第8話 死んだと言った覚えはございません

「こ、これは……」


 私の私室に残った唯一の肖像画を見て、イグナーツは唾を飲み込む。

 故意に残した一枚は、顔の部分がズタズタに切り裂かれていた。

 もちろん、裂いたのは私である。

 森野優美がベルナデッタになったその日に、ペーパーナイフで切り裂いたものだ。

 

「……これでは『お父さま』のお顔は判りませんね」


 困ったわ、とドロテアは首を傾げる。

 少し演技が過剰気味な気がするのは、台本を知っているからだろう。

 

「髪の色は同じだろう。絵の中の男も、私も、おまえも、同じ銀の髪だ」


「ああ、そうですね! 『同じ』であれば判ります」


 それにしても、アウグストはどこまでイグナーツの性格を読んでいたのだろうか。

 用意された台本と、実際にイグナーツが言う台詞にはほとんど差が無い。

 そのため、ドロテアも演技に迷いが生じることはなかった。

 

「おまえたち!」


「はい、ドロテアお嬢様!」


 ドロテアの号令に、家令含む男性の使用人たちが一斉に動き始める。

 暴れられないようイグナーツの腕を捻りあげて取り押さえると、一拍遅れてイグナーツが自分の身に降りかかろうとしている事態に気が付いた。

 

「な、何をするっ! おまえたち、私を一体誰だと……っ!」


「誰って……『お父さま』を自称する、迷惑なお客様でしょうか?」


 でも、安心してください、と言ってドロテアは使用人たちとは違う動きをしていた家令へと手を差し出す。

 その手の上へと、ペーパーナイフが載せられた。

 

「絵の『お父さま』と『同じように』切り刻めば、同じお顔かどうか確認することができると思うんです」


 じっとしていてくださいね、と言ってドロテアはペーパーナイフをイグナーツの額に添える。

 もちろん、あらかじめ皮膚どころか、本来の用途である紙さえ切れないように刃を潰したペーパーナイフだ。

 私もアウグストも、可愛いドロテアの手を、血で汚すつもりはない。

 実際にイグナーツの顔を切り裂くことは、よほど力をこめない限りは不可能だった。

 

「止めろっ! そんなことをしなくとも、判るだろっ!? 私とおまえは、こんなにそっくりな顔をしているじゃないか!? 目の色も同じ、髪の色も同じ!」


 切って確かめる必要なんてない、とイグナーツは暴れたが、男性の使用人の方が腕力で勝る。

 貴族として戦場に立つ場合を考慮し、一応は身体を鍛えているはずなのだが、ただ鍛えただけの筋力と、実用から鍛えられた使用人たちの筋力が同じなはずがなかった。

 

「わかりたくありませんわ」


 アウグストによる演技指導の賜物でしかない微笑を浮かべ、ドロテアはイグナーツの額から鼻筋を通り、顎までを刃のつぶれたペーパーナイフで撫でる。

 痛みは無いはずだったが、顔面を切り裂かれると錯覚したイグナーツは盛大な叫び声をあげた。

 

 

 

 

 

 

「ロベルト、ただお顔をなぞるだけでは、やっぱりつまらないわ。赤い絵の具を使ってもいいでしょう?」


 数度ペーパーナイフで、イグナーツの顔を撫でたあと、ドロテアは不満気に眉を寄せる。

 イグナーツの反応は期待通りのものであったが、ドロテアの視覚的に変化はない。

 そこが不満だったのかもしれない。

 芝居であれば刃に仕掛けを施し、撫でた箇所に赤い筋をつけるぐらい可能なのだ。

 そこを後片付けを考えて、絵の具は使わない方向になったことが不満だったのだろう。

 

「……絵、絵の具……?」


「あら?」


 絵の具という単語を聞いて、呆然としたまま固まっていたイグナーツの目の焦点が戻る。

 ペーパーナイフで顔を撫でられはしたが、思ったよりも痛みが無いことに気が付いたのだろう。

 イグナーツは傷があるはずの頬を撫で、その手に血が付かないことを確認しはじめた。

 

 気付かれてしまったからには、この『お芝居ごっこ』は終わりだ。

 

