第7話〈学び舎の埜夢先生・前〉


 この世界は、六つの箱庭から成っている。


 中心に精霊樹が立つ第一の箱庭〈ユグドラシル〉。

 暖かな海と川に囲まれた第二の箱庭〈オケアノス〉。

 火山と灼熱の炎が広がる第三の箱庭〈ムルキベル〉。

 山と渓谷が複雑に入り組む第四の箱庭〈トモロス〉。

 一年を通して冷たい空気に覆われた第五の箱庭〈フィンブルベト〉。

 そして、最北端に位置する第六の箱庭〈ニライカナイ〉。


 全ては精霊樹によって生まれ、やがて精霊樹のもとに還る。


「……あの、第六の箱庭〈ニライカナイ〉って、どういう場所なんですか?」


 ある日の午後、埜夢のむあずさの事務室で勉学に励んでいた。

 というのも、埜夢の清掃がいつも早めに終わってしまい、午後から手が空いてしまうのだ。

 お使いを頼める時は埜夢にお願いしているが、今日は頼める仕事がなく、せっかくだからと埜夢の知識を増やすために梓の事務室で勉強会を開くことにした。


「あの場所は幽世の箱庭、ようはあの世ってことだね」

「あの世……って、死後の世界のことですか?」

「厳密に言うとそうとも言いきれないけど、まあそんな感じだよ。埜夢ちゃんは、精霊が死んだ時、その魂はどこへ向かうと思う?」

「えーと……精霊樹、でしょうか」


 精霊は、精霊樹から生まれでて、精霊樹に還る。そしてまた、新たな精霊となって再び生まれでる。そうして箱庭の命は巡り巡って動いているのだ。


「半分正解。精霊の魂は、精霊樹に還る前に〈ニライカナイ〉に向かって、魂に刻まれた記憶を綺麗さっぱり消してもらうの」

「消す? なぜそんなことを」

「魂に刻まれた記憶は、精霊樹に還った後も残っていて、次に生まれでる時も全く同じ姿で生まれてくるんだって」

「同じ姿で……それって、悪いことなんでしょうか」

「どうなんだろう。私もおばあちゃんに聞いたくらいで、詳しくないんだ」


 博識だと思っていた梓にも分からないことがあるんだと思いつつ、埜夢は持っていた本に再び目線を落とした。

 文字が読めるとは言っても、難しい言い回しや専門的な用語が多く、理解するのは難しいものだった。


「あまり気を張り詰めすぎるのも良くないよ。元々その本は専門的な内容も多いからね」

「……でも、知らないことを学ぶのは好きですから。覚えておけば、どこかで役に立つはずです」


 食い入るように本を読みこもうとする埜夢を見て、梓も邪魔をしてはいけないだろうと思い自分も机で書類をまとめた。

 自分では五分しかすぎていないような感覚だったが、いつの間にか下校時間になっていて、梓がチャイムを鳴らすために席を立った。


「もしまたこういった時間があったら、ここで勉強させてくれませんか?」

「いいよ! いつでもおいで」


 梓に許可をもらって、勉強に必要な本を何冊か借りることにした。

 寮に帰り、夕食をすませた後に自室の机で本を広げた。

 学舎で働く精霊たるもの、こういった知識は増やして然るべきである。自分の教養を増やし、いつしか汀音ていねのように頼れる精霊になりたい。

 埜夢は、自分が苦手な算数を学ぶために本を開いた。

 基礎的な四則演算から、応用の方程式まで幅広く載っている数学書だ。

 埜夢の家族は肉体労働が多かったから、専門的な数学はあまり習わなかった。


(……汀音さんに頼んだら、教えてくれるかな)


 汀音は教養もあり、相手に対する礼儀も欠かさない。育ちの良いお嬢様のような存在だ。

 汀音に教えてもらえば、もしかしたら苦手な算数も覚えられるかもしれない。



「え? 汀音さん、お休みなんですか?」 


 後日、学舎に来るといつも真っ先にいる汀音の姿がなかった。

 梓から話を聞くと、汀音の実家の都合で急用ができ、やむを得ず休むみを取ることになったのだと言う。

 お嬢様ということは、きっと学舎以外のことでも忙しいのだろう……と、埜夢が妄想を膨らませていると。


「だから、今日の授業はなしにして、埜夢ちゃんに来てもらいましょう」

「………………はい?」



 学舎の外、広い平原が続く精霊樹の木の影に、埜夢達はいた。

 近くを流れる川のせせらぎ、風が吹く度にわさわさと鳴る木々の声、意思を持つかのように揺れては消える木漏れ日、無邪気にはしゃぎ回る子供達の歓声。


「こちらは埜夢先生です。普段は学舎の掃除をしてもらっています。今日は私と埜夢先生と一緒に、お外でいっぱい遊びましょう!」


 隣に立つ梓がそう言うと、わあああ、と黄色い歓声が響き渡った。

 今日は一日遊んでも良いんだ、お勉強しなくても良いんだ! と、ぴょんぴょん跳ねながら全身で喜びを表現している。

 こんな小さな子供が、席に座ってひたすら筆を握り続けるというのは確かに辛いだろう。汀音には申し訳ないが、子供達の気持ちに共感せざるを得ない。

 皆、学舎の敷地内にある遊具へ向かったり、遊び道具を持ち寄ったりしてきゃっきゃと騒いでいる。

 ああ、なんて眩しい笑顔! 深い暗闇に包まれた洞窟の出口から漏れ入る光の洪水のような。あまりの眩しさに、思わずくらりと目眩がしてしまいそうだ。


「埜夢ちゃん? 埜夢ちゃーん。戻ってきて〜」

「……はっ」


 梓の声に、遠のいた意識が戻ってきた。

 子供達の前に立たされて、緊張のあまり現実逃避をしていたようだ。


「す、すみません。あの、急に、緊張してきて」

「そんな肩肘張らなくて大丈夫だよ〜。一緒に遊ぶだけだよ。私もついてるから」

「うぅ、埋まりたい……」


 そう言いつつも、すでに膝下が地面に埋まっている。

 埜夢は恥ずかしいことがあると、つい自分の体を地面に埋めてしまう癖があるのだ。

 土は、埜夢の持つ性質に最も近いもの。たとえ地面の中に体を埋めつくしても、埜夢はその中で自由自在に動き回れる。


「埜夢せんせー! 一緒にあそぼー」


 そんなことをしていると、子供が埜夢の方にやってきて笑顔を向けた。

 埜夢は慌てて埋めかけた足を地面から抜く。


「あ、い、いいよ。なにして、あそぶ?」

「おままごと! こっちこっちー」


 埜夢はちらりと、梓の方を見た。

 梓は微笑んだ後「行ってらっしゃい」と埜夢の背中を押した。


(梓さんも一緒についてくれるんじゃないんですか〜っ!?)


 そんな埜夢の心の叫びも叶わず、子供に手を引かれながら梓に見送られてしまうのだった。

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