10:人間

 アルガンは壁に身を寄せ、おそるおそる穴の奥を覗き込んだ。得も言われぬ強烈な匂いがあふれ出して思わず息を止める。糞尿、血、油、汗、そして腐臭。そんなものが混じったような、顔を背けたくなる匂いだ。つんとした刺激が目にも入り、見ているだけでも辛い。今いる広間はだだっ広いが、穴の奥はもう少し狭く、ここと同じく何やら色々なものが置かれている。その中にたくさんの蠢くものがあり、こちらを向いた眼が合う。


 そこにいたのは、人間だった。


 人数は二十人から三十人、見た目はアルガンたちと同じ、背格好もそのまま、だが男も女も、全員が裸だった。全員が驚いたようにこちらを見ている。年齢は十代から三十代というところで、子供も老人も見当たらない。閉じ込められて垂れ流しなのだろう。糞尿の匂いは彼らのものに違いなかった。そしてうずたかく積まれた山からの腐臭。それは…死体の山だった。

 どういうことだ?アルガンは状況が理解できずに混乱した。そもそも村以外で人がいるなんて聞いたこともないし、彼らが死体とともにいるのも意味が分からなかった。思わず後ずさったところで鋭い声が飛ぶ。

「アルガン!危ない!」

 アルガンははっと振り返り反射的に盾を掲げる。気づけばまた象がこちらに向かっていた。しかし象はアルガンの少し手前でピクリと足を止めた。アルガンの手前?いや、象が気にしたのは匂いだった。穴の奥からの強烈な匂いに、明らかに戸惑っているのが分かる。アルガンはそれを察すると目立たないように体を小さくし、象の横に逃れ、壁際で小さく縮こまって穴と象の様子を観察した。

 象が鼻を振って警戒しながら穴に向かうと、中からもキーキーと人間たちの叫びが聞こえる。彼らも象を初めて見たのだろうか。その叫びは明らかにアルガンの使っている言葉ではなかった。あの人間たちは別の言葉を使っているのだろうか。別の言葉があるという話は確かに聞いたことがある。しかしアルガンの耳にはそれが言葉ではなく、動物の叫びにしか聞こえなかった。もしかすると彼らは、言語を持っていないんじゃないか?

「ねぇ」

 アルガンは肩を叩かれて思わずびくりとする。振り返るとハイムの顔があった。逃げているうちにバリスタの近くに来ていたらしい。彼女たちの隠れている位置からは穴は見えない。

「何?あれ。何がいるの?」

「何じゃないよ、人間だ。村以外の」

 アルガンの答えに、ハイムの目が驚きで大きく見開かれる。

「村以外の人間?ここに住んでたってこと?」

「そうとしか考えられない。あの壁が動いたら、そこにいた。今まで、誰も気づかなかったんじゃないか」

「そんな…猿か何かの鳴き声だと思ってた」

「実際そんな感じだ。みんな喋れないように見えた。獣みたいだ」


 象は穴を覗き込んでいる。その強烈な匂いに戸惑っているようで、進むべきか、無視すべきか迷っているようだった。しかし穴の中の人間たちは自分たちが狙われていると感じた。象を初めて見る彼らはそれが何か分からないが、とにかく巨大な生き物が自分たちを狙っている。とすれば、戦うしかない。そう彼らは判断した。

 穴の人間たちは一人、また一人と立ち上がり、象に対峙する。彼らのいるこの場所の食糧は限られていた。生きられる数は限られていて、だからいつも争っていた。彼らにとって生きることは戦いであり、それが同じ人間であってもそうなのだから、始めてみる自分たちと違う生き物に対しても、それは変わらなかった。そして同胞を殺し、奪うことに慣れている彼らにとって、命の価値は低かった。戦わなければどうせ殺される。だから戦い、奪う。狭い部屋で生まれ、生きてきた彼らにとって、生きることはかくも単純な仕組みだった。彼らは一人、また一人と象に向かって殺到していた。

 

「獣」

 ハイムがアルガンの言葉を繰り返したところで、穴の奥の人間たちが一斉に象に飛び掛かった。それはまさに獣の姿だった。何も持たず、何もまとわず、何も話さない人間が防御を忘れて象に殺到し、殴り、噛みつき、引っ掻く。象もこれまでのヒットアンドアウェイとは打って変わった攻撃の波に戸惑い、慌てて鼻を振り回し、突進する。そのひと振りで二人の頭が吹き飛び、一人の胸がひしゃげる。一歩を踏み出せば一人が踏みしだかれ、骨の潰れる音が周りに控えるアルガンたちの耳にまで響く。その力の差は圧倒的だったが、か弱い人間の単純な攻撃は、しかし確実に象の耳を引きちぎり、一人は象の右目を抉り取った。

 象には飛びついた人間が密集しているため、突然の出来事をまだ理解できていない部隊は加勢もできず遠巻きに見守るしかできていなかった。一定の距離を作って象を囲う間にも一人、また一人と腕を捥がれ、頭を潰され、吹き飛ばされていた。

