第2話 ヒトと人間
ソウが足を止めたのは研究所から10キロほど離れた小高い丘の上だった。地上に下ろされたカレルは無口なソウの隣を歩く。雪は降り止んでいたが、気温は太陽が昇るまで下がり続ける。カレルが白い息を吐いたのは月にかかっていた薄い雲が晴れたタイミングだった。
「足以外は怪我してない?」
「うん」
「弾も当たらなかった?」
「……右腕に当たった。けど大丈夫」
「見せて」
カレルはそう言って立ち止まる。ソウも足を止めると、迷った末に右腕を差し出した。月が出るのを待っていたのはこのためだった。懐中電灯の光と合わせてソウの右腕を見ていく。
「肘の上だな?服に穴が開いて焦げてる。傷はついてなさそうけど」
「だから大丈夫だって言った」
「動かしにくいとかは?」
「それも大丈夫」
外見的な問題がないと分かって、ソウがやや強引に腕を引っ込める。そんな態度にカレルは小さくため息をついた。ソウの自らを危険に晒す行動は今に始まったことではない。自分の身体を過信しすぎていた。
「あれは塩素弾だった。着弾時には1000度に達すると言われてるし、亀裂が入れば塩素ガスの腐食を受ける。今回は肌を突き破らなかったけど、もしそうなってたら」
「分かってる。回路を破壊される」
ソウの指が弾丸の当たった箇所をさする。ソウの身体は全てが特別である。柔らかく透き通った肌は人間と見分けがつかない一方、特殊な材料のために耐熱性と靭性に極めて優れている。カレルはソウの身体以外でこのような素材を見たことがない。
しかし、そうであったとしても塩素弾の脅威を過小評価するわけにはいかなかった。塩素弾の特徴はその名の通り塩素ガスを内蔵し、衝突時には高温に達する点である。主用途はケイ素型演算回路を持つヒトの殺傷。高温で促進されるケイ素と塩素の反応によって半導体の機能を奪うのだ。
「傷がつかなくても衝撃は受ける。前にもそれで内部が壊れたことあっただろう?」
「………」
「もっと自分を大切にしないと。次からは気を付けて」
これが詭弁だということはカレルも分かっている。今回、ソウに負担を強いたのは他の誰でもないカレルだった。ソウの提案通り、早々に逃げることを選択していればこんな結果にはならなかったからだ。だからこそソウも不満を漏らす。
「どうしてカレルはいつも思い付きで動くの?」
「だけど、そのおかげでガスケットが手に入った。ソウのためになる」
「だったら私だってカレルのためだった。どっちの方が合理的?」
腕を組んだソウが鼻を鳴らす。高性能な右腕とは対照的に、左腕は金属フレームが剥き出しのジャンク品である。これは以前に戦闘で左腕を失ったからで、性能はオリジナルを大きく下回る。右足がジャンク品なのも同じ理由である。この二か所は大きな負荷がかかる度に故障を引き起こしていた。
「合理的じゃなくて感情的の間違いじゃないのか?」
「そうだよ。私はカレルが好きだから。でも、それを抜きにしてもカレルの身体に穴があくくらいなら私の足が歪む方がマシ。それは分かる?」
流れるような主張を前にカレルは口を閉じる。こんな張り合いも最近では珍しくない。ソウに顔を赤らめる機能はなく、表情を隠されると感情を推し量ることはできなかった。
「そうは言っても、僕とソウじゃ身分が違うだろ」
苦し紛れに呟くカレルに正当性は何もない。それを聞いたソウは悲しさを隠し切れなくなって視線を落とした。カレルとソウは二年以上の付き合いになり、だからこそ冷たい言葉を投げてしまうこともある。しかし、そんな事情は免罪符になり得ない。カレルは一人で歩き出したソウを慌てて追いかけた。
「言い過ぎたよ。ごめん。ソウが正しいことは分かってる……本当に応急処置は要らないんだな?」
「うん」
「………」
「その代わり、街に着いたらちゃんと全部見てほしい」
「分かってる」
カレルが遅れていた数歩分を稼いでソウの真横に並ぶ。ソウの身長はカレルより少し低く、綺麗な瞳も膝を軽く曲げないと真正面から見ることができない。サラサラと風に靡く淡い水色の髪にも実は防弾性が備わっている。短い前髪はコンプレックスだったらしいが最近はその文句も聞かなくなった。横髪はゴムで纏められ、振り子のように揺れている。横顔を見ていると不意にソウの横目に吸い込まれそうになる。どうやら怒りの矛は収めてくれたようだった。
今回の仕事も最終的にはソウの活躍があって成功した。残す課題はトラブルに見舞われることなく二人が拠点にしているナミハヤに戻るだけである。空を見上げると雲はほとんどなくなっていた。
「それで、今回のはどういう物なの?」
「えっと」
ソウに問われて、カレルはリュックから今夜の収穫物を取り出す。その本は200ページほどの分厚さで、手のひらよりわずかに大きい。原古代語の時代に書かれたものであり、保存状態は極めて良かった。
「題名は燃料電池の基礎と応用」
「それが選ばれた理由は?燃料電池のことだから?」
「そうだと思う。多くのヒトやアンドロイドに搭載されてるけど、扱う僕らはその仕組みや不具合の理由をほとんど知らない。これで理解が進めば、きっと故障の頻度は減るだろうし、メンテナンスもしやすくなるに違いない」
「分からないことって例えば?」
「そうだな……」
カレルはペラペラとページをめくる。原古代語は現在の新生言語と類似点が多いため比較的読みやすい。しかし、そうは言っても弱い月明りの中、歩きながらの翻訳は労力を必要とした。
「燃料電池は水素と酸素から……これは当然で。えっと、金属触媒が水素の酸化反応を促進し、最適温度は80度ほどとされています」
「温度のことも知ってる。その熱で体を温めてるから。でもそれがどうしてだって?」
「よく分からない。ちゃんと読めば理解できるんだろう」
人間に体温があるようにソウも指先まで熱を持っている。これは外気温から身体の機構を守るためであり、その熱源は主に腹部の燃料電池となっている。この本いわく、燃料電池が高温となっているのは発電効率に関係しているらしい。
「一酸化炭素は触媒毒となり、急激な電池の劣化を引き起します。へえ、そうなんだ」
「一酸化炭素って?」
「そういう気体の種類だ。人間に有毒なのは知ってたけど、ヒトにも同じなんだな」
カレルは新しい知識に驚く。ソウにはピンときていないようだったが、それでも人間と同じという言葉に顔を緩めた。ソウはいつもその違いを気にしているのだ。
この世界にはヒトと人間が存在する。ソウがヒトでカレルが人間だ。その違いは保有する演算回路の種類に由来する。カレルが脳をその役割にあてている一方、ソウは共役炭素型の演算回路をもって自我を構築し思考を司っている。一般的なヒトはケイ素型演算回路を持つことが多い。同じ種族と見なされているが、人種以上の隔たりがある。
「もっとちゃんと読まないとな。ソウの性能改善に役立つだろうから」
この場でのこれ以上の解読は非効率だと考えて、カレルは本をリュックにしまう。ソウはまだ緩んだ顔を浮かべている。そうやってカレルの反応を待っていたのかもしれない。ただ、眠気に襲われていたカレルはそこまで頭が回らず、次第に白む空を見て欠伸を噛み殺した。
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