青い繭のなかで

ポテトマト

作られた花の名前

そういえば、青い薔薇ばらを実際に見た事はなかった。

今まで、その存在を知らなかった訳ではない。むしろ、僕にしては珍しく、ちゃんと花言葉まで思い出せる。


不可能、あり得ない事……。


〈存在しないもの〉を象徴した花だと知ったのは、確か、テレビのニュースだった。当時の僕は、花というものに全く興味を持てなかった。花言葉という概念を、そこで初めて知った気もするのだ。画面に映った花を見て、何とも思わなかった事を、よく覚えている。


「本当に、これは凄い事なのよ?」


まだ、お互いに中学生だった頃。妻は、何度もそう訴えてきた。僕とは真逆で、花が大好きだったのだ。そして、何よりも科学の力を信じていたのである。人類は、無限の可能性を持っていて、いずれはあらゆるものを解明できると、本気で思っていた。


「今まで、誰にも作れなかったんだから」


そんな彼女にとっても、衝撃的な事だったのであろう。しばらくの間、薔薇の話しかしなくなった。


「薔薇にはね、青い色素なんか無くて……」


我が事のように、誇らしそうに。熱心に語っていたものだ。僕はというと、ただ、その様子を漠然と眺めていた。


僕らの関係は、少し奇妙であった。


妻が、喋りたいだけ喋って、僕はそれを聞いているだけ。所謂、相互的なコミュニケーションが、酷く欠けていたのである。僕から何かを話し出す事なんか無かったし、妻が遠慮して、話を止める事もなかった。


それくらいが、僕には丁度よかったのだ。


気力とか覇気と呼べるものが、全くなかったからだろう。当時の僕は、まともな会話なんて、誰とも取りたくなかった。互いの機嫌を取り合うような言葉のやりとりが、どうしても嫌だったのである。相手に少しの気を使ったり、敢えて自分を演じたり。そこまでして、他人と付き合おうとは思えなかった。


だからこそ。妻とは、よく気が合った。


というより、他に親しい人間が、互いに存在しなかったのだ。腐れ縁が、ずっと続いたのである。幼い頃からの付き合いが、中学・高校と続き、そして……。


——先生?


それは、さておき。青い薔薇なんて、やはり見た事がない。テレビや図鑑の中であれば、幾らでも目にした事はあるが。それらは結局、ただの画像だ。本物とは、まるで違うのだろう。


——ねえ、先生。


例えば、その匂い。甘くて、神秘的な感じがするらしいのだが、本当の所は分からない。昔、どこかで読んだだけで、実際に嗅いだ事は一度もない。


——大丈夫、なのですか?


そもそも。薔薇の香りが、文章から漂う訳がないのだ。せいぜい、インクの臭いがするくらいだろう。いくら想像力を働かせたって、本当の匂いが分かる筈はない。


——花言葉が、全然違います。


なのに、何故。これこそが青い薔薇の香りなのだと、知っているのだろうか。


——奇跡、ですよ。


鼻に満ちた芳香は、華やかで、しかも甘美なアルコールのように熱い。まるで、蕩けてしまったかのようだ。鮮やかな匂いが、静かな炎のように、胸の内に広がってゆく。


——青い薔薇は、「奇跡」です。


だから、だろうか。さっきから、身体が火照って仕方がない。脈が波打ち、息遣いは酷く乱れて……。どうしようもなくなった自分の意識を、やっとの思いで繋ぎ止めている。


——聞こえて、いますか?


声は、聞こえているが、状況が全く飲み込めない。机に座っている彼女は、中学生で、しかも、ここは学校である。意識が醒める前に何をしていたのか、今は何が起こっているのか、まるで分からない。


——花言葉が、違うんです。


何故、この僕が教壇に立ち、この子の先生を務めているのだろうか。教員免許なんて持っていないし、教師になろうと思った事すらないのに。何をすべきかを、知っている。


——書き直しましょう?


というより、動いてしまうのだ。生徒たちの期待通りに、黒板の方へと。勝手に、身体が向かってゆくのが分かる。酔っ払いに操られた人形のような、覚束ない足取りで。今、自分が歩いている。


——ねえ、先生。


震えは、止まる気配がしない。釘を刺すような声に、舐め回すような、その視線。彼女の顔には、愉悦の色が浮かんでいる。およそ、中学生とは思えない艶やかさである。青く塗られた唇の端が、ふるふると、悦びに打ち震えているのが見て取れる。


——早く、してくださいよ。


熱の込もったその瞳に、紅潮した白い肌。教室を見渡しても、彼女は特に異質である。他の生徒は皆、呆然と空を仰いでいるのに。眼鏡をかけた彼女だけは、じいっと、僕を見つめているのだ。


——ほら、そこのチョーク。


手が、視線の先へと動いてゆく。白いチョークを、掴ませる為なのだろうか。見えない力のようなものに、ぐいと引っ張られている。


——取って、くださいね?


逆らう事は、出来ない。吸い込まれるように、魅入られたかのように。ゆっくりと、黒板の元へと向かってゆくのだ。


——運命、なのですから。


板書にえがかれた、青い薔薇。そこに添えられた文章を、見つめている。意味は、全く分からない。これを言語と呼んで良いのかどうかも、分からない。


——分かって、いますか?


