第3話 ドロテア
「あら、随分すっきりしたわね」
眠ることでいくらか体調が戻ったので、ベッドから下りる。
身支度を整えて、『模様替え』の終わった寝室へ戻ると、記憶にある寝室との違いに驚いた。
厚いカーテンの開かれた明るい室内を見渡せば、何も飾られていないすっきりとした壁が見える。
以前は、壁一面に夫イグナーツの肖像画が飾られていた。
……我ながら病的すぎるよ、『ベルナデッタ』。
完全に他人事としか思えないのは、私が
しがない日本のOLでしかなかった森野優美が、ベルナデッタとして西洋風の屋敷にいるのは、まあいわゆる異世界転生というやつだろう。
思いだそうとすれば、森野優美としての記憶も、ベルナデッタとしての記憶も簡単に思いだすことができた。
ベルナデッタは服毒自殺だったが、森野優美としての死因は覚えていない。
おそらくは突然死かなにかだったのだろう。
森野優美の意識としては、突然異世界に放り出されたようなものだったが、ベルナデッタとしての記憶も、これまでの生活基盤もある。
このままベルナデッタとして生きていくのなら、なんの支障もなかった。
……そして、ベルナデッタとして生きるからには、これまでの生活を改善するよ。
森野優美としての意識が目覚めてしまったからには、今日までのように失踪した夫を恋慕って病んでなんていられない。
一度死んで森野優美として意識が生まれ変わったからか、今の私は恐ろしく前向きになっていた。
日本での生活にまったく未練がないとは言えないが――
……うん?
日本での未練と考えて、読みかけのネット小説を思いだした。
流行の『悪役令嬢』とは名ばかりの、ヒロインが多くのイケメンヒーローたちに溺愛され、逆ハーレムを築いていく作品だ。
私が読んでいた作品の悪役令嬢も、『登場する少女漫画内で断罪される悪役令嬢』という設定だ。
問題なのは、その悪役令嬢の名前である。
……ドロテア?
銀色の髪に、藍色の瞳の美少女ドロテア。
カラーリングとしては冷たい印象を与える、寒色系のまさに『悪役令嬢』だっただろう。
素人の書いたネット小説だったため、キャラクターのイメージ画はなかったが、設定どおりの容姿を、私の娘はしていた。
……あのドロテアの設定って、確か……。
悪役令嬢ドロテアは、侯爵令嬢だった。
そこはネット小説的に『公爵令嬢』じゃないのか、と突っ込みたいところだが、これは正ヒロイン設定のキャラが『ドロテアの妹』だからだろう。
赤の他人であれば、ドロテアはお約束どおり『公爵令嬢』で、正ヒロインもまたお約束どおり『男爵令嬢』だったのではないかと思われる。
――閑話休題。
そう、正ヒロインとして設定されていた『リージヤ』は、ドロテアの一つ年下の『妹』だ。
ベルナデッタが産んだ娘は、ドロテア一人だけである。
その一つ下の妹となれば、産んだのは以前から付き合っていたという夫の恋人だろう。
ネット小説は、妹が屋敷へと夫の愛娘としてやってくるシーンから始まっていた。
母の違う娘が姉妹として一つの屋敷に暮らすことを、正妻であり、盲目的なまでに夫イグナーツに恋したベルナデッタが許すはずがない。
ベルナデッタは、物語の開始前に死んでいた。
そして、夫にとっての
屋敷の主として君臨し、愛娘と恋人を正式に家族として扱うために。
当然、そこには本来の娘であるドロテアもいるのだが、リージヤとの扱いには雲泥の差がある。
ベルナデッタの娘であり、長子であるはずのドロテアの方が屋敷での立場は上のはずなのだが、夫からはいないものとして扱われた。
生母からは「おまえのせいで夫がいなくなった」と責められ、屋敷に戻った父からはいないものとして扱われたドロテアは、愛情に飢えた娘へと成長する。
ベルナデッタの祖父であり、ドロテアにとっては曾祖父にあたるファウストは、曾孫の幸せを願ってなんと第二王子アレックスとの婚約を取り付けてきた。
が、そのアレックス王子とリージヤの恋物語こそが『元ネタの少女漫画』である。
両親の愛に恵まれなかったドロテアは、元ネタである少女漫画内で妹に父親どころか、婚約者まで横から攫われてしまうのだ。
当然、ドロテアはこれに抵抗する。
物語としては、正ヒロインにとっての
……いや、ドロテアは婚約者を取られないよう努力しただけでしょ。なんで悪役扱いなの?
少女漫画のお約束ではあるが、冷静に考えれば悪役の行動も当然の行いであっただろう。
最近の傾向としては、むしろ悪役の言動こそ筋が通っているということすらある。
とにかく、婚約者を奪われないように努力したドロテアは、悪役令嬢として物語の中で裁かれることとなった。
本来家の跡継ぎはドロテアだったはずなのだが、侯爵家の血など一滴も引いていないリージヤに跡取りの座を奪われ、年老いた辺境伯の後妻として嫁に出されてしまうのだ。
……これむしろ、
夫にとっては、私こそが悪役令嬢だっただろう。
それは認める。
ベルナデッタは考えも、気付きもしなかったが、夫の家とベルナデッタの家では、家格が違いすぎる。
ビクトリア侯爵家からの婚約打診は、夫の家では断れなかっただろう。
ベルナデッタが一方的にイグナーツに恋心を抱き、祖父がベルナデッタの我儘を受け入れたため、イグナーツは付き合っていた恋人と別れ、ベルナデッタと結婚することになった。
これではベルナデッタが夫に愛されるはずもない。
事実として、イグナーツは娘が生まれると早々に義務は果たした、と元からの恋人と駆け落ちをしている。
……ベルナデッタにも悪いところがあった、と認めはするけど?
やはり、どう考えても夫も悪い。
とくに、ベルナデッタの死後については、もう完全にイグナーツの責任だ。
そもそも、貴族の結婚というものは、契約という意味合いが大きい。
イグナーツにとってベルナデッタとの結婚は、確かに権力でゴリ押しされた望まないものであっただろうが、契約として結ばれているのだ。
どんな形であれ、イグナーツにとって一度は納得してのことだったはずである。
それなのにイグナーツは、娘が産まれた途端に「義務は果たした」とベルナデッタの前から姿を消した。
そのうえ、ドロテアの異母妹であるリージヤの年齢は、ドロテアのたった一つ下だ。
このことから判るのは、イグナーツはベルナデッタの夫として屋敷にいる間も、恋人との関係を切ってはいなかった、ということだった。
加えるのなら、リージヤはドロテアを妊娠している最中に『仕込まれて』いる。
これは普通に、イグナーツの不貞だ。
……あ、凄いイライラしてきた。
イグナーツの肖像画を寝室から運び出す使用人を呼びとめ、一枚だけ部屋に残す。
やはり未練があるのか、と家令が心配そうな顔をしていたが、肖像画を残したのは家令が想像するような用途ではない。
「ロベルト、中庭にお茶の準備をお願い。お菓子はドロテアの好きなものをいっぱい用意してね」
それから、と言葉を区切り、家令へと手を伸ばす。
「文机の引き出しにペーパーナイフがあったでしょう? 取ってきてくれるかしら」
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