第31話
親から子へ、友人から友人へ、隣人から隣人へ、彼等ブルーカラー達の間に脈々と言い伝えられている
暗闇には恐ろしい『肉舐め』が潜んでいる。
街の地下に張り巡らされた気化レガリアを無限に効率よく街中へと循環させるための言わばこの巨大な街の血管とも呼べる物の中を、それが放つ僅かな光を頼りにヨナは進んでいた。
構造的な類似性が高く、網目のようになった通路は一人で通るにはすぎるほどに広く、両手を広げたとしても壁と壁との距離にはまだまだ十分な余裕があるだろう。湿った柔らかい通路の中央には黒く分厚い染みに大部分を覆われた金属製の轍があって、仄かな光の中、それらは所々で見え隠れしていた。
「・・・ヨナ。もう少しで下に続いてる場所があるから落ちないで。つかまれる場所が・・・あるから」
地上の何処よりも蒸し暑いこの場所でブルーカラーの娘は声を震わせてそう言った。
彼女の言う通り、進行方向の少し先は暗闇に塗りつぶされてまるで空間に大きな穴が開いているかような印象を彼へと与えた。
随分前から、背中のブルーカラーの娘は2枚重ねたジャケットの中から出てこない。
しかしながら、彼女の指示は、常に対流を続ける発光ガスとそれが完全に失せた時に必ず訪れる暗闇を除けば実に正確なものだった。
ヨナは立ち止って、優先度の低い要求を無視することにした。
「・・・・ヨナっ?」
彼が足を止めた途端、背中のブルーカラーの娘は不安げな声を上げた。
「ここから、ガスが切れる」
「・・・ッ」
告げられた事実に背中のブルーカラーの娘は一度短く息を吸い込むと、建物の建材のように固くなって背中を締め付けた。
間もなくして、足元を這いずるガスが後ろへと抜けてゆき、この日、何度目かになる暗闇が訪れた。
靴底に感じる圧力よりも背中に感じる圧力の方が強い、まるで横になって居る時のようだ。加えて、この蒸し暑さ、暗闇、あの部屋で目を閉じて勤務開始時間を待つ時間にとても似ていると彼は思っていた。
ただし、待つことによって訪れるものはまるで異なる。
「ヨナっ・・・ヨナ・・・!動いちゃだめだよ・・・!」
「わかっている」
ブルーカラーの娘はこの時もまた体温を一段高くして、言葉尻を震わせながらそう言った。
つま先から段々と熱い何かが体を這いあがってくる。ブルーカラー達が肉舐めと呼ぶ存在だ。
それはまるで熱い湯に体をつける行為に近しい感覚であったが明確に異なる部分がいくつかあった。先ず一つ目に、この肉舐めという存在は鋭い刃のような物で体を突き刺しながら這い上るため痛みを伴う。そして、二つ目に、これらは人を食らうという。
ヨナはこの時も彼女の言いつけを守りじっと身を潜め、体中をぐちゃぐちゃとはい回る存在を好きにさせていた。彼からは、はるか遠くからこちらへと向かって来ている終焉が見えていた。
「・・・・・・・ッ・・・ヨナ・・・・!」
そうとも知らず、2枚重ねたジャケットの中でブルーカラーの娘がそう囁くと、肉舐めは機械的に彼女へと殺到した。そして傷口を見つけるとそこに鋭い刃を突き刺して餌なのかそうでないのかを確かめた。
そのあまりの激痛と恐怖にブルーカラーの娘は喉の奥で小さな悲鳴を上げた。
微かだが、背中の肉が小刻みに震えはじめ、足元からおびただしい量の援軍が背中に向かって送り出されるのがわかった。こころなしか背中も重く感じる。
「もう少しだ」
「・・・うん」
・・・・・・ザザザザザ・・・・・・・。
単純な存在には厳格な掟が存在している。彼等はそれを決して破らない。
背中のジャケットの中は火でもつけたかのような熱を帯びていた。
声を震わせながら、ブルーカラーの娘が囁く。
「ヨナ・・・怖いよぅ」
彼女はまた泣くかもしれない。かけがえのない日常だ。
「空腹ではないか?」
ヨナがそう尋ねると彼女が何らかの方法を用いて空腹だと答えたので彼はポケットの中の青い合成飼料を一つ取り出した。
ぶかぶかの裾から小さな手が現れてそれを受け取ると、まもなく背後でそれをかじる音がした。
「こんなものをいくら食べたって、怖いものは怖いのよ?ヨナ。・・・・ねえもうひとつちょうだい?」
「わかった」
2枚目が完食されたのを見計らい、ヨナは垂直に続いている通路のフラップに足を乗せてゆっくりと降りて行った。すると、どこかで沢山の人間の悲鳴が聞こえてきた。なんてことはない、滞留するガスや、肉舐めとあれらは少しも変わらないのだから。
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