第50話

がさ付いた布の向こうで、男の一人が立ち止まり、なにか手すりのような物に手を乗せるのが見えた気がした。

ヨナは視界を奪われたまま前進し、何度も曲がり、埃の中をひたすらに進んで、エレベーターを何度か経由した辺りですでに、今現在自分がどこに身を置いているのかがすっかりわからなくなっていた。


ここにたどり着くまでに、沢山の足音や、布が擦れる音の他にブルーカラー達の話し声が袋の隙間から聞こえたりもしたが、それらも、ずいぶんと昔の事のように感じられた。

どこか品のある印象的な臭いと、靴底を硬く押し返す感覚からこの場所はクルードというよりも地上の街に近しい印象をヨナへと与えていた。


先導する二人が立ち止まり、ヨナに被せていた袋を取り去った。


「窮屈な思いさせて悪かったな」

「俺たちの役目はここまでだ。何か聞きたいことがあるか?」


ヨナはこの時、2名のブルーカラーと共に、クルードが一望できる場所に立っていた。

簡単な手すりに守られただけの半円状の足場にはどこか不吉な風が吹き込んでいるようだった。


目の前に見えている四角い穴のような入り口は、小さな球を糸で連ねた帳のような物で隔たれ、中の様子がかすかに覗ける隙間からは不思議な薫りを放つ煙が音も無く這いだしていた。ヨナは二人の様子を確認した。

彼の想像通り、ここまで彼を案内した二人から悪意のようなものは感じない。代わりに、ブルーカラー特有の親切さだけがそこに立っていたような気がして、ヨナは特に詮索するつもりもなく形だけの質問をした。


「ここはいったい?」


二人の男は呆れたように腕を組んで、帳の中央を開けた。

命令されたわけでもなく、ヨナは球を連ねた帳の中央を割って体を滑り込ませた。


打ち鳴らし合う音から察するに小さな球は色とりどりのガラスで出来ていた。

中は薄暗く、やはり、あの印象的な臭いの発生元はこの場所で、所々に設置された光源が部屋の設置物をぼんやりと断片的に暗闇から映し出していた。


それら中に、萎びた一人のブルーカラーの姿もあった。


ヨナの視線に気が付くと、その人物は、自分がれっきとした生物であることを証明するように、手にした細長い管を咥えて息を吸い込み、白い煙と共に吐き出すというアクションを見せた。


立ち込める煙や、揺らぐ小さな火などを除いて、世界の一切が停滞したのを見計らうと、ヨナはその人物の姿がよく見えるところまで近づいて、同じように床に座った。

敷かれた絨毯の手触りは決して褒められるものではなかったが、やはり、温かい。


たるんだ痩せた皮に包まれた骨が動いて、紙を丸めては伸ばしてを繰り返したような肌が裂けて出来た口のような隙間が再び煙を吐きだした。口元それは僅かに緩んでいたのかもしれない。


「よく来たねェ。ここは見ての通り、当の昔に絶滅した生き物たちが歩き回る、歴史の隔離地かくりちだョ。ヨナ君」


その人物は緩急の少ない口の動きでそう言った。

いつの事であったか、頭の中で思い描いていた事と非常に類似する発言をこの人物がしたのでヨナの口調には自然と敬意が込められた。


「あなたは他人の頭の中が読めるのですか?」


膨大な伝統、文化、知識、その全てが目の前のしなびた体に背負われていた。


また音も無く煙が吐き出されて、僅かに生じる空気の流れに呼応して、また、同じように部屋の灯りが悶えて揺れた。


「まあ、多少わね?」


細い煙が立ち上る管を持つ手とは逆の手が空を切って萎びた男ブルーカラーは「ここはこんな場所だからね?」と、言った。


次の瞬間、干からびた指先が電気的な光を放つと同時に、暗闇から四角いスクリーンがいくつも現れて空間を埋め尽くした。それには街のいたる場所、例えば古アパートの一室や、食料分配局の窓口、何処か大きな建物の駐車場、灯りが落ちた水飲み広場、大勢の大男の影が続く狭い通路などの風景が映像として映し出されていた。


さらに、それだけではない、画面が点灯した事によって明らかになるもっと巨大な空間、その全貌。それは・・・。


ヨナは突発的な発声を抑えて尋ねた。


「あなたは監視局ですか?」


「ぼくが自分でそう名乗った事は、一度もないけどね」


締まりの悪い喉からそんな音が漏れて、干からびた指が再び虚空を切った。

すると、点灯したばかりの画面のいくつかが消え、表舞台から姿を隠すように、奥に見えていた巨大な空間も暗がりへと飲みこまれた。


「今日は消灯じゃないみたいだね?どうしてだろうねヨナ君」


「あなた達の事は殆ど知りません」


「聞くつもりもないかね?」


「はい」


「ふん・・・いぃだろぅ」


老人は大変嬉しそうに目を細めると、照明として置いてあった小さな火のいくつかを消して、残ったものの一つを利用して手にした管の先端に火を乗せた。


「君は何を望むかね?ヨナ君」


「その時によって変わります。けれど、多くを望んだ事はありません」


「そうかえ・・・どれ、ちょっと見てやろう。どうか動かないでおくれよヨナ君」


管の先端の炎が猛り、柔らかな笑顔を一時照らした。


皺で覆われた唇が管を吸って吐いた。


白い煙が漂い、その中を干からびた指がゆっくりと通り抜ける。すると煙は複雑な軌道を描いて捻じれ、線の集合体となり、やがて、何かの象徴となり動きを止めた。ヨナは目の前で起きた事実を疑った。それは、あまりにも正確な。


