第32話 自慢

 夜になると昨日とは違う形の月が昇る。三人は現在、アネクと国の間にまたがる海峡を錆びついた船で進んでいた。薄暮が終わるのを見計らって出発し、既に数時間が経過している。船は工場跡地の周辺でソウが見つけたもので、三人が乗り込むとそれだけで窮屈に感じるほど狭い。また、視認性を下げるために船全体を黒い布で覆っており、風でなびく度にカレルの身体に纏わりついてくる。動力源は平たく加工した木のオールだった。


 「進む向きは合ってるか?」


 「調整してるから大丈夫」


 現在、カレルが船尾でエンジンの役割を果たしており、暗闇でも視界を確保できるソウが船首で舵取りをしている。出発前にアンドロイドの残骸から新しい義手を手に入れて早速の力仕事である。カレルの目に見えているのは自ら光る月と星だけ。ソウには対岸を観察する役割も与えられており、オーリハは休憩中だった。


 「まだ着かないの?」


 「あと少し……だよな?」


 「もうアネクの方がずっと近いよ」


 オーリハが横になっているのは船の揺れで気分を悪くしたからだった。カレルも初めての感覚に慣れないが、オーリハがこれでは我慢するしかない。むしろこの小さな船が転覆するほどの波がないことに感謝しなければならなかった。


 「ねえ、カレル」


 「なんだ?」


 「どうして海の水は塩辛いの?」


 先頭で最も波しぶきを受けていたソウが質問する。カレルの口にも幾度となく海水が入っており、その度に吐き捨てていた。考えてみるものの、その理由は分からない。


 「塩が入ってるからだろ?」


 「そうじゃなくて、川の水は辛くないのに」


 「さあ、分からない」


 海はとてつもなく広い。しかし、それがどの程度なのかカレルは知らない。誰かが塩を混ぜたんだと言いかけて、そもそも塩が海から得られていることを思い出して黙る。世の中には知らないことの方が多いのだ。


 「じゃあ、えっと」


 「オーリは休んでて」


 「どうして月は毎日形を変えるわけ?」


 今度はオーリハが弱々しい声で質問してくる。これには答えることができる。そう思っているとソウがにんまりと笑ってこちらを向いた。ソウにも分かるらしく優越感に浸っている顔だった。カレルは疑問を持ちながら説明する。


 「それは太陽と地球と月の位置関係が毎日変わっているからで……って、その話は前にしたことあるだろ?」


 「うん、知ってる。昔、私が初めてカレルに訊いたことだから」


 「そうだったっけ」


 苦しそうにしながらもオーリハが笑顔を浮かべる。対照的に、ソウはしてやられたといった様子で不満気な表情を見せた。嫌な予感がしたカレルは先に牽制しておく。


 「競わなくていい。ソウにされた質問も覚えてる」


 「だったらいいんだけど……じゃあ」


 「まだ何かあるのか」


 カレルはオールを漕ぐ手を止めて息を整える。海峡の最短距離を移動することは危険と考え、航路が長くなる代わりに人目につきにくい進路を選んだ。そのおかげで対岸に不審な影はない一方、カレルとオーリハの体力は酷く消耗している。


 「こうして西に近づくと日暮れが遅くなっていくのは?」


 「この時期なら日暮れはどこにいたって遅れていくだろ」


 「違うよ。日付のずれを差し引いてもずれてる」


 「そうなのか?」


 「気付いてなかったの?旅をしてる間、私はずっと思ってたよ?」


 カレルは空を見上げてそうなのだろうかと首を傾げる。ただ、考えてみるとそれが当たり前のことだと気付く。簡単なことであるが、実感したことは一度もなかった。再び視線を漆黒の海に向けてオールを漕ぐ。


 「太陽の進む方向に僕たちも進んでるからなんだろうけど、ソウはそんなことにも気付けるのか」


 「まあね。星の位置を測って体内時計と照らし合わせると簡単に」


 「私も気付いてたよ」


 「本当に?」


 二人は分かりにくい応酬を繰り広げ、オーリハはその途中でのっそりと身体を持ち上げる。胡坐をかくと銃を船底に立ててバランスを取った。


 「ずっとナミハヤの空ばかり見てたからかな。カレルと旅をして新しい空を見上げたらすぐ気付いた」


 「あー、またロマンチックなこと言ってる」


 オーリハの言葉に再びソウが唇を尖らせる。オーリハはそんな反応には興味なさそうにして、カレルと目を合わせた。


 「なんだかこんな話をしたのも久しぶりだね。いつも話すときはバスエで、旅の間に何があったのかは聞いても何を新しく知って帰ってきたのかは聞かなかったから」


 「……そうだな」


 「だから懐かしくない?カレルが今の仕事をする前まではずっとさ」


 「ほら、もうすぐ陸だよ」


 オーリハが二人だけの空間を作ろうとしていたところ、ソウが言葉を挟んで船の向きを微調整する。邪魔されたとオーリハが冷たい目を向けるものの、実際にカレルらにもぼんやりと対岸が見えてきた。その後は再び気を引き締めて着岸する。ソウが選んだのは砂浜を挟んですぐに森が広がる場所だった。


 上陸した後はソウが船を陸に引き上げて森の中に隠す。カレルはその引きずった跡や足跡を消してまわった。ここはカレルたちが住んでいた世界とは異なる。ちょっとした距離の海を挟んでいるだけだが、異様な雰囲気が三人を包み込んでいた。


 「まずはあいつらの痕跡を探すの?」


 「ああ。それも夜のうちに見つけておきたい。昼間にうろうろしてられないから。どうすればいいと思う?」


 カレルはソウに意見を窺う。ソウと離れてからはカレルが決断を下す機会が多かった。その中には時に何の根拠にも基づかない危険な賭けまであった。ソウは少し考えてから提案する。


 「あいつらに遠回りする必要ないから、きっとあの工場跡地から最短で進んだはず」


 「近いのか?」


 「少し遠い。それに、該当しそうな場所が幾つかある。三人で見て回るのは無理だと思う」


 ソウがオーリハの様子も勘案して現状を分析する。カレルはそうだろうと納得して自分でも解決策を考えてみる。しかし、どの場合においても別々に行動する必要がありそうだった。


 「私が一人で確認してくる」


 「危険じゃないか?」


 「二人をここに残す方が心配。私は大丈夫」


 「僕らは大丈夫だ。……待っていればいいんだな?」


 カレルは確認する。ソウと再会してまだ一日しか経っていない。愛読書に目を奪われたソウが間違った判断をするかもしれないと不安になった。しかし、力強く頷いたソウを前にそんな不安は風に流れていく。


 「二人をこんなところに置いてほったらかしにはしない。待ってて。必ず手掛かりを見つけて戻ってくる」


 「分かった」


 カレルが答えた瞬間、ソウは音もなく走り去っていく。その場に残されたカレルとオーリハは木陰で静かにその帰りを待つことにした。

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