第6話壁と尻⑥

「ただいま」

「んー」


アパートのドアを開けると、カタカタ……というキーボードを打つ音と、低い声が重なって聞こえてきた。


自分の分の通学バッグを床に落として部屋の中に入ると――ノーブラのタンクトップにパンツ一丁という、痴女風の女がいた。

女は長い前髪をごっそりとヘアピンで持ち上げ、コンタクトではなく眼鏡で、椅子の上で胡座をかきながらパソコンに向かっていた。

部屋の中とは言え、あまりにも不埒な風体の女を見て――当然、俺は遠慮なく口を尖らせた。


「姉ちゃん」

「んー?」

「カーテン開けっぱでふしだらな格好すんなっていつも言ってるだろ? 向かいのアパートから丸見えだよ?」

「うるさいぞー弟の分際でー。今いいとこなんだから邪魔しないでよ。いよいよ第一の殺人が起こるところなんだから」

「被害者はどうなって死ぬ予定?」

「全身を二十五のパーツに細切れにされて壺に入れられる」

「エグっ」

「エグかないわ。所詮は架空の人物の話よ」


俺の姉である藤村四乃しのは、ほとんど抑揚なくそう言った。


俺とは四つ年が離れているこの姉の職業は――小説家である。

しかも手掛ける作品は、手練のミステリファンですら顔を背ける猟奇殺人専門。

大学入学とともにとある高名なミステリ小説賞で大賞を射止めから、まるでテニスのスマッシュのように力作を上梓し続け、有名作家にもファンであることを公言する人がいる人気小説家だった。


実力派、新進気鋭という名声以上に、人前に露出する時は常にバリッとしたスーツ姿で現れる、怜悧な美貌のミステリ作家として知られる姉の――その正体がこれだった。


弟の俺から見ても、姉は幼い頃からとにかく奇人変人の類に入る人間だった。

昔から頭はズバ抜けてよかったし、顔の造作も人並み以上だとは思うのだけど、とにかくだらしなくて、際限なくものぐさなのだ。

この姉はとにかく「締め付け」の類が一個でも身体にあると途端に不快になるという面倒な体質の持ち主で、そのせいか仕事をするときはいつも基本的にほぼ全裸だ。

俺が進学と同時にこの部屋を借りた時、家賃を全額負担する代わりにこの部屋を書斎兼仕事場にしてしまった姉は、俺が何度注意しても頑なにこのほぼ全裸スタイルでの執筆をやめようとしない。

そのおかげで俺には女物のパンツやブラジャーに対するほぼ完全なる抗体が出来てしまい、さっきの百百川さんのあられもない姿にも全く興奮できないという、極めて不健康で悲しい男子高校生になってしまったわけである。


全く、この姉さえこうでなけりゃな――。

何故か損をした気分の俺がため息をつきながら百百川さんのバッグを床に下ろすと、姉がクンクンと鼻を鳴らした。


「くさい」


ん? と俺は姉を見た。

姉はキーボードを叩く手を止め、俺を上から下までジロジロと見た。


「サンゾー……もしかしてアンタ、彼女とかできた?」


突然の物言いに、俺は眉間に皺を寄せた。


「とか、ってなんだよ? それに女の世話なんて姉ちゃん一人で十分だよ」

「ふん、言うようになったわね弟の分際で。いい年してアンタ彼女もいないの?」

「姉ちゃんはいたことあるのかよ? 彼氏か、もしくはそれに準ずるものが」

「いいから答えな。アンタからいつもと違う匂いがすんのよ。気になるじゃない」


どういうわけだか、この姉は昔から鼻と耳が異常にいいのだ。

俺は首を振って――それから、あ、と声を上げた。


「もしかして、これのこと?」


俺が百百川さんのバッグを見せると、姉は露骨に不審そうな表情になった。


「置き引き――とかではないでしょうね。アンタそんな事ができるぐらいちんちんでっかくないもんね」

「姉ちゃんは俺のちんちんの何を知ってるっていうんだよ。拾ったの。たまたまだよ」

「ほーん、そんなデカいバッグ落っことしたことに気づかない人間いるの?」

「いたよ。しかもブロック壁の穴にハマって抜け出せなくなってた」

「ほほう。短編のネタぐらいにはなるかもしれないな。話してみろ」


俺は『壁から尻事件』の顛末を、なるべく脚色なく姉に伝えた。

途中、説明不足なことがあると「それってこうだった?」「こうなっていたんじゃない?」と姉は勝手に事件の全容を補完していった。

この姉は風体こそふしだらだが、頭の中身は恐ろしく整理整頓が行き届いているらしく、僅かな違和感や乖離も見逃さないのである。


俺が語り終えると、姉はしばらくパソコンの画面を見つめながら考え込んだ。


「いや正直、俺も驚いたよ。だってあんなにミッチリハマってると思ってなくてさ。やっぱりさ、人間ってなにか穴があったらつい覗き込みたくなっちゃうんだろうね。穴があったら入りたいお年頃――」


てっきり笑われるかと思ったけど、姉はクスリとも笑わなかった。

それどころか、俺が思いもよらないことを訊いてきた。




「サンゾー。その子、パンツ見えてた?」



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