第11話

「おかえり」


部屋に帰るとあのブルーカラーがやはりいた。

しかしそんなものがヨナの目に入ることは無かった。


「ねえおかえり」


ヨナの頭に一瞬よぎったのは部屋を間違えたのかもしれないという在り得ない懸念で、自分の知っているどんな物よりも速く通り過ぎたそんな懸念を抱いたのはいつもよりも頭のふらつきが長引いているせいだと思った。

相手の殴打技に不覚を取ってしまった時のような状況が続いていた。今も。


「何をしている」

「おかえりって言われたらただいまって言うんだよ」

「ただいま」

「おかえり」

「ただいま」

・・・・・。



「何をしている」

「見てわからない?絵を描いているのよ」

「絵?これが絵なのか?」


ブルーカラーは少しむっとした。


この街は、巨大な局や道路をはじめとして道に転がる小さな建材辺に至るまで汚れが定着することが無い、外では昼間の僅かな照明の力で消え去ってしまう汚すという行為を外の光が届かない部屋の中で行うのは名案だとも思った。しかし、それ以上に。


「何をえがいている?」

「うん?これはうま、つき、それにうみ、ヤシのき、くじら、とり」

「鯨?鳥?鯨は空を飛べないはずだ」

「そんなことどうだっていいじゃない」


ブルーカラーは手を止める事無くそう言った。

ヨナはその態度に思わず身を乗り出して、彼女の影の中にあるずっと気になっていた描き途中の絵を覗き込んだ。


「それはなんだ」

「これ?これはヒトだよ」


ブルーカラーは一旦描くのをやめて、額にかいた汗を手の甲でそっとぬぐった。

この部屋が蒸し暑いせいだ。

馬、月、それに海、ヤシの木、鯨、鳥、加えて、背中に鳥と同じパーツを付けた人。

ヨナは一番よく知っているはずの人そのものが最も理解できない存在に思えて、このブルーカラーの娘に激しく憎悪し、また失望した。


「人は飛べない。出来るのは落ちる事だけだ」

「いつかきっと飛べる日が来るわ」


確かにそうかもしれない、それがいつになるのかはわからない。しかし、確かな事がある。


「君は鯨を見た事があるのか?」

「あるわけないでしょ?あなたは?」

「ない。その飛び出ているものは何だ?」


ヨナはブルーカラーが描いた鯨から飛び出ている紐状の個所を指さして尋ねた。

こころなしかはみ出たはらわたにも見えるそれがいったい何なのか彼は確かめたかったのだ。

すると、ブルーカラーは止めていた呼吸を一つしてすぐに答えた。


「それはよ」

「じら?」

「そう、9個のじらをもっているからくじらなのよ?知らないの?」

「君は間違っている」

「どうかしら」


間違いない。


このブルーカラーの娘は創造が出来るのだ。


創造は長い長い時間の中で生存と引き換えに人々が失ってきた多くの能力の内の一つだ。しかし、それは人々から完全に失われたわけでは決してない。

紙きれ一枚以下の確率で発現する奇跡の遺伝子、この街も、また、どこかにあるという他の街も、そう言った選別の末に生み出された才能によって作り上げられたものなのだ。だとすれば。


「あなた、怪我をしているの?」

「そうだ」

「そう」


ブルーカラーはそう言って、クリーニングされた細い指を傷口に差し込んで、たっぷりと血液をからめとった。


「丁度この色が欲しかったの」


ヨナは自分の腹の内側を不気味に蠢く指が描く空を駆ける人を漠然と眺めていた。

指は腹の内側と部屋の床を何往復もした。このブルーカラーは特別だ。



創造局に入る資格がある。

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