第17話壁と尻・終
「ふう、やれやれ、やっと解放されたな……」
俺は頬に貼り付いた傷パッドの具合を確かめながらぼやいた。
あの後、駅の事務所で簡単な手当を受けて、それから事情聴取、撮影した証拠動画の提出、再び泣き出した女の子を励まして、それからやっと病院送り――全てが終わったときには午後三時近くなっていた。
俺と百百川さんは二人で相談し合い、結局今日は学校をサボってしまうことにした。
駅員や警察から学校には連絡が行っただろうし、おまけに今や俺は痴漢事件から傷害事件にアップデートされた事件の被害者だ。
今日ぐらいは天下御免で学校をサボれるだろう――とは思ったものの、隣を歩く百百川さんは浮かない表情をしていた。
「藤村君、ごめんね」
ぽつり――と、百百川さんが小さく謝罪してきて、俺は百百川さんを見た。
百百川さんは自分を責めているような表情で、きゅっと唇を噛んでいた。
「何も――百百川さんに謝られることなんかないよ」
「それでも、藤村君が殴られちゃった」
「俺を殴ったのは百百川さんじゃなくてあのバーコードハゲだよ。百百川さんが謝ることなんかない」
俺は断固とした口調で言いつつ、俺を殴ったあのバーコード男の、異常に赤黒く変色した顔を思い出していた。
あの後、百百川さんによってしたたかに蹴りつけられたバーコード男は、痴漢と傷害の現行犯で逮捕された。
男はジュウコウセイサクショの営業本部長であったと言っていたから――それが本当なら、きっと社会的にも相当の罰を受けることになるだろう。
『お前ら、俺を誰だと思ってやがる――』
本当に、誰だと思われたかったのだろう?
俺はバーコードハゲの通勤鞄に結ばれていた、古ぼけたお守り袋を思い出していた。
拙い縫込み文字で『お父さんへ』と書かれた、子供のものと思われる手縫いのもの。
おそらくあのバーコード男にも、相応の年齢の娘がいたのだろう。
それを性犯罪という最悪の形でバラバラにしてしまった男の今後の人生は――恵まれているとは言えないものになる。
あなた、お父さん、本部長――誰かにそう呼ばれるだけでは足りなかった人生――。
一度でもそれ以外、それ以外のものを、卑劣な手段で望んでしまったことのツケ。
それを今後あのバーコード男は、今まで築いたものを切り崩して払い続けていくことになるのだ。
「私ね、中学の頃、ずっとあのバーコード男に痴漢されてたんだ」
ふと――百百川さんがそう言い、俺は百百川さんを見た。
随分覚悟が必要な告白だったに違いなく、百百川さんは暗い目をしていた。
「私もあの女の子と同じ中学だった。あの男、凄くしつこくて――でも、私は怖くて声を上げられなかった。悔しくて、恥ずかしくて、すっごく辛いのに――最低だよね」
百百川さんは何かへの嫌悪感を露わにした。
おそらくそれは、あのバーコード男以上に――何も言えなかった自分への嫌悪感も、きっとあったのだろう。
「でもね、いつだったか――一度だけ思い切り睨みつけてやったことがある。そしたらあの男、急に血相変えて離れていって――それから痴漢されなくなった。最低だよね、ホント」
ああ、最低だね、と俺も同意した。
徹頭徹尾、あの男は――そういう男だったのだろう。
弱いもの相手なら、きっと誰でもよかったのだろう。
「それでわかったんだ。ああ、伝える気になれば伝わるんだって。いつもあんな目をしてれば、嫌なものは私に近づいて来ないんだって――」
その言葉に――俺は無言で百百川さんのスカートに視線を落とした。
制服のスカートに留まっている安全ピン。
百百川さんの巨大な肉体を考えれば、それはどう考えてもスカートの丈を詰めるためのものではない。
ましてや丈を詰めるなら縦に留めるのはおかしいし、それはあまりおしゃれとも言えないデザインの安全ピンだ。
スカートに安全ピン――それは、痴漢対策として一昔前に流行ったやり方だった。
いざというときは、それで痴漢する手を突き刺すぞという無言の意思表示――。
