夜明けのデイジー

@aoi_2021

第1話

 午前7時50分。天気はほぼ晴れ。

 街のどこからか流れるアナウンサーの声をBGMに、私は低いパンプスでアスファルトを叩く。

 通り過ぎる人の中には欠伸をこぼす人、並んだ制服、慌ただしく電話をかける会社員。何も変わらない。すぅと息を吸い込めば、少しだけタバコに混ざって花の匂いが届いた。 自然じゃない、人工的なそれ。生憎、今日の私は香水を付けるほどの余裕なんてない。かろうじて昨日のトリートメントの匂いが残った髪の毛を一括りするので十分だ。


「ふぁ……」


 欠伸をこぼすと同時に、お腹の中で空気がぐるりと音を立てて泳ぐ。せめて朝食は食べて来ればよかったかな。なんて、今更後悔したところで意味なんてない。コンビニに寄ってもいいけれど、生憎、仕事前に無駄な体力を消耗したくはないから。微かな望みでカバンを漁れば、指先にコツンと小さな個体が触れた。おもむろに取り出してみれば、3日前に仕事場の先輩から貰った1粒のチョコレート。若干溶けて歪になったそれを口に運べば生温い甘さがねとりと纏わりついていく。こんなんじゃ私の胃は、1ミリも満たされてはくれない。


「喉まで渇くなぁ」


 誰も聞いていないのにポツリと文句を言ってしまう。胃も脳も口も全部が馬鹿になってしまっているらしかった。最悪だ。こんなにも不愉快な朝は滅多にお目にかかれないだろう。



「別れようか」




 こんな不快な朝を迎えた原因は、元彼のこの一言だった。我ながら単純だ。

 次のデートの予定を話そうとして電話をかけていた時の出来事だった。振り絞るような声で紡がれた終わり。

 多分、不満とか怒りとか全部落ちた先に残っていたのは、疲れだったんだと思う。どっちが言ったのかは、覚えてないけどお互い拒む言葉なんてこれっぽちも出なかった。泣かないのは悪いような気がして夜が開けるまで映画を流し続けたけど、これっぽちも感情移入出来なかった。大学時代のただ淡々と流れる講義と大差ない程に退屈でしか無かった。それでも眠れないから

 変わってる部分も沢山あったけど優しくて、真っ直ぐな人だった。

 浮気なんてしない人だった。

 だから、無理だと思ったのだ。浮気なら私が取り返せばいい。或いは、他の味に飽きた頃に戻ってくるだろう。けれど、そういう話ではないから。ただあの人にとって私が日々の中にいることよりも、前の生活の方が息がしやすくなったというだけ。だって海は本当は好きじゃなかった。熱いし泳げないし。何より怖かった。もしかしたら、私の大切な人はその内あっさりと魚達の方へ向かうんじゃないかって。

 ああ、思い出しただけでも心が疲れてくる。気を取り直してショーウィンドウにうつる自分を笑顔にしてみたが、中々酷い顔だった。

 ふと、そのガラスの奥にある踵の高いハイヒールが目に入った。

 自分と似てるな、と思った。

 恋の折れる瞬間は突然で、バランスが崩れて上手に立てなくなってしまう。あんまりにもいきなりでどうすればいいか分からなくて、壊れた事を悲しむのはずっと後になってから。長い時間を無理やり歩いていたから、大切にしていなかったから、そもそも自分には不相応だったから。何だか視界に映る赤いヒールとそっくりだ。



 ああ、もう。


 全部、全部夢だったら良かったのに。

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