第13話

誰からも知られずに路地裏の壁にへばりついた染みは、明日の今頃には跡形もなく消え去るだろう。


同じく、誰からも知られずに暴かれた貴重品や盗み出された食料は、明日の今頃には跡形もなく消え去るだろう。


徐行運転に移行したメルロックフェイカーは汚れたプラカードを掲げたブルーカラー達の集団をゆっくりと切り裂く様に通過した。ブルーカラー達はその手にしたプラカードを運転手に見せつけるように下ろして全員が素直に道を譲った。


裾が擦り切れたローブ、浮き出た骨、汚れた顔に、頬に出来た腫瘍、爪の間から小さな皺に至るまで刷り込まれた汚れ、血が滲んでいるトゥルーシルバーのシリス帯、人類が生み出した文明の垢のような存在として辛うじて維持されているブルーカラー達、それから覗く瞳は妙に澄んでいて、その瞳の群れは今日も林の中からこちら側を覗く様に粛々とヨナを見つめていた。

消えかけた街灯の灯りが流線形の車体を先頭から丸く照らして後方へ流れていった。いくつも。遠くで女の悲鳴が聞こえて、別の場所では親を探す子供の泣き声が聞こえていた。この時も。


普通だ。と、彼は思った。



 古いアパートの5階、向かいの部屋の前にたどり着くとヨナは僅かに歩を強めて、上着の襟をそっと締めなおした。

この街はまことにやり直すべきだ。

部屋の前に立ちヨナは耳を澄ませて辺りを確かめた。騒音は遠く、こちらを監視する瞳はまるでなかった。彼は酷く喉が渇いているような気がしてそれが気のせいである事も知っていた。


「・・・」

「・・・」


部屋の中にはあのブルーカラーも居た。

このブルーカラーはやがて創造局に入り、新たな街を作るのだ。

沢山の人々が住み、誰も餓える事の無い、そんな街になるに違いない。


がらんとした部屋にはまだクローゼットの扉にも、壁にも、そして天井にも創造を行うだけの十分なスペースが存在していた。にもかかわらずブルーカラーは部屋の隅の方で体を縮めていた。


ヨナは慎重に部屋の真ん中まで進んで椅子に上着を掛けた。


「空腹ではないか?」


「・・・・平気」


部屋の隅のブルーカラーは全身を一度だけ痙攣させてそう答えた。

部屋の中は静寂に包まれていて外の騒音は聞こえない、まるで、この部屋だけが別の世界に存在しているかのように無音だった。しかし、その考えは全く持って間違いであり、今、この瞬間でも監視局が目を光らせている。

彼等は、このブルーカラーをやがて迎えに来るだろう。


ヨナは描き途中の床の絵を漠然と眺めた。


一見不規則に書き詰められたこの絵にはきちんと順序が定められている。

それぞれの絵が持つ象徴シンボル物語ストーリー。荒唐無稽なそれらを彼等が正しく理解できるとは到底思えない。


「君は明日、何が食べたい?」


「・・・ぇ・・・・なにも・・・」


「君が昨日言っていた物だが」


「・・・うん」


「手に入らなかった」


ヨナの言葉を聞いてブルーカラーが僅かに頭を持ち上げ振り向く、耳が見えて、鼻先が見える寸前のところでそれは止まった。


「そう。とても残念」


この部屋が蒸し暑いせいだ。ヨナは握った手や衣服の下に不愉快な発汗を感じてすぐにシャワーを浴びてしまいたくなった。


「君は明日、なにが食べたい」


「え・・・・なにも・・・」


「なにかあるだろう」


「なにもないわ」


どうしたというのか?


「どうしたんだ?」


「なんでもないわ」


「嘘だ」


「嘘じゃないわ」


「嘘だ」


「嘘じゃないわよ。なんでもないもの」


「君は俺を避けている!!!!!」


ブルーカラーは再び体を一度痙攣させ、今度はしっかりと振り返りヨナの姿を捕えた。その表情は驚愕に満ちていた。

ヨナはこれ以上誰とも会話などしたくなくなり、相手を黙らせるためだけにもう一度何かを発声しようと試みたが気道が狭まり体の自由は失われていた。

彼はいっそう不愉快な気分になり、シャワー室に飛び込むとシャワーの出力を最大に上げた。


水はすぐに規定量に達し、シャワー室の中に水滴が何滴か垂れる音が響いたと思えば、いつものように起動したボディドライヤーが彼の体を乾かした。


いつもと、変わらない。


ヨナが部屋に戻ると、ブルーカラーの娘は先ほどと全く同じ形で部屋に収まっていた。


ヨナは慎重に部屋を進み寝具へと向かった。


そして、あと数歩で今日という日が終わるという所で娘が声を上げた。


「ねえ」

「なんだ」


彼女は目を下に伏せたままゆっくりと、ヨナの方を振り向いた。

下げた目線の先には、円柱状に固めた軟膏のようなものが四角い板の上に乗せられていた。そして、その上では、透明な何かがゆらゆらと揺れていた。


・・・じりじり・・・じり・・・。


「なんだ・・・・それは?」


「蝋燭と・・・火・・・」


「蝋燭と・・・・火?」


「・・・うん」


ブルーカラーの顔は打たれた後のように赤く変色しているようで、それはこの部屋が蒸し暑く、目の前の小さな火がオレンジ色に発光しているせいだとヨナは思った。

彼はすぐに先程までの自分の非を認めて、その事を彼女に伝えようとした。その時。


「君は・・・」


「はっぴばーすでーとぅーゆー・・・はっぴばーすでーとぅーゆ・・・・」


ブルーカラーの突然の奇行は、ヨナの思考からすべてを奪い去った。

発声をとぎらせる事無く、決して常用しない方法で発音する行為。これがきっと、歌なのだ。

彼の眼はブルーカラーに釘付けになった。


「はっぴばーすでー・・・・でぃあ・・・・・」


ブルーカラーが呼吸を一つしたのでヨナも一度呼吸した。


「でぃあ・・・・」


「・・・」


「でぃあ・・・・・あなた名前は?」


「俺に名前は無い。誕生日も知らない」


ヨナの中にはそれが今日ではないという確信だけがあった。


「そう・・・」


ブルーカラーは下げていた視線をさらに下げた。

その間も、小さな火は髪と衣服の繊維で編まれた蝋燭を燃焼させていた。


「なら、あなたの名前はヨナ。そして、今日があなたの誕生日よ」


「ヨナ?それが俺の名前」


「そうよ、お誕生日おめでとう。ヨナ」

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