第3話 本当の彼女

「陽さん。私、何が足らないと思いますか」


 酔い始めた目で私をじっと見ているのは、昼間のカフェで別れ話をしていた女の子。三山みやま緋菜ひな、と言う。洒落たレストランでもバーでもなく、私達が今いるのは大衆的な居酒屋。串焼きが売りなのだろう。店主は忙しく、焼き場で手を動かし続けている。


「そうねぇ。うぅんと、私は緋菜ちゃんを良くは知らないでしょう?だから無責任にあれこれ言うのも、ね」

「あぁ、そうですよね……」


 私たちが出会ったのは、僅か数時間前のことである。誕生日であるこの子に。しかも知り合いですらないこの子に。私が無責任に言えることなどない。困る私に気付いているのか、いないのか。彼女はまだ何かを期待して、真っ直ぐにこちらを見つめている。


「実はあの、聞こえてたかもしれないですけど。彼に言われてしまって。中身を磨けって。でもそれって、どうしたら良いんだろうって」


 眉間に皺を寄せ、唇を薄く噛む。下を向いた彼女の本気さは、少し予想外だった。

 ただ腹を立てているだけかと思っていた。けれど、それは違う。彼女なりにあの言葉が心に留まっているのだ。私なりに何をしてあげられるかと真剣に考えてはいるが、やはり無責任なことは言えないだろう。そもそも、本当は深い話はするつもりもなかったのだから。


 それでも、私が彼女の話を聞いているのには理由がある。少し前に彼女が吐露した、今日の出来事だった。

 仕事を終え、待ち合わせ場所にいたという緋菜ちゃん。そこへやって来たのは、彼氏と別の女。緋菜ちゃんに気付くことなく、彼はその女を見送る。待ち合せには、いつもギリギリ若しくは遅れがちだと言う彼女は、もう来ているとは思わなかったのだろう。職場の後輩の相談を聞いていた、と彼が言い訳をしたらしいが、女の勘は鋭いもの。敏感に何かを感じ取ったのだろう。しかも、今日は彼女の誕生日。緋菜ちゃんは、ウキウキしながらそこへ行ったのだと言うから、余計に許せなかったのだ。

 同情、という言葉は、この子は好きでないと思う。けれど、可哀相なくらいに涙目になって、私のことを見つめる緋菜ちゃん。彼の言った「中身を磨け」という意味を知ることは、彼女の成長には良いだろうと思う。けれど、それは今日じゃなくても良いのではないか。私の中に、そんな感情が生まれる。


「中身を磨け、かぁ……偉そうね」

「ぷっ、陽さん言い過ぎ」

「だって、偉そうじゃない。お前の中身はどうなんだよって」


 ワザと呆れ顔でそう言った私に、彼女は一瞬驚いた。そして直ぐに、「確かにぃ」と語尾を伸ばしながらケタケタと腹を抱える。そう、今日はきっとこれで良い。心に留まっているのなら、きっと落ち着いた時に考え直せる。私は、今日限りの友人。誕生日を祝うだけの、知り合い以下なのだ。

 ただ、今直ぐ意味を知る必要はなくとも、何かを掴むきっかけは作ってあげたかった。久しぶりに触れた、他人の人生。生きている感覚を感じてしまっているのだ。今の私は。


「彼がね、どういう意味で言ったのかは分からないけれど……」


 彼が別れ際に言ったこと。あれは、間違いなく彼女の欠点だ。端々に感じる自信。どことなく、何かを見下した話し方。恐らくそれは、チヤホヤされて来たことと若さ故。絶対悪とまでは言わないが、気付けるチャンスがあるのなら、改善出来れば良い。それを良く思わない人間は、世の中に沢山いるのだ。


「一般的に、よ。例えば、髪やお肌の手入れをしたりって言うのも、自分を磨くことだよね」

「うん、それは頑張ってる」


 彼女の人生において、ただの通りすがりでしかない私。本当は、深く関わることは避けたい。だが、彼氏が去った後に呆然とて、頭にクエスチョンマークを並べたような顔をしていた彼女。色の抜けたような顔をしたこの子が、私は何処か自分のことのように見えたのかも知れない。


「具体的にどうしたらいい?」

「お肌の手入れと同じように、自分の中身になる物を見つけていくのも、自分を磨くってことだと思うの。本を読んだり、旅に出たり、新しい何かを経験して、体験して、自分の幅を広げるって言うか。他人の意見を素直に聞いたり、自分の弱さを認めたり。本当は自分で目を瞑っていることってあるじゃない?それに目を向けたり、目指す自分を見つけたり」


