第75話

意識の遥か外側で震える指先の中にそれはあった。それは、血と粘液にまみれてとても熱かった。忘れたままの呼吸も、瞬きも同様に意識の外側にあった。

近くで発生した閃光に視界が塗りつぶされて眼球に痛みが走る。ふと、辺りがとても騒がしい事を思い出した。生物に見えないように動作を偽装して辺りの様子を慎重に確かめる。

レトは柱を支えに、肩を上下させていた。人々が逃げ回り、平和贈呈局員たちを見た事も無い見た目の乗り物(あれはベースメンターという乗り物だという)が、次々と轢き殺していた。死に際に放たれた銃弾が、まるで人の手によって投擲されたが如くゆっくりと此方に飛んできて、頭上で弾けた。殺人的な熱エネルギーの雨が降り注ぐが、なぜか。理由はわからない。


「大丈夫」


それから、熱の最後の一粒が音を立てたのを見計らい、体の影から両手を出して中にあるものを確かめる。すると確かにいた。崩壊の今際に立ち、こうして、手に触れている間だけ彼女は時間の支配下から抜け出して、生き続けることが出来るような、そんな気がした。


「おめでとう。今日が君の誕生日だ」


何故か、そんな言葉が口から出た。

瓦礫と、回収に使用される道具たちが折り重なるその場所は、他の場所よりも小高くなっていて、少し前から唸りをあげている地下の空調システムは巻き上げられた灰や塵や埃をかき混ぜて吸い尽くそうとしていた。故郷がよく見えるように立ち上がる。

身体や手に付いた血や粘液にたちまちそれらが纏わり付いた。持ち方を変えて、座って、柱に背中をつけて、同じ景色を見た。それは夕日の港町のようにあたたかい黄金だった。きっと、ずっと、人類はこうしてきて、どこかラヴィ氏の面影を持つ彼女は、彼等の過去であり現在であり未来そのものなのだ。



 空調装置が最大稼働した反動で、クルードは照明の明るさを数段落とした状態だった。それでも、まだ消灯しないでいられたのは奇跡でも何でもない、誰かが、新たなレガリア、残された最後の一つにとうとう手を着けてしまったためである。

ここの空気同様、レトは自分の思考が少し前に比べてかなり澄んでいることを実感していた。彼女は、恐らくしばらくの間、動かないままでいる局員をじっと見つめて、唇を引き締めた。この動作は何度目かにもなる。


「・・・ヨナ?」


今度は、ようやく声が出た。いや、むしろ。声が出てしまった。と、言った方が正しかったのかもしれない。一瞬の後悔に暮れるレトの続く言葉をヨナは遮るように言う、その時、彼の視線は下げられたままだった。


「ラヴィ氏に似ていると、思わないか?」


少し前、出会った時と、変わらない落ち着いた声だった。

その手には、巻き上がる汚れにまみれた我が子の姿があった。はじめて誰かに、丁重に扱われる存在を目の当たりにして、レトの胸は張り裂けそうになる、そう遠くないうちに受けた恩を仇で返す瞬間が訪れるだろう。

レトはその瞬間を先延ばしにする事にした。それがよく無い事だと彼女は知っていた。いままで、いつでもそうだった。結果を出す事を先延ばしにして、事実から目を背け続けて、事態が良くなったことなど、ただの一度もなかったような気がする。


「・・・ヨナ?」

「レト・・・!違うんだ・・・違うんだ・・・」


その手のものと一緒に自分の存在すらも隠そうとする若者に対して、レトが出来る事はこの時も多くはなかった。


二人は随分と長い時間、動かないままそうしていた。見えない場所ではいつものように、種を存続させるという共通の目的のために皮肉にも対立した両者の闘争が繰り広げられている。今回の闘争はクルードの人々が局員たちを退けるだろう、しかしながら次も同じ結果になるとは限らない。平和贈呈局員は街の機能が停止しない限り、恐らくは無限に送り込まれてくるのだ。


「お前たち、なにをしてる?」


誰かがそう声をかけた。石のように頑健な体躯にしなやかな身のこなし、腰に携えた殺戮の道具、顔に付いた傷跡。


「・・・ヴィンセント」


 大人は勿論の事、子供たちでさえ示し合わせた対応通りに働いているというのに、早々に戦う事を諦めたかのように働かない二人の内の一人がレトだと知るとヴィンセントは、ほんの一瞬足を止めて、その一瞬で状況を理解し、納得したように厳めしく肩を張って、自身から一切の隙を消し去り歩み寄った。彼は影の中にヨナを収めると、その手の中のものを拾い上げて、小さな刃物でへその緒を切った。それからクルードの黄金の光の中を少し歩いた。ヨナはその様子をしばらく眺めていた。ヴィンセントは足元に気を付けてまた少し歩いて、柱に開いた穴の中に冷たくなった赤子を投げ捨てた。


言葉よりも先に体が勝手に動いて、ヨナはヴィンセントに首元に掴みかかっていた。

ヴィンセントの体は異常なほどに軽かった。すぐ隣の穴の中から手招きするような空気の流れが這い出てきて二人を覆い尽くした。悲鳴や、怒号は、まだまだ止む気配はない。


「君は何をしたのか分かっているのか?」


普段の彼を知っている者ら以上に、ヨナは、このヴィンセントという人間の本質を理解していた。極限状態までお互いを追い込み、そして、生き残るというのはそう言う事なのだ。

つまり、どういう事かと言うと、この男は常に自分の罪をどうにかして他人に裁かせようとする性質が明確に存在するのだ。今回の行動もその性質故の行動であることは疑いの余地はない。ヨナは解っていたが結局、行動に加えて言葉まで止められなかった。

ヨナは首の締め付けを僅かに緩めた。傾いて、半分天井を仰ぐ目よりも声での弁明を求めたためだ。

ヴィンセントの喉に空気が鋭く吸い込まれて厳格に振動する。


「お前こそ、ここがどんな場所なのか分かっているのか?」


彼は言った。


ここでは理由もなく人が死ぬ。と。ならば。


ヨナは右足のつま先で足元に堆積した塵芥ちりあくたを練った。それは、回収へ向かったブルーカラー達から剥がれ落ちた爪や歯や血や砕けた回収品の欠片から成る彼等の生きた証でもあった。ヨナのつま先はそれらを優に乗り越え、暗闇の上に浮かんでいた。その時。


『ヨナッ!!!』


エリスだ。

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