「ふん。これは・・・女帝エンプレスだねェ」


世界で最も尊いとされる『花』で形作られた冠に、威厳と慈愛に満ちた表情、活き活きとした肌、どっしりと腰を据えて玉座に座る姿はまさしく女帝そのものであった。


女帝エンプレス?」


「そう、エンプレス」


それは見間違えであったかと思えるほどに一瞬の出来事だった。

老人はゆっくりと目を閉じて、息を吸い込み、続けた。


「あぁ・・・・ヨナ。恐れを知らぬ戦士よ。お前はとてもとても強い星を持っているねェ」


「星?」


「そう、星。時を旅するすべての存在が巡ることになる運命とでも言うとわかりやすいか?君の星は今誰よりも強い所にある。でもね、どんなものでもそう長くは続かないものだよ、じきに、君を跪かせるものが現れるだろう、とても強い因果だ。決して逃れられないし、沢山の者を巻き込むだろう。お前が生み出すうずはぼくたちを救うと同時に滅ぼしてしまうかも知れないねェ」


老人がしばらく沈黙し、ヨナは続きを待った。何を言われようとヨナにはどうする事も出来はしないのだ。しかし、この人物ならばもしかしたら・・・。


そんな期待がヨナの脳裏をよぎるよりも、ずっと、ずっと、早く、老人は姿勢を変えた。巻き起こされた小さな気流を受けた煙は再び形を変え、なんとそれはヨナの姿になったのだ。


「なんてねェ・・・・時間ばかりあるから、ぼくはいつもこんな事ばかりしているんだよ。全部、出鱈目だよ。なに、心配はいらないよ」


老人がそう言い終えると、空間の明かりがゆっくりと点灯して、隠されていた全てを闇から暴き出した。壁一面のスクリーン、タペストリー、憲章。


奥に見える巨大な空間に、天高く、所せましと陳列されていたのは膨大な量の書籍だった。


なぜ?


と、いう疑問よりも先にエリスの姿がヨナの脳裏に浮かんだ。ヨナは非常に納得して、もう一度彼女に会いたいと感じた。


「時間を取らせてすまなかったねェヨナ君。君と話せてよかったよ。時間が許す限りここに居ると良い。と言っても、ぼくたちは君を歓迎したりはしないけどね」


老人の消えかけた視線の先には出口のようなものがあった。

ヨナは立ち上がり、一度は出口を目指しはしたものの、どうしても、聞きたいことがあって彼はそれを押し殺すことが出来なかった。


彼は振り返り、部屋の中をもう一度見渡した。

沢山のスクリーンに蝋燭、奇妙な装飾品の数々、女たちの手によって精巧に編み込まれたタペストリー、最も目立つ場所に掛けられた憲章には老人の物と思わしき署名と共に彼等ブルーカラー同士の取り決めがびっしりと書き込まれていた。


加えて、その向こう側に広がる大量の本だ。


ヨナは図々しいのを承知の上で奥の空間を指さして「近くであれを見ても構いませんか?」と尋ねた。


老人は、やはり痩せていた。腕の周りは皮がたるみ、頭は禿げ上がり、所々に黒い斑点状の染みが出来ていた。けれど、ヨナは心の底からその姿を承認していた。


持ち上がった口の隅から煙が吐き出されて、老人は言った。


「いいけどねェ」


老人は続ける。


「半端な知恵は君を苦しめることになるョ?ヨナ君」


これは良心だとヨナは感じた。彼はそれに従った。


「わかりました。やめておきます」


「ぅんぅん。君にはそれがいいだろうね。代わりと言っちゃなんだけど、良い事を教えてあげようか。実はね、この場所は君がよく知ってる。食料分配局の丁度真下の場所にあるんだねェ」


「それは教えていい事なのですか?」


「まあ、良くはないね。みんな気を付けてくれてるしねェ。でも、この場所に来る者の多くはその事を知ってるし、今のところぼくも無事だから、とりあえずは知ってる人間が一人くらい増えても、いいんじゃないかな・・・・うん。どれ、ヨナ君ゃこっちへ来てくれないかい?」


「はい」


老人が僅かに座りなおして自分のすぐ手前を指さした。老人の爪は指から浮き上がり、何本も縦に線が入って割れているようだった。関節からは骨が浮き出て、今まさに崩壊の今際いまわにその身を置いているかのようだった。


ヨナは老人の言葉に従い、目の前まで進んで、目線の高さを合わせた。すると、老人はゆっくりと動いてヨナを抱擁したのだ。


一瞬、あるいは、とても長い時間二人はそうしていた。

ヨナは出来るだけ長くこうしているべきだと思った。この老人がヨナを優しく包んでいる間だけ、きっと、彼の体は美しいままの姿で保たれて崩壊を免れるのだ。

ヨナの指先がじんわりと汗ばむ、そんな僅かな出来事をきっかけに二人は同時に終わりを予感した。


「ああ、・・・・ソロモン。・・・・・何故だ」


干からびた瞼からひと筋の涙が零れ落ちて、老人は最後にそう呟いた。

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