第9話壁と尻⑨
「あっ、ごめん藤村君!」
その声に、俺は振り返った。
流石短距離の選手らしく、弾むように――否、実際にいろんな部分を弾ませて、パーカーにジャージという服装の百百川さんがやってきた。
百百川さんは膝に手をついてしばらく呼吸を整えた。
きっと余程の勢いで走ってきたのだろう。
「ごめ……わざわざ届けに来て……もらっちゃって。私……さっきすごく……慌ててて……!」
ひとつ、発見だ。
百百川さんは慌てると、とにかく『ごめん』が口をついて出る人らしい。
クラスではクールで孤高に見えていたのは、意外にこの謙虚で卑屈な性格故なのかもしれない。
「全然気にしてないよ。ほらこれ、百百川さんのバッグとスマホ」
俺がバッグを差し出すと、それを受け取った百百川さんが眉をハの字にし、がばっと手を合わせた。
「もう今日は何から何まで本っ当にごめん! 重かったでしょう? 後でお礼はちゃんとするから――!」
「お礼なんていいよ。――それより百百川さん、コイツのことなんだけど」
俺はYシャツの胸の部分を覗き込んだ。
俺の顔を見て、胸の中でぬくぬくと温まっていたキジトラ模様の子猫がピョンと顔を出した。
百百川さんは目玉がこぼれるのではないかと思うほどに目を見開いた。
「あ、え、エンラク――!?」
エンラク?
思わず口に出すと、百百川さんは子猫と俺の顔を交互に見つめた。
「あ、藤村君……知ってたの? えんら――い、いや、その……子猫のこと?」
俺は笑って首を振った。
「いいや、知らなかった。でも、百百川さんのバッグから子猫用のミルクが出てきたら、いくらなんでもそういうことなんだろうとは思ったよ。結構人懐っこい猫だから捕まってくれて助かったよ」
そう、あの『壁から尻事件』の発端はこの猫。
百百川さんは、この猫に餌をやるためにこの廃工場に入ったのだ。
侵入した場所は、近くのブロック塀の崩れた場所。
そこから敷地内に侵入した百百川さんが子猫に餌をやっている間に、侵入した場所の真ん前にトラックが停車してしまった。
出入り口を塞がれた百百川さんは途方に暮れた挙げ句――壁の穴を見つけて、そこから外に這い出ようと決意したのだろう。
つまり、あの時の百百川さんは、穴を覗こうとしていてハマったのではない。
あの穴から外に出ようとしていたのだ。
『サンゾー、その子、パンツ見えてた?』
さっきの姉の下品な指摘は、反面、見事にそれを裏付ける発言だった。
仮に百百川さんがこの穴から脱出しようとしたとしても、百百川さんの身長ではこの穴に首を突っ込むのがせいぜいだ。
それに胸の高さの穴から頭を出すと――当然地面に手はつかない。
もし抜け出したとしても、そのまま地面に頭から墜落してしまう。
色々ずっしりしてる百百川さんでなくとも、これは痛いだろう。
つまり、百百川さんは足から這い出なければいけなかったのだ。
あの崩れてきたブロックで潰れた一斗缶――百百川さんはあれを踏み台にしたのだろう。
百百川さんは慎重に一斗缶によじ登り、穴から両足を出した。
そこでスカートがめくれて、全てが壁の外に丸出しになった。
それでも構わず、脱出のために遮二無二尻をねじ込んだところまではよかった。
だが――百百川さんの低い身長では、地面に足はつかなかった。
焦っているうちに下半身の重さであれよあれよと体勢は崩れ――百百川さんの身体はヤジロベエ状態で壁にひっかかってしまった。
俺は工場の内側から百百川さんを引っ張ったから、尻がハマったのだと錯覚していたけれど、それは違う。
思えばあんな短いスカート履きの乙女が、随分大胆なことをしたものだ。
それもこれも、みんなこの猫のためであったのだから責められないけれど。
大体の流れを頭の中に確認していると、百百川さんはシュンとした表情を浮かべた。
驚いたり喜んだり落ち込んだり、百百川さんの表情はとにかく忙しかった。
「この間、この工場で見つけたの。ほっとけなくて声をかけたら懐いてくれて、でもうちはペットは飼えない家庭だから――」
まぁ、それだけ懐いてくれたなら、百百川さんは当然そうしたかっただろう。
だからといって見捨てることも出来ず、百百川さんは登下校の途中にこの子猫に餌をやっていたのだ。
俺にそうなった言えなかったのは、おそらく本人のイメージがあったから――こう見えて猫好き、という本性を俺に知られたくなかったのだろう。
全く、本当に見た目と中身が違うなぁ――。
俺は内心苦笑して、それから言った。
「それでさ、百百川さん。この猫のことなんだけど――ウチで飼ったらダメかな?」
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