第10話〈学舎内でのトラブル・前〉


 その日の朝、埜夢のむは初日以来のイタズラに引っかかってしまった。


「……びしょびしょ」


 しかも今回は、バケツいっぱいの水だった。

 熱湯とかでなかっただけマシなのだろうか。

 文字通りバケツをひっくり返した水を浴びて全身びしょ濡れになってしまい、これは一度寮に戻って着替えた方が良いな、と引き返そうとした時。


「埜夢さん! どうしたんですか!?」

「て……汀音ていねさん」


 バケツの水を被る音が聞こえてきたのか、汀音が様子を見に玄関まで駆けつけていた。


「すみません……僕、着替えに一回寮に戻ります……」

「待って! 私が乾かします」


 汀音は埜夢の手をとって引き止めると、今度は両手を埜夢の頬に当ててじっと埜夢を覗き込んだ。

 こんなに近くで汀音に見られ、嬉しいやら恥ずかしいやらで目を泳がせていると、すっと手を離した。


「終わりましたよ」

「えっ? ……あれ、乾いてる?」


 さっきまで髪から靴まで全身びしょ濡れだったのに、今や少しの水気もなく、髪も乾いてふんわりと柔らかくなっていた。


「蒸発させるよう働きかけました」

「あっ、そうか。汀音さんは水の精霊でしたね」

「水に関してはプロフェッショナルですよ」


 ありがとうございますとお礼を言い、周りをみる余裕が生まれたところで、玄関の仕掛けを改めて確認する。


「私が来た時はなかったんですが……」

「汀音さんって、いつもどれくらいに来てるんですか?」

「いつも八時半には着きますよ。学舎で準備もありますから」

「じゃあ、だいたい三十分の間……」


 汀音の目をかいくぐって、玄関にこんな悪質な仕掛けをする者がいるのだろうか?

 埜夢はつい、ちらりと汀音の方を見てしまった。


「……私ではないですよ」

「あっ、ちちが、べつに汀音さんを、うたがってるわけじぇ」


 埜夢が汀音を疑っていると思っているのか、汀音も埜夢を見つめ返してそう言う。

 埜夢はそんなつもりは一切なく、慌てて弁解しようとすると、緊張からかひどくどもってしまい、噛み噛みになってしまった。

 かぁあと顔を真っ赤にしている埜夢を、汀音がくすりと微笑む。


「ふふっ、ごめんなさい。そのつもりじゃないと分かって言いました」

「そうですか……?」

「最近分かってきました。埜夢さんは顔に出やすいので」

「!?」


 ──ひとまず玄関を二人で片付け、後からやってきたあずさに事情を説明した。


「埜夢ちゃんに怪我がなくて本当に良かった。……だけどこんなイタズラ、一体誰が……」

「子供に当たったら大変ですし、何か対策した方が良いですよね……」

「規模も大きくなったから、こういう問題もつきものよね。……分かった、早急に対応するわ」

「お願いします」


 一応気を配りつつも、通常通り仕事を行うことになった。

 埜夢もいつも通りの順番で学舎内の清掃を進めていると、何かと頭をぶつけたり、足を引っかけて転んだりしてしまった。

 今朝あんなイタズラにあって注意深く見ているはずなのに、普段よりも怪我が多い。

 自分がどんくさいだけなのか、見えない何かが邪魔しているのか。


……


「さよーならー」


 気がつけば下校の時間。

 埜夢はまだ学舎の清掃が終わっていなかった。小さなトラブルが重なっていつもより遅くなってしまったのだ。


「さようなら、気をつけてね」

「ばいばい、のむせんせー!」


 裏方で仕事をする埜夢の仕事上、学舎に通う子供達と接する機会はそう多くない。

 子供達が自分に「先生」と言ってくれることが妙にムズムズして土に埋まりたい気分だった。


 廊下を曲がり、教室に向かおうとしたところで子供達の声が聞こえてきた。

 先程とは別の、何やら良くない雰囲気の声。


「てめぇ、何しやがる!」

「いたい! やめてよぉ!」


 何かトラブルが起こったのだろうか。

 まさか今朝自分があったイタズラの類だろうか。

 埜夢が急いで向かってみると、緑髪の精霊が自分より年下の赤髪の精霊に掴みかかっている。


「何? どうしたの?」

「こいつが俺の髪を燃やしたんだ!」


 緑髪の精霊が赤髪の精霊を指さして言った。よく見ると、精霊の前髪が少し焦げている。

 彼の風貌から見て、木か、草の精霊だろう。

 掴まれて涙を浮かべる赤髪の精霊の方を見ると、髪はもちろん目も燃えるように赤く、燃やしたと言っていることからおそらくこの子供は火の精霊なのだろう。


「この精霊が僕の本を取ったんだ!」


 それに反論するように火の精霊が告げる。

 確かに、木の精霊の左手には火の精霊が読んでいたのであろう児童書が握られていた。

 しかし、木の精霊はその言葉に逆上してさらに強く掴みかかった。


「なんだとお前! たかだがこんな本一冊に俺を殺そうとしたってのか、なぁ!?」

「ちょっとやめて、落ち着いて!」


 埜夢が喧嘩を止めようとすると、今度は埜夢の方をぎろりと睨んで、乱暴に火の精霊を離すと埜夢の方に歩み寄ってきた。


「てめぇらこそ、木の精霊が集まる場所にこんな危険な奴を置いとくなんてどういう神経してんだ?」

「そ、そんな僕に聞かれても……」

「火の精霊が暴れ出したら、こんなとこすぐ火の海だろうよ! ちょっと考えりゃ分かることだろうが!」

「……それは……」


 埜夢は反論できなかった。その通りだ、と思ってしまった。

 精霊樹がある第一の箱庭〈ユグドラシル〉は、木や花などの植物の精霊が特に数多く住んでいる場所だ。当然、この学舎に通う精霊達の多くも植物の精霊達だった。

 そこに、植物が苦手とする火の属性を持った精霊が来ればどうなるだろう。

 火の力を持って生まれた彼らは、ほんのちょっとの力でも植物を燃やし、灰にさせてしまう。

 本来、住む場所の違う精霊同士だ。


「どうしたんです?」


 埜夢が言葉に迷っていると、後ろから汀音がやってきた。

 少しほっとしていると、木の精霊が埜夢を手で押しのけて汀音の方に向かった。


「先生、こんな火の精霊はすぐ追い出すべきだ。こんな奴がいると安心して授業できねえ!」

「待ちなさい。まず何があったか先に説明なさい」


「こいつに殺されかけたんだ!」

「僕の本を奪ったんだ!」


 二人が同時に叫んだ。木の精霊の方がきっと睨みつけると今度は火の精霊の方も睨み返す。

 険悪な雰囲気に、汀音も眉をひそめた。


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