第4話 母はお掃除がんばります

「お母さま、あの……」


 中庭に現れたドロテアは、可愛らしい顔を不安そうに曇らせていた。

 普段自分に対して罵倒の言葉しか投げない母親わたしに呼び出され、今度は何を言われるかと怯えているのだろう。

 我ながら、申し訳なさすぎた。

 

「こちらへいらっしゃい、ドロテア。母様と仲直りしましょう。……いいえ、違うわね」


 ドロテアの小さな手をとってエスコートし、クッションで高さを調整した椅子へと座らせる。

 子どもの世話は本来使用人の仕事のはずなので、ドロテアに付いてきた乳母が戸惑って手を遊ばせていた。

 今までのベルナデッタであれば、ドロテアを自ら椅子に座らせるようなことすらしなかったのだから、当然の戸惑いであろう。

 

「ごめんなさい、ドロテア。これまでの母様を許して」


 腰を落とし、ドロテアの藍色の瞳と目線を合わせる。

 これまでの行いは森野優美わたしがしたことではないが、ドロテアにとってはベルナデッタがしたことだ。

 今は私がベルナデッタなのだから、森野優美わたしが謝罪するしかない。

 

「母様は一度死んで目が覚めました。勝手に出て行った夫など忘れて、これからはあなたを慈しみ、愛していこうと思います」


 こんな自分勝手な母だけど、許してくれるかしら? と問うと、ドロテアの藍色の瞳が見開かれる。

 驚かれるだろうことを言っている自覚はあるので、私の言葉をドロテアがゆっくりと理解するのを待った。

 

「ゆる……っ! しゅ、も……ごめ……おかぁさ……」


 しばらくドロテアの瞳を覗き込んでいると、大きな藍の瞳にぶわりと涙が溢れ始める。

 ゆっくりと私の言葉が脳へと染みこんでいったのか、ドロテアの涙腺は崩壊した。

 私が休んでいる間に落ち着かせたはずなのだが、元の状態に戻ってしまったようだ。

 先ほどはこれでドロテアの世話を使用人に任せたのだが、頭の整理ができた今の私は違う。

 愛娘が泣いているのだ。

 母として、愛娘が落ち着くまで抱きしめるのが正解だろう。

 そう気が付くことができた。

 

 許すもなにも、ごめんなさい。お母さま。

 

 途切れ途切れで聞き取り難い言葉ではあったが、ドロテアの言葉は概ねこういった内容だった。

 冷たいベルナデッタを恨んだことなどない。

 父が出て行ったのは自分ドロテアの責任なのだ。

 ごめんなさい、お母さま、と。

 

 ……違うから! 一ミリもドロテアが悪い要素なんてなかったからっ!

 

 今日までのベルナデッタが言ってきた言葉ではあったが、本当に、振り返ってみればドロテアに非などあるはずもなかった。

 にもかかわらず、ドロテアはわたしに「ごめんなさい」と詫びる。

 これはほとんどベルナデッタによる洗脳に近い。

 まずはこの洗脳を解かなければならないだろう。

 私に思い浮かぶベルナデッタからの洗脳の解き方は、これから精一杯ドロテアを愛することだろうか。

 

「さあ、ドロテア。母様とお菓子をいただきましょう。ロベルトが貴女の好きなものをたくさん用意してくれたのよ」

 

 まずはマドレーヌなんていかが? と小さな貝殻の形を模した焼き菓子をつまみ、ドロテアの口元へと持っていく。

 これまでと違いすぎるわたしの態度に、きょとんっと瞬いたドロテアは、口を開けるのではなく、マドレーヌを手で受け取ることで応えた。

 それから本当に食べていいのか悩むように、私の顔と手にしたマドレーヌを見比べている。


「このお店のクッキーが好きだって、ロベルトから聞いたわ。それとも、我が家のアップルパイがいいかしら? 他にもいろいろと……」


 ドロテアを愛し、ベルナデッタの洗脳を解こう。

 そう決めたのは良いのだが、具体的な方法がわからない。

 というよりも、ベルナデッタは本当にドロテアに対して関心がなかったようで、いくら記憶を探ってもドロテアの喜びそうなことが思い浮かばなかったのだ。

 ならば、お菓子が嫌いな子どもはいない、とドロテアが好むお菓子で攻める。

 好みの指定すら家令ひと任せというところが、母親として本当に情けなかった。


「あの、お母さま。わたくし、そんなにいっぱいは……。それに、夕食が食べれなくなると、ステラに怒られてしまいます」


 ステラというのは、ドロテアの乳母の名前だ。

 母親わたしよりも親身になって自分の世話をしてきてくれた乳母に、ドロテアはよく懐いていた。

 