「……ごめんなさい、お母さま。わたくし、失敗してしまったみたいです」


「いいのですよ、ドロテア。『お父さま』には充分お楽しみいただけたようですし」


 ねえ? イグナーツ様、と言いながら前へと進み出る。

 ドロテアの一人芝居が終わった以上、私がこれ以上黙っている必要はない。

 イグナーツはベールを被った私の姿に一瞬だけ瞬いて、しかし声で誰なのか判ったようだ。

 顔いっぱいに広がった嫌悪の色に、『娘と遊んでいる』間は弛められていた拘束が再開される。

 当たり前だ。

 使用人たちとしては、主人わたしへと危害を及ぼすわけにはいかない。

 使用人かれら主人ベルナデッタの味方だ。

 

「おまえは……っ! 死んだはずでは……」


「死んだと言った覚えはございませんが?」


 危篤である、という噂なら流したはずだ、と言ってドロテアへと退室を促す。

 父と母は大切なお話があります、と伝えると、ドロテアは素直に子ども部屋へと戻った。

 少し『遊ぶ』ぐらいならばいいが、これから先のことは、娘には見せたくも、聞かせたくもない。

 

「……葬儀の準備をしていると、私は確かに聞いたぞ!」


 だから危篤という噂だけでは動かず、あとから流れ始めた葬儀の準備をしているという噂に安心したようだ。

 葬儀の準備については噂だけでなく、アウグストの案で実際の準備も行っていた。

 それが決定打となり、今頃になって屋敷へとやってきたのだろう。


「ええ、嘘ではありません。葬儀の準備はしておりますわ」


 ただし、棺に入る人間は私ではない。

 そう笑ってやると、イグナーツの顔が青ざめる。

 ようやくこれが罠だと気付いてくれたらしい。

 

「私の妻と娘に何かしたら、私はおまえを許さないっ!」


「ご安心ください。誓って、あなたの妻と娘には何も酷いことも、痛いこともいたしません」


 イグナーツの反応に、楽しくなってきたので上機嫌で答えてやる。

 棺に入る人間と聞いて、まず自分がその人間だと考えないあたりが、彼の傲慢なところだろう。

 そんな彼に、少しだけ意趣返しをしてやることにした。

 妻にも娘にも手を出さない、と満面の笑みで答え、ホッとしたところで事実を指摘してやる。

 

「あなたの妻と娘に手を出さないだなんて、当然のことではありませんか。あなたの妻と娘は、わたくしとドロテアですのよ?」


 カルラとリージヤについては、愛人と、愛人の娘と呼ぶものだ、とイグナーツの思い違いを訂正する。

 イグナーツの顔には私への怒りが浮かび上がっていたが、怒る前に気付いてほしい。

 自分の愛人とその娘の名前を、私が把握しているという事実に。

 とくに、愛人については婚前の情報、イグナーツが王都にいた頃を少し調べればわかるだろうが、そこに娘が生まれているということは、イグナーツが失踪したあとの情報だ。

 私が情報それを掴み、愛人の娘の名前まで把握されているということに、イグナーツはまず気付くべきである。

 

「あなたときたら……慎重なのか、馬鹿なのか? まあ、今回は手際がよくて助かりました」


 葬儀が終わったあと、私のいなくなった屋敷を乗っ取り、もしくは葬儀の前から愛人とその娘を屋敷へ呼んで住ませるつもりだったのか? と少女小説での『設定』を語る。

 まったくもってその通りの計画だったらしいイグナーツは、私に計画を把握されていたことに驚いていた。

 

「私にも女としての意地と矜持があります。あなたとその愛人が私の目の前に現れない限りは手を出さないと決めていたのですが……噂に釣られてノコノコと王都をうろついていたようなので、家の者が手を回してくれたそうですわ」


 正確には、祖父の雇った人材だ。

 彼らが愛人とその娘の動向を把握し、王都の宿屋にいるところを確保した。

 イグナーツが一緒に行動をしていれば手も出しにくかったかもしれないが、イグナーツは貴族街にあるこの屋敷へ乗り込む前に、と王都にある実家の屋敷で身だしなみを整えている。