 緋菜ちゃんは下を向いたまま、ブツブツと私の言葉を繰り返した。自分に思うところがあるのだろう。少し苦い顔をしている。私は静かにビールを飲みながら、彼女が反芻するのを待った。ストレートの綺麗な黒髪。パチッとした瞳。モテるのだろうな、と想像する。人を惹きつける外見が、望まぬところで高嶺の花のように、触れてはいけないもののように扱われてしまったのかも知れない。数時間彼女と話をして、私の持った感想である。

 きっと、美人であるが故の、苦悩というのもあるのだと思う。私はごく普通の、平凡な女。特別美人ではない。だからと言って、卑下される程の不細工でもない――と思っている。何の特徴もない、印象に残らないような女であることは確かだ。そんな私が、彼女側の感情を考えようとしたって無理な話。外見で判断はしないと、言い切る人もいるけれど。実際は、スタートラインの時点で差があるのだ。一斉スタートであるはずなのに、美人というのは何歩も前に立っていて、私たちが追い付くまでに一定の権利を得ている。悲しいかな、現実ってそういうもの。ただきっと、本人は気が付いていない。


「陽さん。私に新しい何か、教えてもらえませんか」

「ん?私が、緋菜ちゃんに?」

「はい。陽さんは、きっと私の知らないことを沢山知ってる。何となく、私たち正反対な気がするんです」

「正反対、かぁ。まぁそうかもね」


 日向を堂々と歩ける彼女と、日陰をコソコソと歩く私。彼女のように華やかな人生など、送っていない。どちらかと言うと、薄暗い、底辺のような人生である。そう思ってしまうと、教えられるものなど、私にあるとは思えなかった。


「あぁ、そうだ。じゃあ、今度美術館行かない?」

「美術館、ですか。行ったことないです」

「本当?」

「うん。興味があるかって聞かれたら、自信はないですけど……せっかくの機会だし。これを逃したら、一生行かなそう」

「何それ。大袈裟ねぇ」


 彼女のことを知らない私には、勧める物がない。例えば料理や読書、それから陶芸や手芸。色々とあるけれど、体験教室に手当たり次第に行っても仕方ない。美術品を見て感動するかは分からないが、新しい物に目を向けるのはいい機会だろう。

 まぁ本当は、私が一緒に行く必要などない。分かってはいたが、ちょっと嬉しかったのだ。他人と距離を置いて生きて来た私を、こうして頼ろうとしてくれる。私には兄弟はいないが、妹が居たらこんな感じだったのだろうか。猫のように懐に入り込んで来る彼女が、何だか少しずつ可愛らしく感じ始めていた。緋菜ちゃんは、美術館かぁ、と呟きながらイカフライに手を伸ばす。これが彼女の好物らしい。誕生日に好きな物を頬張る幸せそうな顔。その零れる笑みを見て、私は安堵していた。


「そう言えば、陽さんてご結婚されてました?時間気にしてなかった。すみません」

「え?あぁ、そこの心配は無用よ。独身だから。帰っても部屋は真っ暗。辛うじてエアコンで部屋が暖かいくらね」

「あぁ同じだ。でも彼氏は居るでしょう?絶対」

「絶対って何。残念ながら、居ない、わよ」


 詰まってしまった言葉。私にしては素直な反応だな、と思った。つい苦笑いを浮かべる。この意味など知りもしない彼女は、えぇ、と声を上げて驚いた。


「そんなことってあります?」

「あるよ、ある。大体、彼氏なんていなくたって、別に可笑しなことじゃないでしょう。世の中に独身で生涯を終える人が、どれだけいると思ってんの。もう」

「うぅん。確かにそうなんですけど……陽さん、、凄く優しいお母さんみたいだから、何か信じられないって言うか」


 何よそれ、と何とか笑みを作って、勢いよくビールを流し込んだ。視界はぼんやりしている。焦点は何かに合っているようで、合わせていない。ただ空を見つめていた。


「もう三十五よ。私の恋愛話なんて、どうでもいいわよ」

「良くないですよ。結婚はしなくても良いと思うけど、恋はしていた方が良いと思うんです。私」

「ふふ。緋菜ちゃんは若いわねぇ。良い、その勢い大事よ」

「もう、陽さんの話なのに」

「あら、緋菜ちゃんだって前を見るんでしょう?」


 ちょっと意地悪だったな。私を知ろうとしてくれているのに、知られたくない気持ちが勝ってしまった。

 緋菜ちゃんはギュッと口元に力を入れ、まぁそうですけど、と呟く。前を向くって言ったって、今日別れたばかり。直ぐに忘れられる訳がない。ジョッキを握る緋菜ちゃんの手に力が入る。本当の彼女は、きっと強い子じゃない。弱音を吐くことが苦手な、そんな子なんだと思った。

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