第14話電車と尻④

百百川さんは身長が百五十センチ程度しかない。

だから電車の吊り革には、精一杯腕を伸ばさなければ指が引っかからない。


百百川さんはぐいっと背伸びをするように右手を伸ばし、つり革に指の第一関節だけをひっかけている。

当然、色々とたわわな肉体を包んでいる布地は上へ上へと引っ張られ――布地やボタンがミチミチと軋む。


ごくっ、と、隣のOLさんが、百百川さんを見て生唾を飲み込む音が聞こえた辺りで、『次は新町、新町です――』というアナウンスが流れてきた。


電車の端の方で様子を伺っていた俺は、乗り込んでくる乗客の中に目当ての人物を探した。


いた! あの日、百百川さんと俺の前に立っていた女子中学生だ。

中学生の女の子は電車に乗る前、おどおどと辺りの様子を窺い、何らかの覚悟を決めたような表情で乗り込んできた。

よく見れば、如何にも大人しげで引っ込み思案そうで、そういうものの標的になりそうな女の子だ。

これから爽やかな朝を迎えるとは思えない顔色の悪さに、俺はますます確信を抱いた。




その子がドアのすぐ横のつり革に掴まった途端、案の定――百百川さんが動いた。




百百川さんはぐいぐいと腰を使って乗客を押しのけ、その子の目の前に座った――否、陣取った。

幸運なことに――そのときの百百川さんの隣の座席は、二人分ほど空きがあった。


俺は百百川さんと同時ぐらいに動き出し、舌打ちの嵐をも無視して人混みを掻き分け、百百川さんの隣にどっかりと腰を下ろした。


不審そうに俺の顔を見た百百川さんの顔が――ちょっと驚いたように見えた。


「藤村君――!」


俺はその声を無視して、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。

そのまま、スマートフォンを持った右手の肘を左手で支え、百百川さんにも画面が見えるように掲げた。




《百百川さん、知らんぷりして》




俺が画面にそう打ち込むと、百百川さんはもう一度だけ不審そうに俺の顔を見た。

俺は画面の文字を消し、もう一度別の文章を打ち込んだ。




《俺たちで痴漢を捕まえてやろう》




その文章に、百百川さんが驚きの表情を浮かべる。

知ってたの? という風に俺を見た百百川さんだったけど――さっきの《知らんぷりして》を思い出したのか、百百川さんはぎゅっと唇を引き結び、形の良い膝の上に両の握り拳を置いた。


「ひっ、ひひふぅ、ひふぅ、ひひひふぅ……」


しばらくして聞こえてきた音を――最初、何の音かと思った。

乗客の何人かも、不審そうに虚空を見上げて音の出どころを探っている。

見ると、百百川さんは横を向き、タコのように唇を尖らせ、口笛を吹いていた。


一瞬、百百川さんは冗談でやってるのかと俺は真剣に疑った。

今どき「素知らぬ顔」をするとして、口笛を吹いたりする昭和のギャグアニメみたいなことをする人がいるとは――。

否、この人ならやりかねない。自称クールビューティだけど、中身は至ってポンコツというか、アホの子である、この人なら。


と――そのとき。

目の前の女子中学生の身体が、ぴくっ、と震えた気がした。

俺はスマホの画面を見るフリをして、慎重に視線を上にずらした。


なんとというか、やっぱりというか――。

中学生の女の子の後ろに立っていたのは、あのとき百百川さんのスカートを覗こうとしていた、サラリーマンのおっさんだった。


物悲しいバーコード頭に、堅物そうな黒縁メガネ、如何にもくたびれた中間管理職といえる男の左手が――電車の揺れに合わせて女の子の太ももに触れている。

吐き気がしそうな光景だと思っているうちにも、その指の動きはエスカレートし、まるでくすぐりをかけるかのように、隣の女の子の太ももを指の腹でさすったり、つついたりしている。


百百川さんの目が鋭くなった。

やっぱり、と、俺はあの日の百百川さんの不可解な行動を思った。




百百川さんは――どういうわけなのか、この女子中学生が痴漢の被害に遭っていたことを知っていたのだ。

だからあの日、俺の隣に無理やり座ってきたのは、俺の隣に来たかったわけではなく、この女の子のことを監視するためだった。


だが――あの日はその気がなかったのかなんなのか、バーコード男は俺たちとは向かいの席に座っており、犯行には及ばなかった。

百百川さんは必死になって痴漢の現行犯を押さえよう、この子を護ろうと、この中学生の女の子を張っていたに違いない。




ちょんちょん、と俺は肘で百百川さんをつついた。

百百川さんは我に返ったように俺を見た。

俺は素早く画面に文字を打った。




《百百川さん、嫌かもしれない、気持ち悪いかもしれないけど、我慢してくれ》




俺はそう入力するなり、百百川さんの肩に左手を伸ばし、その肩をぐい、と引き寄せた。



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