「爪」

 ハイムがぼそっと呟く。聞き取れなかったアルガンが聞き直す。

「何?」

「あの人、爪がある。あっちの人には角」

 ハイムの指す、象の左腹に捕まった人には、大きな鉤爪があった。そして背中に飛び乗った人には頭に大きな角が。

「本当だ。それって…」

 アルガンが気づいたことを、ハイムが繋げる。

「あの人たち、ここで生まれた獣と一緒だ」

 鼻に捕まった一人が大きく持ち上げられた後、地面に叩きつけられ、ぽっきりと折れた角が乾いた音を立てて転がった。


「なんだ?あれは」

 ガスト隊長もあまりの状況の変化に全く頭が追い付いていなかった。

 アルガンが吹き飛ばされたあと、突然たくさんの生き物の反応があった。穴ができた時点で気づいていたのはアルガンの他にはガストだけだった。それが実は人間で、なぜか象に立ち向かっている。人間であれば手を貸してやりたいが、象にしがみついているために攻撃が当たる可能性があり、手が出せない。

 何も分からないまま、こうして遠巻きにしているしかないのが歯がゆかった。穴から出てきた人間たちは象に次々殺されていく。しかしそれでも象に確実に傷を与えているのはガストには驚くべき状況だった。防御を捨てて攻撃すれば、あそこまでの力が出せるものか。

 穴から出てきた人間は二十人強だが、みるみる象にやられて、今は六人まで減っている。この調子ではあと数分も持たないだろう。距離を取ってくれればこちらも助けることができるんだが、興奮しているのか声を掛けても全く反応はなかった。

 目の前では象が後ろ足で立ち上がり、頭頂部と天井に挟まれた一人が落ちる。象も立ち上がった勢いで自分も天井に頭をぶつけたのか、一瞬よたよたと足がおぼつかなくなるが、また鼻を体に当てて、しがみついた人を探そうとする。

 象とその周りは肉塊と血にまみれていて、もはやその血が誰のものなのか、ぶら下がっている肉片は象のものか、潰された人の物かすら判然としない状態で、遠目にはそれは赤いぬるぬるとした、鼻と牙の突きでた肉の塊になっていた。いま象にしがみついているのは五人だということすら、全員が注視している中で、ガストしかおそらく分かっていないだろう。象は目を潰され、傷のためかよたよたと目的もなく歩き回っていたが、その折り重なった死体を踏んだ際に左前脚を取られ、左の肩から前方に倒れこんだ。また一人がその下敷きになる。象は一瞬のことで何が起きたか理解ができないようで、立ち上がれず足でバタバタと宙を搔いていた。

「今だ!槍、突けぇ!」

 慌ててガストが叫ぶと、遠巻きにしていた槍が一斉に飛び掛かり、腹側にいた半分は心臓を目掛けて槍を繰り出した。残り半分は背中側に立っているので、ぐるりと回りこみ、腹を狙う。

 腹の柔らかいところから心臓を狙った槍はずぶりと穂先が見えなくなるまで難なく入りこむが、全身が既に赤に染まっているため、象からの出血がどの程度なのか分からないし、呼吸のたびに吹き出す血しぶきも、それが象から出ているのか、流れた血が舞っているのかすら分からない。象は倒れたままでも足と鼻を目いっぱい振り回し、その足にまた一人が腹を蹴られ、ありえない角度に腰骨を曲げて吹き飛んだ。残りの槍隊はそれに巻き込まれないよう、足に注意しながら心臓を狙ってさらに槍を順に突き刺し、また距離を取る。

 アルガンたちはバリスタを回し、寝ている象に打ち込む準備を進めていたが、そうしている間に象の足の動きは次第に緩慢になり、鼻は力を失い、ついにだらりと地面に寄り添った。ゆっくりとした腹の動きも徐々に静かになり、今動いているのはまだ象に齧りつき、爪を立てている三人の裸の人間だけだった。

「おい、もう死んでいるぞ」

 バックランド分隊長が盾を置き、三人に声を掛ける。

「君たちの仲間を助けられなくてすまなかった。さあ、こっちへ」

 そう言って足元を確認しながら腕を差し出し、ぬかるんだ血と肉の山の中から一人を助け出そうとする。瞬間、その人間がぬかるんだ足元から飛び出したと思えない速さでバックランドの手を払うとその脇をすり抜け、広間の入り口に向かって走りながら「わー」とも「だー」とも付かない叫び声をあげた。その声を聴いてあとの二人も同じく叫び声をあげて追いかける。しかし走り去る三人を見ているものは誰もいなかった。すり抜けたバックランドの肘の内側からほとばする鮮血に、全員が釘付けになっていた。

 走り去る人間の、握りこぶしほどもある大きな鉤爪からは、まだ血が滴っていた。


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