 その際の別行動で、愛人とその娘は祖父の手に落ちたのだ。

 大切に守ると決めた家族であるのなら、イグナーツは実家へと二人を連れて行くべきだった。

 

「リージヤでしたか? 愛人の娘の名は。初めて見ましたけど……あまりあなたに似ておりませんのね。不味くはないけど、美しくもない」


 このあたりは、少女漫画設定のせいだろう。

 少女漫画の主人公とは、どれだけ美少女に描かれようとも作品内での評価は『特段美しくは無い』『平凡顔』だ。

 

 そして、その父親であるイグナーツは、面食いと使用人にまで言われたベルナデッタがひと目で恋に落ちるレベルである。

 そんな美貌の父親を持つ娘が、『平凡顔』だ。

 これは弄らせてもらうほかはない。

 

愛人カルラの髪の色とも、あなたの髪の色とも違うようですけど、なんとも思いませんでしたの?」


 リージヤの髪の色は、金髪だ。

 ついでに言えば、瞳の色は青である。

 

「その点、私のドロテアは貴方と同じ銀の髪に藍色の瞳、美しい顔立ちまであなたにそっくりですわね」


「……何が言いたい」


 何が言いたいかなんて、言わなくとも判るだろう。

 愛した女の娘は自分に似ておらず、愛していない女の娘は自分に似ているのだから。

 

「私、実のところ愛人とは婚前に一度会っておりますのよ。あなたと別れるようにお願いして、お金も渡しました」


 その金を受け取ったので、てっきりイグナーツと別れることを了承したかと思ったのだが、ドロテアには一つ下の妹がいる。

 これは契約違反だろう。

 

 しかし、貴族ベルナデッタ平民カルラでは物の考え方や常識が違うかもしれない。

 渡した金は『一方的においていった金』として、カルラは『拾った』ことにしたのかもしれない。

 イグナーツとベルナデッタの結婚とは違い、契約書など書いてはいなかったのだから。

 

「そう善意に解釈していたのですが……お渡ししたお金は、綺麗に使ってしまったようですね。平民が持つには過ぎた額だったはずですが」


「そんなはずはない! カルラはおまえと違う慎ましやかな女性で、大金を使っている様子などなかった!」


「慎ましやかな女性は、そもそも正式な妻がいる男性と関係を続けようとはしないでしょうが……」


 そこにまず気が付け、この大馬鹿者、と声に出したいのだが飲み込む。

 今はそんな横道はどうでもいい。

 

「カルラにまとまった大金なんて使えませんわ。大金を持った平民など、出所が怪しすぎて……まともな商人は相手にしませんもの。それに……」


 金の使い道はおまえである、と少しだけ言葉を装飾して指摘する。

 ベルナデッタが渡した金は、すべてイグナーツの生活費に当てられたのだ、と。

 

「愛しい旦那様。『貴族』男性が『普通』に生活を送るのに、いったいどのぐらいの金額が必要になるか、ご存知ですか?」


 知っていれば、イグナーツは駆け落ちなどしなかっただろう。

 ベルナデッタに不満があったとしても飲み込み、愛人と別れ、貴族として、ベルナデッタの夫として、この屋敷に君臨することを選んだはずだ。

 そのぐらい貴族が生活をするためには、金がかかる。

 そしてその金額は、ほとぼりが冷めるのを待って別邸に引き篭もっていたイグナーツに稼げるものではない。

 ベルナデッタの渡した金と、愛人が食堂で働いた金で、イグナーツの生活は支えられていたのだ。

 

「食堂でカルラは……娼婦の真似事もなさっていたそうね?」


 ここで話をリージヤへと戻す。

 イグナーツと似ていない愛人の娘へと。

 

「リージヤは、本当にあなたのお子さんですの?」


「な……っ!」


 なにを馬鹿な、と否定してくれても良かったのだが。

 私が並べあげた条件に、イグナーツは「もしや」と思ってしまったらしい。

 絶句して固まる顔が、浅はかで愛おしい。

 