実際にやるかどうかは別として、そんな時代遅れな自衛方法をまだやっている、否、やらざるを得ない百百川さん。
クールビューティな百百川さん。
風紀委員長の百百川さん。
一皮剥けば全くクールでも風紀的でもない百百川さんが、そうならざるを得なくなった理由。
それには、あのバーコード男のような、卑劣としか言いようがない男が存在があったのかもしれない。
「でも――間違ってた。私が被害に遭わないだけじゃダメなの。あの女の子が痴漢されてるのに気づいた時に思ったんだ。あいつ、私の顔も覚えてなかったみたいだった。私が特別なんじゃなかった。あいつにとっては誰でもよかったんだ、矛先が変わるだけなんだって――」
だから、独りぼっちであの男を捕まえようとした。
百百川さんは何も悪くないのに。
悪いのはあのバーコード男だったのに。
はぁ、と、百百川さんは萎むようなため息を吐いた。
「誰も巻き込まないようにって思ってたのに――結局藤村君にケガさせちゃった。ごめんね藤村君。こんなことになるなら……」
「珍棒ぶら下げて生まれてきたなら、それで当たり前さ」
ふと――そんな言葉が口を突いて出て、百百川さんが俺を見た。
俺はまだ少し痛む頬を持ち上げて笑った。
「忘れてるかもしれないけどさ――俺、男なんだよ。百百川さんにはついてない、ごく汚いものが股の間にぶら下がってるよ」
百百川さんが目を点にして俺を見た。
「俺の姉ちゃんが言ってたよ。私は任意の男の珍棒を腐らせる能力がもらえるなら、腕一本ぐらいはくれてやってもいいってさ。女の人は誰だってそれぐらい思いつめてるんだって。だったら男だって、その汚いもの分ぐらい、我慢したり、正義を励ましたりする覚悟があるべきだ」
たぶん百百川さんだって――その言葉の通りのことを考えていたのだろう。
「腕と珍棒、どっちか選べっていうなら、俺は腕の方が大事だしね」
俺が滅茶苦茶な理屈と共に笑うと、五秒ぐらいの沈黙の後……百百川さんも笑い出した。
ぷっ、ふふ、うふふ、あはは、あははははは……と、笑い声は少しずつ大きくなった。
「面白いこと言うお姉さんだね」
「至ってふしだらな姉だけどね」
俺たちはしばらく笑い合った。
「ところで百百川さん――あの時はカッコよかったよ」
「うぇ?」
「あのドロップキック」
うッ……!? と百百川さんが目を見開いた。
「凄かったなぁ。砲弾かと思ったもん、俺。こう、クラウチングスタートから助走して――凄い光景だったよ。駅の人みんな見てたもんな。そりゃ見るって。あんな打点が高いドロップキック。一生に一度拝めるかどうかだよ」
俺があの光景を思い出しながら言うと、まるでその周囲だけ酸素が薄くなっていっているというように――百百川さんの顔がちょっとずつ赤くなり始めた。
「そのまま追いついて捕まえるかと思いきや、まさかのドロップキック……しかも凄い綺麗なヤツ。バーコードハゲ、完全に失神してたもんな。警察より先に担架が来たりして――でもあの女の子は凄い尊敬する目で百百川さんのこと見てたし――」
「あー、うー!」
百百川さんが「あー、うー!」と言いながら腕を滅茶苦茶に振り回し、俺の回顧を遮った。
違うの違うのあれは違うの、と喚きながら、百百川さんはばるんばるんと必死に主張した。
「違うの! あれは咄嗟にやっちゃっただけ! 私はクールビューティな風紀委員長だもの、ドロップキックなんて狙ってやったりしないの!」
「いやだって、実際にやってるとこ見ちゃったし……」
「キーッ! またそうやって揚げ足を取る! どこの世界にドロップキックしてくる風紀委員長がいるのよ! それ絶対に学校で言い触らしたりしないでね! 絶対だよ!?」
やっぱり、可愛いなぁこの人。
はいはい、と応じながら、俺たちは分かれ道までの道を歩き続けた。
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