「……あら、そうね。お夕食が食べられなくなっては、わたくしも貴方の乳母に怒られてしまうわ。それじゃあ、今日は一つだけ……いいえ、二つだけにしましょう」


「ふたつ?」


「一つ目はこのマドレーヌ。貴方が好きだと、ロベルトが教えてくれたわ。二つ目は……貴方が教えてちょうだい、ドロテア」


「わたくしが、ですか?」


「ええ、貴方が。……私は駄目な母親だったのです。可愛い娘の好きなお菓子すら判らないのよ。だから……」


 一つずつ、ドロテアの好きなものを教えてほしい。

 そう言葉を重ねると、三度みたびドロテアの涙腺は崩壊した。

 椅子から飛び降りて、今度は自分から私へと抱きついてくる。

 小さな両手を広げてしがみ付くドロテアを、私もそっと抱きしめ返す。

 私はドロテアに対しお菓子を与えるよりも、まずは愛娘を抱きしめることから始めるべきだったようだ。

 

 

 

 

 

 

 林檎をバラのように挟み込んだパイを口へと運びながら、時折ドロテアが私の顔を見上げる。

 本人はこっそり覗いているつもりのようなのだが、見上げるたびに私と目が合って、慌てて俯く。

 私としては可愛らしいドロテアの仕草一つひとつから目が離せず見つめてしまっているので、残念ながら次もドロテアは母を『盗み見る』ことに失敗するだろう。

 私がずっとドロテアを見つめているので、ドロテアが私を見上げれば、目が合うだけだ。

 

 ……本当に、こんなに可愛い子のどこに不満があったんだろう? 前のベルナデッタは。

 

 どこに不満があったのか、考えるまでもなく答えは見つかる。

 『どこか』に『不満』があったのではなく、『娘という存在』そのものを『無かった』ことにしたかっただけだ。

 『不満』はなにも『無かった』。

 

 ……それにしても。

 

 ドロテアは可愛い。

 こんな駄目な母親ベルナデッタを、それでも母と慕ってくれているところなど、いじらしいを通り越して尊い。

 

 そして、こんなにも可愛らしいドロテアは、いわゆる『悪役令嬢』だ。

 

 ネット小説の『悪役令嬢』であれば、美青年イケメンたちの逆ハーレムを築き、溺愛される幸せな未来が待っているだろうが、ここで一つ問題がある。

 ドロテアや夫の名前だけでは、これが『ネット小説の世界』なのか、元ネタとして設定された『少女漫画の世界』なのかが判らないからだ。

 

 前者であれば、母親が生きているというイレギュラーな事態は起こっているが、概ね物語ストーリーに任せても良い。

 作者が飽きたのか、リアルが忙しくなったのか、ほとんどエタりかけていた作品ではあったが、悪役令嬢ドロテアが幸せになるのは確定しているようなものだ。

 

 問題は、これが後者の世界だった場合だ。

 

 ここが少女漫画の世界だった場合は、物語のヒロインは妹のリージヤとなり、ドロテアは老齢の辺境伯の後妻として辺境へと追いやられることになる。

 

 ……そんなこと、許せるはずがないでしょう?

 

 私はベルナデッタではないが、ドロテアを愛おしく思う。

 可愛いと思う。

 これまで不遇であったぶんを取り戻させたいし、できる限り幸せにしてあげたいとも思っている。

 

 ……物事は良い方向に考えよう。

 

 ベルナデッタは生きている。

 ということは、夫は屋敷へは帰って来れない。

 つまり、正ヒロインはドロテアの目の前へ現れることができないはずだ。

 このまま私たち母子おやこの前に現れないのなら、放置してもいいだろう。

 多少の不安はあるが、積極的に排除に動くほどのことではない。

 

 が、夫と正ヒロインが私たち母子の前に現れるようなことがあれば――

 

 ……ネット小説では『ざまぁ』される側だもん。

 

 私がこの二人を排除しても、いいだろう。

 早いか遅いかの差だ。

 

 愛しいドロテアの幸せのため、母はお掃除がんばります。

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