「リージヤが誰の子であろうと、手切れ金としてお渡ししたお金が返金もされずにいずこかへと消えようと、どうでも良かったのですよ? 本当に」


 冷静に考えれば、悪いのはイグナーツである。

 正式なベルナデッタを持ちながら、恋人カルラとの関係を続け、駆け落ちまでしたイグナーツが。

 そのため、一応はカルラもまた被害者であると考えていたのだが、それもそろそろ無理がある。

 ベルナデッタがいなくなったと信じ、その後釜へ座るべく王都へと戻って来たのだから。

 カルラも間違いなく加害者側だ。

 

「それで、どういたしましょう?」


「どう、とは?」


「あなたの実家であるカシーク家とは、もう話をつけてあるのですわ」


 今回の不始末に対し、イグナーツをどう扱っても良い、と。

 婿に出したとはいえ、カシーク家の血を継ぐイグナーツだ。

 粗雑に扱えば、格下の家とはいえ、それなりの意趣返しをしてきただろう。

 とはいえ、そのイグナーツが婚姻前から付き合っていた恋人と別れずに関係を続け、それどころか駆け落ちし、その後の滞在先として別邸を融通していたところまで侯爵である祖父につかまれてしまっては、言い訳のしようもない。

 商人を使って経済制裁を始めた祖父に、この条件を持って頭を下げに来たのはカシーク家の方だった。

 

「私、葬儀の準備をしておりましたの。噂になっていたでしょう?」


 今さら駆け落ちした夫を呼び寄せるための嘘でした、などとは言い難い。

 ならば、葬儀の準備を真実にすればいい。

 

「棺に入るのは、どちらがよろしいですか?」


 夫か、その愛人か。

 好きな方を選んでいい、と

 

「……目が覚めたよ、愛しいベルナデッタ。私の妻はきみであり、カルラではない」


「最初からそう言っているではありませんか。……でも、よろしいですわ。ようやく愛しいあなたが自覚されたようですので、私も愛しいあなたにやり直す機会を与えます」


 故意に上から物を言い、イグナーツの反応を観察する。

 自分の命と愛人の命を秤にかけ、自分の命を選んだ男は、自分大好きな男だ。

 私の言葉に、言葉にこそ出さないが反発を瞳に宿していた。

 

「……では、先ほどまであなたが『妻』と呼んでいた女性を、あなたの手で処分してください」


 使用人とは何度も打ち合わせをしていたので、タイミングはばっちりだ。

 イグナーツとの会話で促すと、寝室に繋がる扉から使用人と拘束された茶髪の女性が姿を現した。

 この茶髪の女性こそが、ベルナデッタの恋敵であるカルラだ。

 特別美しいわけでも、体つきが艶かしいわけでもない、平凡な女性だ。

 こんな平凡な女性だったからこそ、ベルナデッタは余計にイグナーツに執着したのだろう。

 自分がこんな平凡女以下であるはずがない、と。

 

「聞こえていましたよね? 棺へはあなたが入ることになりましたわ」

 

 本来であれば、私が睨まれそうなものだと思うのだが、カルラの視線はイグナーツに釘付けだ。

 それはそうだろう。

 これまで愛を囁いていた夫が、自分を裏切り、保身のために自分を処分するということに同意したのだから。

 

「それと、愛しくて賢いあなたならご理解いただけると思うのですが、これまでのことがあるので、あなたの拘束をこの場で解くのは怖いのです」


 おわかりいただけますよね? と有無を言わせない笑みを浮かべてイグナーツへと向き直る。

 拘束を解いた途端に私へと襲い掛かられては堪らない。

 まだおまえを信用したわけではないのだ、と。

 

 これを聞いて、逆にカルラは安心したようだ。

 イグナーツが自分を裏切ったのではなく、私を欺くために自分の処分に同意したのではないか、と。

 

「屋敷の地下に牢がございますので、そちらで二人の拘束を解かせていただきます」


 そこで決着をつけてくれ。

 どちらかが死んだら、片方を牢から出す。

 

 私の言葉の含みにカルラが気付いたかどうかは判らない。

 が、私はどちらが棺に入ることになっても構わないと思っていた。

 私はベルナデッタであって、ベルナデッタではない。

 すでにイグナーツに対する執着など持ってはいないのだ。

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