第15話電車と尻⑤
うひゃっ!? と息を呑んだ百百川さんは身体を固くしたけど、俺は構わず百百川さんに頬を寄せ、そのままの体勢でスマホを操作した。
俺はスマートフォンのカメラを起動し、それをインカメラにする。
チャンスは何度かあるが、ここから尼高井駅まで一番長い高架はすぐそこだ。
スマホのインカメラに、俺の間抜け面と――茹で蛸のように真っ赤になった百百川さんの顔が映し出される。
こうすれば、あのバーコード男には高校生のカップルがイチャイチャしながらスマホを見ているようにしか見えないだろうし、百百川さんの前に立った女の子の撮影もしやすくなる。
俺はそのままスマホを持ち上げ、スマホの角度を調整すると、頃合いを見計らい、慎重にその上に親指を置いた。
途端に、ゴォ――と耳を劈くような音とともに、電車が高架下に突入した。
俺はその音に紛れるよう、動画の撮影ボタンを押した。
それからしばらくスマホの角度を調整すると――映った。
真っ暗になった、俺たちの背後の車窓。
そこには屈辱と恐怖に必死になって耐えている中学生の女の子と、その太ももを弄っているバーコード男の姿と手先が映っており――。
なおかつその動画は、俺のスマホのインカメラに、バッチリと撮影されていた。
スマートフォンの端に映った百百川さんの目が、みるみる丸くなっていく。
通常、これから痴漢をしようとしている男に向かってスマートフォンを構えれば――しかもそのスマホが、俺と百百川さん、二人で画面を見ているにしては角度がおかしいことを察されれば――男は手を引っ込めるに違いない。
だが、それが背後の窓ガラスに映った像なら――少し角度を調整することで、背後の窓に映し出される犯行の決定的瞬間をインカメラで十分に撮影することが可能だ。
そう、これは電車が高架の下を通り、真っ暗になった窓に乗客たちの姿が映る、その一瞬しかできない撮影方法だった。
これで動かぬ証拠は撮影できた。
俺が「よし」と呟いた途端、電車はトンネルを抜け――やがてゆっくりと慣性が働き始めた。
『次は、白百合学園前、白百合学園前――』
そのアナウンスとともに、俺たちは同時に立ち上がった。
逃げるように降りていこうとする女の子の手を百百川さんが、素知らぬ顔のままのバーコード男の右手首を、俺が掴んだ。
「逃げんなよ、このバーコード痴漢野郎」
俺の大声に、乗客の視線が一斉にバーコード男に集中した。
えっ!? と露骨に狼狽えたバーコード男が、血相変えて喚いた。
「な、何を――!? しっ、証拠はあるんだろうな!?」
「証拠なら私と、藤村君と、この子がいます!」
百百川さんの大声に、バーコード頭はますます狼狽したようだった。
百百川さんは震える中学生の女の子の肩を抱き、バーコード男を思い切り睨みつけた。
「ずっと見てたわよ! アンタ、一ヶ月ぐらい前からこの子をしつこく狙ってたでしょ! 可哀想に、こんなに震えて――こんな若い子を狙うなんて恥ずかしくないの!?」
「なっ、何を言うんだ、君たちは! こっ、こ、子供のくせに大人を痴漢扱いするのか! 無礼もいい加減に――!」
「おっと、おっさん。証拠はここにもあるぞ」
俺がスマートフォンを掲げて示すと、何が起こったのか理解したらしいバーコード男がサーッと血の気を失った。
「な――!」
「さ、降りた降りた。はーいみなさん、痴漢が通りますよー。どいてくださいねー」
俺が有無を言わさずにおっさんの腕を掴んでホームに降りると、ぷしゅん、と絶妙のタイミングで電車のドアが閉まった。
青い顔をしている中学生の女の子と、脂汗ダラダラで手首を拘束されているバーコード頭の男、これは誰がどう見たって痴漢の現行犯にしか見えないだろう。
案の定、乗客たちの白い目の集中砲火を浴びたバーコード男は、その視線の冷たさにますます狼狽えたようだった。
「こっ、これは名誉毀損だッ! 誰か弁護士を呼んでくれ! でっ、でっち上げなんだッ! だっ、第一、その子は何も言ってないじゃないか! 証拠不十分だぞ! こ、これは冤罪だ、痴漢冤罪だッ!」
滝のように脂汗を流しながら、バーコード男は罵るように中学生の女の子に向かって喚いた。
大人の男に怒鳴られたのか怖かったのか、それとも百百川さんの言葉に安心したのか、中学生の女の子がシクシクと泣き出した。
百百川さんはその子を胸に抱き寄せて、その心を溶かすように、ゆっくりと撫でてやる。
「可哀想に、怖かったね――。でも、もう大丈夫。お姉さんたちがついてるもん。――何が起こったのか、言える?」
その言葉に、ぐすっ、と洟を啜った女の子は――真っ赤な目でバーコード男を睨みつけ、その鼻先を指さした。
「私はッ! このおじさんにずっと痴漢されてましたッ!」
周りの乗客たちがびっくりして振り返るぐらい、その声は大きかった。
処刑宣告を受けて青くなるかと思いきや。
バーコード男の顔が突如――一瞬で赤黒く変色した。
「ふざけるんじゃねぇ、ガキの癖にマセやがって! 別に俺はパンツの中に手ェ入れたわけじゃねぇぞ! ただ触っただけじゃねぇか! それがいくらの罪になるってんだ、ええ!?」
バーコード男は目をひん剥き、白目を血走らせながら女の子に向かって喚いた。
なるほど、この男の珍棒を腐り落とせるなら、確かに腕の一本ぐらいならくれてやれる気持ちになるだろう。
ちら、と俺が辺りを伺うと、騒ぎを察知した駅員が数人、既にこちらに向かって駆け寄ってきていた。
「触られたくねぇならそんな格好で電車なんかに乗ってんじゃねぇ! 何が痴漢だ、くだらねぇ、お前ら俺を誰だと思ってやがる! 俺はジュウコウセイサクショの営業本部長だぞ! お前らみたいなガキは俺の力でどうとでもなるんだからな! いいのかガキども、俺を怒らせたらどうなるか――!」
「いい加減にしろよオッサン」
俺が右手首に捻じり上げるような動きを与えると、うひぃ、とバーコード頭が情けない悲鳴を上げた。
「そんな大層な言い訳ができんなら警察署の中でしてみろよ。許してくれるってんなら許してくれるさ。俺らに向かって怒鳴るのはそれからでいいだろ、おい――」
俺がそう言った、その時だった。
ここぞとばかりに急激に増したバーコード男の腕の力に、一瞬、挙動が遅れた。
しまった、と思ったときには遅くて――俺はバーコードの左裏拳に思い切り頬を殴られていた。
ちょうど俺の頬に当たったのがバーコード男の腕時計で――情けないことに、世界が眩んだ。
うぐっ、と俺が顔をそむけた途端、バーコード男はヤカンが沸騰するような奇声を発しながら、駆け寄ってきた駅員をどうにか跳ね飛ばし――改札めがけて猛然と走り出した。
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