール……」
鞄に挟んでいたのであろうストールが、ハラリと床に落ちた。慌てて声を掛けたが、彼女は振り返る様子はない。どうしよう。おどおどと狼狽える私に、今度は店中の視線が私に注がれている。
「お預かりしましょうか」
直ぐにやって来た店員が、そう私に手を伸ばす。素直に差し出しながらも、何となく心がもやッとしているのに気付いていた。あの子は気付いても戻って来れないのではないか。そしてそもそも、大丈夫だろうか。
「あぁ、えっと。私、追ってみます。ダメなら戻りますから」
言い切って、私も飛び出した。窃盗、とかになるのかしら。冷静にそう思いながらも、必死に駆け出していた。恐らくまだ、そう遠くへは行っていないはず。JRの方へ向かうか、どうするか。東京駅の周辺には、多様な交通手段が存在している。何なら、直ぐにそういった物に乗らないかも知れない。
店を出て、キョロキョロと見渡すと、JRの方向へズンズン進む背が見えた。ゆったりと巻かれたカールが、その勢いで揺れている。彼女だ。そう確信をもって走りながら、お姉さん、と声を投げるが一向に振り向かない。それはそうだ。ここに『お姉さん』と呼ばれる人間は、無数にいるのである。
「待って。待って。お姉さん」
何とか近づけた私は、必死に手を伸ばした。こんな怖いことはないよな。そう思えど、致し方ないと自分に言い聞かせる。ヒャッと小さな声を上げた彼女が、恐々と振り返った。怯えた目で私を捉えると、直ぐにその目の色は苛立ちに変わった。
「そんなに他人が別れたのが面白いんですか。笑いたいなら、勝手に笑えばいいじゃない。後を追いかけて来て、わざわざ何なんですか」
力強く言い始めた彼女の目から、ハラハラと落ちる大粒の涙。目はとても赤く、堪え切れない粒が次々と零れ落ちた。鞄をきつく握り込んで、何かを堪えている。私にだって、泣きたい気持ちは良く分かる。誕生日にフラれるだなんて、きっと辛い。いくら恋愛に疎い私だってそのくらいは……
「あぁ……えっと。ごめんね、違うの。これ、ひらッと落ちたから」
「え、あ……」
私が差し出したストール。彼女は固まったまま、それをじっと見つめる。あぁ彼との思い出でもあったのか。それならばいっそ、店員に預けて知らぬふりをした方が良かったか。すみません、と謝りながら受け取った彼女は、人目も憚らずに泣いた。それをギュッと握り締めて、顔を埋めながら。
「大丈夫?」
ボロボロと涙を零す彼女。拭おうとする指が追い付かない。頬をぐちゃぐちゃに濡らし、綺麗に整えて来たであろうメイクが崩れていった。私は彼女の背を摩り、少しでも人目に付きにくい所へ誘う。それから、鞄から出したハンカチをそっと彼女に握らせた。肩を震わせる女の子を、誕生日に傷付いた彼女を、置いて立ち去れはしない。昔、母がしてくれたように、何度も何度も背を摩った。
それから、どれくらい経ったろう。今日はどうせあの人も来ない。時間のある私は急かすこともなく、彼女の傍らに居続けた。まだ、涙は止まらない。
「えっと、えっと……よし、そうだ。飲みに行こう」
こんなシチュエーション、体験したことがない。時々、ごめんなさい、と漏らすが、それでも彼女は泣き止まない。最善が分からなくなった私は、こんな突拍子もないことを口にしてしまった。泣いている彼女が目を丸めて、え?と声を上げる。それはそうだ。今さっき、ただカフェで隣り合わせになっただけの女と、誕生日に酒を飲むなんて有り得ない。でも……私はこのまま、彼女を一人に出来ない。その理由は、自分でも良く分からなかった。
「あっ。あぁ、そうよね。私、怪しいね。ちょっと待って」
可笑しいなことを言っているのは、自覚している。呆然と私を見返す彼女。その反応が正解である。鞄の中から、慌てて財布を取り出す。確か一枚は、名刺の予備が入っていたはずだ。
何をそんなに一生懸命になろうとしているんだろう。どうしてそこまでして、この子を救おうとしているんだろう。必死に探す手と、頭の中の答えのない疑問。私もまた、自分の行動に疑問符を並べている。
「私は、こういう者です。小川陽と申します」
「ヒナ、タ?」
「そう。陽。ヒナちゃんよね?そう呼ばれた名前に反応しちゃって、つい」
へへッと小さく舌を出してお道化た。彼女は驚いたのだろう。名刺と私の顔を、何度も視線が行き来した。
「コーヒー飲みながら、考え事してたらね。ヒナ、ヒナって聞こえて。驚いて見ちゃったのよ。私の方こそ、ごめんなさいね」
「あぁ……それで」
多少は納得したのだろうか。ふぅと細い息を吐いて、胸を撫で下ろすのが分かった。ごめんね、ともう一度声を掛けると、ハッと顔を上げる。目鼻立ちのはっきりした、綺麗な顔が、少しだけ微笑んだ。
「あぁいいんです。流石にショックでしたけど、仕方ないです」
「仕方ないなんて……良いんじゃない?今日は、さ。私なんて知らない人だけれどね。今日はきっと、誰かに甘えていいはずよ。誰かに甘えるってね、悪いことじゃないし、恥ずかしいことじゃない」
誕生日であることに触れない方が良かろうとは思ったが、この笑みに手を差し伸べたくなってしまった。他人と触れ合わない人生を歩んできた私。お節介を焼くだなんて、もうとっくに忘れてしまったと思ったいた。でも心のどこかには、まだそういう感情が生きていたらしい。他人の人生に触れることなど、今更面倒な気がしていた。けれど、久しぶりに他人の感情に触れた今、私は密やかに『生』を感じている。あぁ私も、この世にきちんと存在している。そう感じているのだ。
「あ、あの……私、
おずおずと彼女がそう言う。「え、私で良いの?」とつい口を吐いた。自分から誘ったくせに。
彼氏と別れた時って、多分友人の元へ行き、愚痴を言ったりするんだと思う。確か私も、そんなのに付き合ったことがある。そういう時間を経て、別離を昇華していくのだ。けれど彼女は、お願いします、と私に丁寧に頭を下げる。それは……つまり。
「よし、そう決まったら何食べる?あ、飲む方がメイン?」
「いいんですか?」
「え?だって誘ってくれたよね?あ、でも誘ったのは、私だった。よし、何処に行こうか」
ニッコリ微笑み掛ける。深くは追及しない。今夜限りの友人だもの。ただ楽しくご飯が食べられれば、それで。彼女の要望は、ここから離れること。もしもの時の何かを見たくない。そういう事だと思った。
互いの家の方角が同じようだったので、彼女の行きつけの店へ向かうことになった。涙で崩れたメイクを直して、私達は微笑み合う。おかしなものだ。ずっと友人であったかのように、私達は並んで歩いている。今夜だけの友人。明日になれば、もう会うことのない友人なのに。
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