第13話〈埜夢と汀音〉
「寮の中にまであがるのははじめてです。ちょっとワクワクしますね」
「そ、そうなんですね。あ、あの、僕のは、普通の部屋なんですけど」
埜夢にとってはすっかり歩き慣れた寮の廊下を、汀音は物珍しそうにきょろきょろと見渡していた。ワクワクするというのは本心のようだ。
「今日はお時間をいただきありがとうございます」
「そ、そんなっ! 僕の方こそ! 元はと言えば、僕の責任だったのに……」
汀音は首を横に振る。
「違いますよ。だって、埜夢さんがやった訳ではないでしょう? たまたま、運悪く遭遇してしまっただけです」
――出来た精霊だ。
埜夢は汀音の言葉に何も返すことができず、案内している側なのになぜか縮こまって、バツが悪そうに前を歩くのだった。
そもそもこれに至ったのは、数日前のとある日のことだった。
埜夢はいつも通り、学舎へ向かっていた。
少し先に見える学舎が見えてきた時、玄関にまた何か仕込まれているのではないかと身構えていたが、そんなことは起こらなかった。
すでに学舎に来ていた
燈里は学舎の警備を担当する。子供達はもちろん、学舎で働く埜夢達もその対象だった。
埜夢は玄関のすぐ近くまで歩いてきたところで、さすがに挨拶もなしに中へ入るのも失礼だと思い、おそるおそる声をかけた。
「お、おはようございます」
燈里は閉じていた目をカッと開き、声をかけた埜夢をぎろりと見やる。
「…………ああ」
はじめて会った時と変わらない、無愛想な返事だった。
燈里はそれだけ言うと、また両目を閉じて口も閉ざしてしまった。
埜夢は、その場から少しでも早く逃げ去るように玄関の扉を素早く開け、いつもより落ち着きのない動きで控え室に向かった。
悪質なイタズラに遭わずに済んだ分、別のところで気苦労が増えているような気がしてならなかった……。
埜夢の仕事は今日も変わらず清掃だ。そして時間が空いたら、
(……うーん)
妙な違和感に襲われた。
イタズラこそされないものの、常に誰かが覗き込んでいるような、得体の知れない視線を感じた。
子供が好奇心で働く埜夢を覗いているだけならまだ可愛いものだ。だが、その視線はどこかトゲトゲしていて不穏さを含むものだった。
埜夢にイタズラしていた相手が、燈里という警備を置かれて大きく出られなくなったのだろうか。それだとしたら、燈里という存在を学舎に置いた効果はしっかり出ていたのだろう。
……視線が不気味なことに変わりはないが。
ひとまず、直接的な被害はなく一日が終わった。
いつも通り子供達が帰った教室を掃除し、道具を片付けに向かう途中。
バシャアァァ……
遠くで大量の水がひっくり返されるような、不穏な音が聞こえた。
「な、何があっ……」
埜夢が慌てて駆けつけてみると、見るに堪えない光景が広がっていた……。
階段の隙間からぽたぽたと垂れている水。よく見ると水は茶色に濁っていて、土や葉っぱが混ざっていた。
階段は泥混じりの水でびっしょり濡れていて、埜夢の表情はすっかり曇ってしまった。
仕事の終わり際に余計に仕事が増えてしまったからという疲労感より、まだ嫌がらせをする輩がいるのかという失望感だった。
「……はぁ」
仕方なく、埜夢は手に持っていた掃除用具で後始末をすることになった。
そこに、今日の仕事を終えた汀音が通りかかった。
「の、埜夢さん? これは一体……」
「わ……わかりません。音が聞こえて、駆けつけたらこんなことに……」
「私も手伝います! 水処理は任せてください」
「えっ! そ、そんな、大丈夫で……」
埜夢がどもりながら振り返ってみると、汀音はすでに水浸しとなった廊下に手をつけていた。
汀音は汚れた水から綺麗な水だけを取り出した。近くに置いてあるバケツにその水を移し替え、濡れた手を軽く払った。
「……水だけならすぐに片付けられますよ。残りは地道に集めるしかないですね」
汀音は袖をまくり、長いスカートが汚れないように端を握って軽く結ぶ。
「も、申し訳ないです。残りは僕だけでも……」
「そういうわけにもいかないでしょう。埜夢さんがいつも頑張っているんですから、私にもできることをお手伝いしないと」
初日の放課後も、似たようなことを言って埜夢の仕事を手伝ってくれた。
本来自分の仕事ではないのに、埜夢の手伝いを愚痴ひとつこぼさずしてくれることに、埜夢は感謝と申し訳なさが渦巻いていた。
「一体誰がこんなことを……」
「今日は一日何もないと思ってたんですけど……すみません、帰る直前になって……」
「お気になさらないでください。埜夢さんの責任じゃありませんから」
「でも、もともと汀音さんの仕事じゃないのに……申し訳ないです」
汀音は何か言おうとして、口を静かに閉じた。
埜夢の今にも泣きそうな表情をさらに歪めてしまうような気がしたものだ。
二人静かに泥のかき集めを続け、ようやく階段の汚れを綺麗に片付けることができた。
猫車に泥を入れて運び、学舎の敷地内にある花壇に移し替えた。
「……ありがとうございます。助かりました」
埜夢は震える声で、汀音に感謝の言葉を述べた。
きっと埜夢が面倒事を自分一人で処理できず、汀音を巻き込んでしまったことをを悔やんでいるのだろう。
汀音は気にしないでくれ、と反射的に言おうとした言葉を止め、どのように言葉をかけようか悩んで結局何も言わずに小さく礼をした。
荷物を取り、埜夢と一緒に学舎を出た。
汀音は、初日にこうやって埜夢と短い帰り道を一緒にしたことを思い出し、その時の会話がふと頭に浮かんだ。
「埜夢さんっ!」
「はい……?」
「次の休日、埜夢さんの家にお邪魔してもよろしいでしょうか?」
「………………え?」
――そして、休日。
汀音は寮長の許可を得て、埜夢の部屋へ上がらせてもらうことになった。
ちなみに寮長は、日中はいつも寮長室に引きこもっていて、朝昼晩の食事ですら食堂に現れず埜夢ですらその姿を見たことがない。何か寮長に用がある時は寮長室横の窓口から要件を紙に書いて渡すのだ。
埜夢が木製の扉を開け、自分の部屋へ汀音を入れた。
「お邪魔します。……まぁ、こんな感じになってるんですね」
「ち、小さい部屋ですが……」
「そうでしょうか? 一人で住むには過ごしやすい広さだと思いますよ」
客人を招き入れるため、部屋は可能な限り整理整頓をし、更に相手が汀音であるという緊張感から、床の隅から細い窓の縁まで埃ひとつ残さないように念入りに掃除した。というのも、水の精霊は自分の身だしなみや住む家はもちろんのこと、相手の部屋なども入念に見るほど綺麗好きな者が多いという料理長の助言によるものだ。
普段は何も置かないベッドの前に小さめの折りたたみ式テーブルを組み立て、汀音をベッドに座ってもらうよう促した。
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