第13話電車と尻③

「ただいま、姉ちゃん」

「んー」


部屋に入るなり――俺はドサッとスクールバッグを取り落した。


姉であり、人気スプラッタミステリー小説家である四乃しのは――下はパンツ一丁、上半身は乳首の部分に大きめのポストイットの付箋を二枚貼り付けただけの、極めてふしだらな格好でPCに向かっていた。


この姉は頭と顔と身体は引き締まっているが、その反面、何かに締めつけられると途端に何もかもダメになる人なのだけど――それにしたって今の風体はフリーダムすぎる。

当然、俺は愕然と呟いた。


「姉ちゃん――」

「んー?」

「それはいけない。それはいけないよ。人間として――」

「いけないってことはないわ。続きが書けなくて読者に迷惑かけちゃうことの方が遥かにいけない。いいわよ別に誰に見られたって減るもんじゃなし」

「減るだろ! 俺の人間性と尊厳が! せめてブラジャーぐらいはしてくれよ!」


俺の大声に、この間拾ってきた猫のエンラクが姉の膝の上でにゃあと鳴いた。

昼寝していたのだろうエンラクの不満げな鳴き声に構わず、俺はふしだらな姉に向かって嘆いた。


「姉ちゃんがそんなんだから俺が不健康に育つんだよ! 姉ちゃんは男子が抱く女子に対する幻想をぶち壊しすぎだって!」

「よかったじゃないのそんなもんが壊れて。一皮引っ剥がせばみんな骨。女の幻想とかいう妄想にいちいちちんちん勃ててたら、アンタ三十迎える前に死ぬわよ」

「むしろ俺は死んでもいいから幻想を抱いてみたかったよ! 今日なんか右足を犠牲にしたのに全然不健康な結果に終わったんだ!」


その一言に、ん――? と姉は疑わしげに俺を見て、スンスン、と鼻を動かした。

この姉は昔から異常なほどに鼻が利くのだ。


「この匂いは……ふーん、サンゾー。アンタあの百百川さんとかいうのと随分親しくなったのね?」

「親しくなったわけじゃない。潰されたんだ、電車で、右足を、二十分近く」

「この間ブロック塀にハマってたあの尻に?」

「この間ブロック塀にハマってたあの尻にさ」

「で、アンタはその子に自分の右足を潰された理由が気になるわけだ?」


え――と、俺は姉の言葉に絶句してしまった。


「え――なんでわかるの?」

「バカね。私も尼高井高校に通ってたのよ? あそこは途中オフィス街があるから、そこで大抵の人は降りる。如何に尻がデカくとも、その百百川さんとかいう子が座れないはずがない。なのにその百百川さんはアンタの隣に無理やり座ってきた。アンタと話がしたいだけなら一緒に立つか別の開いてる席に誘えばいいだけなのに」


恐ろしいほど先回りしてふしだらな姉はズバズバと指摘した。

全く、この姉は格好こそふしだらだが、頭の中身は恐ろしく整理整頓されているらしい。


「やっぱり理由があるんだ――」


俺が言うと、姉は体ごとPCに向き直り、カタカタとキーボードを叩き始めた。




「一応詳しく聞いてやろう――百百川さんはアンタより先に電車に乗ってたの?」

「うん」

「途中までは座ることもなく立ってたわけだ」

「そうだよ」

「なるほど。たぶん、百百川さんの視線は座席じゃなく、乗客の顔を見てたんじゃない?」

「そ――その通り」

「百百川さんはどこでアンタの隣に座ってきた?」

「新町駅を出発した辺りだ」




答えると、姉は視線をモニターから外さないまま、右手の指を折って数を数え出した。

みっつ、よっつ……と何のためか数を数えてから、姉は「最後の質問」と言った。




「アンタの目の前……というより、百百川さんの目の前に誰が立ってたか覚えてる?」




俺はあのときの電車内の光景を思い出した。

あのとき、無理やり隙間に尻をねじ込もうとした百百川さんを、驚いたように見つめていた中学生の女の子。

そう言えば――あの中学生が着ていた制服は、ここらじゃ随一のお嬢様学校と有名な私立中学校のものだ。




そして――最後に思い出した光景。

百百川さんのスカートに縫い留められた、大きな安全ピン――。




かちり、と、頭の中で何かが一致する音が聞こえた。

あ、と俺が言うと、姉が「多分そういうことよ」と頷いた。


「すげぇ――なんでわかったの、姉ちゃん?」


俺の言葉に、ハァ、と姉は大仰にため息をつき、吐き捨てるように言った。


「これでも一応女よ。そういうことなら掃いて捨てるほど経験してるっつーの。全く、私が願った相手の珍棒が腐り落ちる能力が手に入るなら、私は腕の一本ぐらいくれてやってもいいわ」

「そ――そうなんだ。大変だね……」

「以上の結果を踏まえて、もう一度言ってみろ。私のこのふしだらな格好を見て、そういうことに慣らされたアンタの境遇が、幸福なのか不幸なのか」

「こ、幸福です――」

「よろしい」


姉は乳首に貼り付けたポストイットを丹念に貼り直しながら頷いた。

俺は姉を遠慮がちに見た。


「それで――姉ちゃん」

「あん?」

「俺、どうしたらいいかな?」


実際、俺たち姉弟の予想が正しければ、このまま放置はしておけないだろう。


姉はエンラクを撫でながら「んなこと、決まってるでしょ」と感情の籠もらない口調で言った。




「勇気ある乙女を助けんのよ。知恵を絞って、体を張って――ね。股の間に珍棒ぶらさげて生まれたなら、それがアンタの義務よ」



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