第10話壁と尻・終
ふぇ? と百百川さんはそのクールな顔つきに不似合いな声を発した。
「ウチはアパート暮らしなんだけど、猫ならOKなんだ。もし百百川さんが許してくれるなら、うちで猫――おっと、エンラクの面倒を見ようかなと思ってるんだけど……」
どうかな? と視線で尋ねると、百百川さんの顔がパッと笑顔になった。
「いいの!?」
「いいとも」
「わぁ、やったあ! ありがとう藤村君!」
百百川さんはそう言ってばるんばるんと飛び跳ね――そのままの勢いで俺の首にガッチリと抱きついてきた。
うおっ、と思っていると、百百川さんの胸で潰されたエンラクが、ムギャア、とすごい声で鳴いた。
その悲鳴に、今自分が思わず何をしたのかわかったらしい百百川さんが――あっ、と変な声を出した。
「あ――」
「えっ?」
「あぅ、あああっ、あああ……あう……!」
俺から身体を離した百百川さんが、あわあわと狼狽えた。
うわ、凄い勢いで顔が真っ赤になっていく――卒倒するんじゃないかと俺が心配になった途端だった。
百百川さんは慌てて顔の前で両手をブンブンと振った。
「あっ、ご、ごめんなさ……! あっ、今のは……! 今のは違うの……!」
「いや、百百川さん落ち着いて。俺は全然気にしてないから……」
「あ……いや、ダメダメダメダメ! ふっ、藤村君が気にしなくても私が気になるの! こんなふしだらなことしたら今まで築いてきたイメージが台無し……!」
「イメージって」
俺が思わず苦笑いすると、はっ、と百百川さんがますます慌てた。
「あ、あうう……そんな顔するな! 私はふしだらじゃない! 断じてふしだらではないの!」
「もうわかったって」
「キィー! またそうやって笑う! 同学年の男子とは思えない憎たらしいほどの余裕! 私は品行方正なクールビューティなの! だって風紀委員長だもの! 両者の合意もなく男の子に抱きついたりしちゃいけないの! そんなふしだらな行為許されないの!」
ばるんばるんとふしだらな肉体を弾ませながら、百百川さんは気の毒なぐらいふしだら、ふしだらと連呼した。
気の毒なぐらい真っ赤になった百百川さんは、地団駄を踏むやら顔を両手で隠すやらした後、涙目になって俺を見た。
「とっ、とにかく! いっ、今の私は忘れて、ね? 別人がやったと思って! ねっ!?」
「わかったって」
俺が頷くと、百百川さんの興奮はようやく萎んだようだった。
「あの……それとね今日はありがとう」
ふと――。
百百川さんは俺の両手を取り、ぼそぼそと俯き加減に言った。
「助けてくれただけじゃなくて、猫のことまで、とにかくありがとう。あの時はちゃんとお礼も言えなかったのに……。あの、私、もし藤村君がグレてピアスとかしたときにかばってあげるぐらいしか出来ないけど……」
もちろん俺には今後ピアスなんてする予定はなかったけど――その必死さは手の温かみと一緒に十分に伝わった。
俺は少し吹き出し気味に言った。
「うん、ありがとう。約束だよ?」
俺が両手を握り返すと、百百川さんはバッと真っ赤な顔を上げた。
「ちなみにこれは独り言だから先生には言わないでね!」
「うん? うん、それはもちろん……」
「きっとだよ? とにかくありがとう! そしてさよなら! また明日――!」
それだけ言うなり――。
うぃやああああああ! という奇声を発しながら、百百川さんは夕方と同じようにだばだば《《》》と――もの凄い勢いで走っていった。
流石は陸上の短距離選手と思える力走の度に、ジャージに危うく包まれた尻が、まるで俺にさようならをするように左右に揺れた。
二十メートルぐらい離れてから――。
はっ、と声を上げて、百百川さんが立ち止まった。
「あっ、あの、藤村君!」
「え――何?」
「たまにでいいんだけど……藤村君の家に猫を撫でに行ってもいい?」
「え? ……ああ、いいけど」
「やった! じゃあまたね!」
律儀に喜んでから、百百川さんは再び
彗星のように消えていったその姿を見ながら。
百百川さんって何だか想像していたのと違うなぁ……と他人事のように考えていた。
クールで孤高な百百川さん。
スプリンターの百百川さん。
身体は派手だけど、至って真面目で几帳面で物静かな百百川さん。
反面、一皮剥けば隙だらけで、すぐに赤面する百百川さん。
話をしてみるとあんな人だったんだなぁ――と考えながら、俺はフッと笑った。
なんだか、身体の奥底、手を伸ばしても届かない場所が猛烈に痒く感じていた。
俺に厄介な女への抗体がなかったら。
もしかしたら――。
急に、そこから先を考えるのが気恥ずかしくなって、俺は無言で踵を返した。
途中、百百川さんにしたたかに押し潰されたエンラクが、にゃあ、と不満そうに鳴いた。
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