第1話 綺麗な彼女

 二〇一九年十一月二日。静かなカフェで、本を読む私。小川オガワヒナタ、35歳。今、人生で初めて、修羅場という物に出くわしている。 ゆっくりとコーヒーを飲んでいた私の耳に、突如飛び込んできた隣の声。怒る女と謝り続ける男の攻防である。そのピリピリした空気が、自然と私の読み進める手を止めていた。


「どうして、そんな嘘吐くのよ」


 今にも泣きそうなその声は、震えながら虚勢を張っているように聞こえる。店に入って来た時にチラリと覗き見たのは、とても綺麗な女の子だった。私よりも10くらい下だろうか。美人で、いかにもモテそうなのは、一瞬見ただけでも分かる程だ。でも、その彼女が膝の上で拳を震わせている。明らかに何かがあったことは、居合わせただけの私でも分かった。

 向かいに座っている彼が、ヒナ、と彼女を呼ぶ。関係ない私もつい、背筋がピッと伸びた。聞かないようにしたって、そうはいかない。私など全く関係がないのに、自分が呼ばれているような気がしてしまう。その名が呼ばれると思わず、そちらを気にしてしまう私が居た。


「私はね、ここに来るまで、本当に楽しみだったよ」


 女の子はゆっくりと、それでいて怒りに満ちたような声で話し始める。珍しくスカートを穿いて来た。髪も巻いて来た。彼がどんな反応をしてくれるのか、とワクワクして来たというのだ。状況は分からない。ただ同じ女として、彼女に同情する気持ちが芽生えている。彼女がめかし込んできた日に、それを踏みにじるようながあったのだ。


「そ、そっか。そうだよな……ごめん」


 男がまた謝った。異議を唱える彼女の声が、次第に大きくなる。もしかしたら、もう泣いているかも知れない。デートの前に、彼が誰かと会っていた。それを目の当たりにして喧嘩になったことは、という所だろうか。若いなぁ。それだけ彼女は、その恋に必死なのだ。それに比べて私は……何だかそれが、羨ましくもあった。

 私にもきっとあった。それだけ、大事に大事にしていた恋が。淡い花を両手で抱えるように、壊さないようにそっと守りたかった物が。


「別れようか。私たち」


 自分の過去に思いを馳せていた私に聞こえて来たのは、彼女から零れた別れの言葉だった。あぁそれは勢いで言ってはダメ。文庫本を握りながらそう思ったところで、止めてあげられる訳でもない。そんなに大切にしてきた物を、その時の勢いだけで切り捨てるなんて。きっと後悔する。チラリと見た彼女の拳。プルプルと震え、爪が食い込むように握られている。あぁそれだけ、彼が許せないのだ。


「そっか。分かった」

「は?」

「分かったって。別れたいんだろ?自分で言ったんじゃん」


 ……いや、違う。彼女は自信があったんだ。彼が、別れたくない、と縋ることに。そうして、自分が必要だと確認させる。 そうすることで、自分の価値を落とさないようにしているんだ。あぁ彼女はとても若い。だからこそ、今までそれでまかり通ってしまっていたのだ。それはとても危険と隣り合わせだということに、彼女は気付いているだろうか。


「ヒナ、アイツのこと、見た?」

「アイツ……見たよ」

「そっか。どうせ、可愛くないとか、あんな女とでも思ったんだろ」

「そんなことは、思ってない、よ」


 次第に落ち着き始めた彼は、まるで子供に諭すかのように語り始める。呆れているのかも知れない。自分の思うような答えが返って来なかった彼女は、徐々にしどろもどろになった。私には全く関係のない話だが、気不味い。席を立ちたいけれど、変なきっかけ与えてしまうだろう。知りもしない、これから交わることもない人たちだ。それでも、幸せで居られるのなら、それに越したことはないと思った。

 私は冷えたコーヒーに口を付け、とにかく空気になろうとした。刺激するような動きはしない。居合わせてしまった人間の出来ることなど、それくらいである。それにもし私が席を立って、その後に若い子達が来たとしたら?きっと、より修羅場になるだろうことは想像が付く。名前が似ているというだけのこの子が、何だか私は心配だった。


「ヒナはさ、自分が一番だって思ってる」


 あ、主導権が変わった。瞬時にそう思った。彼は静かに、言い聞かせる。嫌味、何かの仕返し、ただの呆れ。色々思い付くが、彼がこう言っているのは、きっと彼女の為だ。


「そんなことない」


 急に発せられた大きな声にギョッとして、チラリと隣に目をやる。私だけではない。チラチラと彼らを見ていた客達が、ほぼ一斉に視線を向けたのだ。それには多分気付かなかったのだろう。私だけに、彼女はキッと強い眼差しを向けた。


「鏡ばかり見て外見を整えることだけに、こだわってるように見えるんだ。君は確かに綺麗だ。だけどさ、それだけじゃ駄目だろう。中身はどうなんだ?」

「なか、み?」

「そう、中身。いつも外見で判断されることを嫌がる癖に、そこにしがみ付いてるのはヒナじゃないか?何か勉強したり、努力してる?若くて美人なら、何時だってチヤホヤされるさ。今に分かるよ。それだけじゃ誰も見てくれなくなるって」


 それは完全にとどめだった。一瞬居合わせているだけの私でも、その言葉は容易に理解が出来た。綺麗な彼女。その外見から、幸せな優遇を受けて来たことは想像が出来る。本人が望んでいなくとも、チヤホヤされ、気付かぬうちに甘やかされてだろう。そしてそれは、彼の言うように急に消えてしまう。美人、というだけで持て囃される時は、そう長くはないのだ。

 彼女は何も言い返せない。恐らく、何故そう言われているのか理解出来ていないのだ。仕方がない。それは彼女が望んでいなくとも、周りの人間がそうしてしまっていたこと。あぁ彼の助言は正しいだろうに。この子には、どれだけ響くだろう。


「ヒナ。30歳になんて直ぐに来る。それまでに少しでも、中身を磨け」


 彼は優しく、言い聞かせる様に言った。別れに同意した男の、最後の優しさ。彼女はまた拳をグッと握り込む。言葉の意味を理解出来ていないとしたら、ムカつくという感情が近いか。そんな安易な感情が、沸々と心に滾っているのかも知れない。


「自分を綺麗に見せることは確かに大事だ。でも、せめてそれに伴うような中身がなければ、その外見は光らないんじゃないか」

「どういう意味よ。私だって……」


 彼女の言葉は続かない。反論出来ないのだろうと思った。

 彼の最後の優しさを飲み込んで、これから変わっていければ良い。全く知りもしない赤の他人の私は、両手の中の小説を読むように、彼女の今後を願っていた。きっとこの子は、物語の主人公になれる子だから。私みたいな端役の女とは違う。頑張れ。見ず知らずに彼女を、私はそっと応援している。きっと大丈夫よ、と勝手に祈った私に聞こえて来た彼の声。去り際の、微かな声。誕生日おめでとう、と言う小さな声……

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