マーシャラーのコワサン

 三メートルを優に超える巨体――ヒグマはウムラジアン大陸に生息する肉食獣の中で最大の動物だ。人間に対しても、その肉の味を知ってしまったなら、繰り返して襲うといわれている。

 そのような恐ろしい猛獣の視線を受けながらも、操縦席に座っているピクルスと後部座席のザラメは、既に冷静さを取り戻している。機体のすぐ外にいるヒグマを良く観察して表情や動作を冷静に捉えることこそが、今のピクルスたちにとって最重要事項なのだ。

 ブルーカルパッチョの真正面に立つヒグマは、まず両手を頭上に掲げて交差させて見せた。それは「停止せよ」を意味しているので、ピクルスは迷わずブレーキを踏んだ。

 ヒグマの方は、近くに置いてある大きな水色のスポーツバッグからフルフェースのヘルメットを取り出して、すぐさま頭に装着した。


「ボンジュース! よおぉおいでなすったなや。げにお疲れんこつばい」


 ヒグマが、やや訛りのあるフランセ語で話しかけてきた。

 これに対してピクルスは全く驚かない。ヘルメットを見て、それが熊言語通訳装置だと分かっており、スピーカーから人語の出ることを想定していたのだ。

 ピクルスの白い指が滑らかに動いて操作パネルに触れた。直後、ザラメのシートベルトが解除されて、後部座席の扉が開く。

 ザラメは左右の安全を確認後、ブルーカルパッチョから飛び降りた。続いてピクルス自身も操縦席の扉を開き、悠然とした態度で外へ出る。

 上から見下ろしていたヒグマが頭を軽く下げた。どうやら最低限の礼儀は、わきまえているらしい。


「わたくし、キュウカンバ伯爵家のピクルス大佐ですわよ!」

「おいらはコワサンにごわす。こん飛行場でマーシャラーをしており申す」


 コワサンと名乗ったヒグマは、大きな右手を差し出してきた。

 手の平のサイズが違い過ぎて握手にならないと判断したピクルスは、彼の指先から伸びている鋭い爪を握り、上下に軽く振った。

 ピクルスの手が爪から離れた後、大きな毛むくじゃらの右手は、一路ザラメの鼻先へ向かった。


「ヴェッポン国自衛軍のザラメ軍曹であります!」


 口頭による簡単な自己紹介を済ませたザラメは、尻尾を振りながら、差し出されたコワサンの右手の甲をペロリ・ペロリと二度続けて舐めた。


「うひょひょお~! まっこつ、くすぐったかぁ~」


 コワサンは目を細めて笑った。こそばゆそうな表情をしながらも、なかなか右手を引っ込めようとしない。舐めて貰って満更でもないというような様子だ。

 離れたところからだと、単に熊と犬が戯れているだけの光景に見えるかもしれないのだが、これは、コワサンが意図的にやっているフェイクである。つまり、大きな背中でピクルスを隠しているのだ。


「ピクルス姫」


 ヘルメットのスピーカーからではなく、コワサンの胸の辺りから直接若い男の声が響いた。間近のピクルスでさえ、やっと聞き取れるほどの小さい声だ。

 ピクルスも声を落として尋ねる。


「どうしてそれを? あなた何者?」

「ウムラジアン王家に縁ある者……それだけしか、まだ明かせません」

「そう……」

「けれども、この僕を信じて下さいませ。しばらくの間は、あのスッパイーゼに騙されている振りを、してて頂きたいのです」

「ウィ」


 コワサンの胸から発せられる声は、これで途絶える。数人の尉官を従えたスッパイーゼが、既にピクルスたちの近くまで歩いてきているのだ。

 状況を察したザラメが、再びコワサンの右手を舐める。


「うひょうひょおぉ~! こげなぁくすぐったかぁこつぁなか~」


 咄嗟にピクルスも硬い表情を崩す。動物同士が触れ合うのを微笑ましく眺めている姿を、近づいてくる者たちの目に映すためだ。


「おやおや。早くも仲良しになったのだねえ」

「そのようですわ。おほほほ♪」

「はっはっは、それは良かった!」


 スッパイーゼの白い歯が光った。

 上から眺めていたコワサンはヘルメットを外して、そそくさとスポーツバッグへ収納した。これで今日のマーシャラーの仕事は終わりなのだ。

 コワサンの大きな背中が静かに去って行く。


「ところで、スッパイーゼ総大将」

「なんですかな?」

「チョリソール大尉は?」


 ピクルスは、大仰なまでに首をぐるりと動かして辺りを見回した。しかし、視界の範囲内にチョリソールの姿はない。


「グラハム‐チョリソール大尉のことは、ご心配に及びません。彼はコンコードという名の揺りかごの中、今は穏やかな寝息を立てているのです」

「まあ、居眠りですか!」


 わざと驚いて見せるピクルス。実際、チョリソールが仕事中に寝るはずはなく、ソシュアル国空軍本部の第三飛行場を離陸した直後、麻酔銃で撃たれたのだ。


「さて、キュウカンバ‐ピクルス大佐、あいえピクルス殿


 スッパイーゼの口調が敬意を含む形へと変化している。

 それに加えて違和感を湧かせる「王女殿下」という言葉に、ピクルスはただ自然に眉を寄せた。


「わたくしが王女?」

「ご存じありませんでしたか。結論だけを申しますれば、あなた様はフランセ国の正統な王位継承者のお一人なのです。今はそのようにご理解下さいませ」


 自分がフランセ国の王女のはずもない。少なくとも聞いたことはない。わずかに躊躇したが、それでもピクルスはコワサンの話を信じて、ここは「騙されている振り」をするに限ると思った。


「分かりましたわ♪」

「では予定通り、ピクルス王女殿下には、これからパスティーノ牢獄へ向かって頂きます。あの陸軍バスにお乗り下さい」


 スッパイーゼは滑走路の先を指差した。こちらへ向かって小型のバスが走ってくるのが見える。


「シュアー!」

「慌ただしくて大変恐縮ではありますが、なにとぞ良しなに」

「ウィ!」


 ――ゴーン・ゴーン・ゴーン♪


 遠くに見える建物の大時計が鳴った。大陸南部標準時刻で午後三時だ。

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