法則性が無さそうな線の群れに、意味を感じられない白い点だらけ。体系だった繋がりは、どこにも見当たらない。


——あなたが、始めた事です。


それなのに。間違いなく、自分が書いたものだという実感があるのだ。どうして、覚えているのだろうか。書いている時に感じた事なんて、簡単には思い出せない筈なのに。


——取れる筈です。


初めはただ、高揚感に支配されていた。指先にほとばしった、強い錯覚。駆け巡る情熱に身を任せて、ひたすらに青い薔薇を描いていた。


——先生?


どうして始めたのか、自分でも分からない。しかし、とにかく気持ちが良かった。何もなかった黒板を、塗り潰した時の快楽。書いた下絵の中身が、青色に染まった事を確認する瞬間が、堪らなく嬉しかった。


——ねえ、先生。


しかし。ある時、ふと気づいたのだ。こんな事を続けて、一体何になるのだろうか。この黒板を薔薇の絵で埋め尽した所で、結局、そこには何の意味があるのだろうか、と。思った途端に、まずは手が止まった。


——忘れて、いませんか?


そして、彼女がささやいた。叱るように、縋るように。頭の中に、直接語りかけてきたのである。


——逃げられないです。


それは、絵本に出てくる妖精のようであった。無邪気そうな声色に、超然とした佇まい。この世のものとは、到底思えない。


——私たち、ずっと……。


学帽に隠された顔立ちは、冷ややかで、神秘的な雰囲気すら感じられた。淫靡なその表情とは、まるで正反対だったのだ。


——ずうっと、繭の中なのです。


黒ずくめの制服に、はだけたワイシャツ。結ばれていた青いリボンは、ほどけて、彼女の乳房が露わになった。


——あなただけですよ?


その白い肌に、膨らみかけた胸の豊かさ。こっ、こっ、こっと音を立てながら、背後に迫ってきているのが、よく分かる。


——目を、覚ましてください。


上履きの硬い足音に、ねっとりした息遣い。振り向きたくても、振り向けないのだ。手が、自ら動いて、もう黒板から離れない。


——あなたが、やるべき事は?


自分の筆跡だと分かる、まるで理解ができない文章。チョークを握った勢いは、未だに衰えず、ただただ文字を書き続けている。


——果たすべきだった、使命は?


その様子を、僕は見守る事しか出来ない。いくつもの、虚ろな視線。生徒たちの、声にもならない呻きを背中に感じながら、ただ。


——忘れて、しまいましたか?


受け入れるしか、なかったのだ。眼前に描かれた、偽物の楽園。自分の、本当の姿を。


——あなたは、人形です。


青い、糸が見える。手首に刺さって、天に向かって伸びている、明るい色の操り糸。身体に、気持ちが引き摺られている。


——可愛くて、可愛い……。


まるで、不透明だ。指先に広がった澱みに、脳裏に浮かんだ空の、鮮やかさ。何もかもが、分からない。


——私の、お人形さんなのです。


頬が、熱くて目眩がしてくる。くらと歪んだ視界の中で、ふらふらと。呑気に、文字が踊っている。


——だから、続けてください?


囁き。文脈が、乱れているのである。積み重ねた結果が、書いた端から。知らない姿に変貌してゆくのを、思い出している。


——諦めないで、くださいね。


冷たい、首の筋のように。熱意が、流れゆく文の字体に紛れている。書いた文字に、魂を込めてしまった。


——折角、蘇ったのですから。


だから、どうしようもないのだ。力の抜けた握り拳に、失せた感情を表現する無意識。止まる事なく、筆は進んでゆく。


——ねえ、あなた?


手の先から滲み出た、薔薇の色。青ざめた肌の血の気が、薄らいでいる。どれも、絵空事だった。ぶっきらぼうな線に、崩れた現実。


——覚えて、いませんか?


理想的な空白は、消え去って、代わりに骨のない構図ばかりが燃える。思えば、それが僕らの必然であった。


——初めて、薔薇を見た日の事。


熱さが、まるで分からない。紡いだ物語に、意味を感じられない。散りゆく自分の筆跡は、灰色で、何の感情も読み取れない。


——青くて、凛として……。


それでも、声が聞こえる。奥底に押し込めていた、妻の声。


——とっても、素敵な匂いだったの。


亡くした筈の妻が、今、生きているのだ。僕の背中に、ぺっとりと。


——「……冗談、ですよ」って。


抱きついて、離れずに。ずっと、惚気た言葉を吐いている。心が、苦しくて仕方がない。


——あの時は、そう言ったけれど。


身体に、温度を感じない。あの頃のような、わだかまりが全くない。


——私、本当は感じていたの。


彼女が、滑らかに。皮膚へと沈み、血液の底に流れている。境目は、もう無い。


——だから、仕方がなかったのよ。


霞が掛かった、東京の街並み。僕らが飲み込んでしまった、秩序を描いている。何度でも、皆と壊す為だけに。


——ねえ、■■。


サラサラとした、妻の笑み。最後に残った顔の、色が崩れてゆく。知らない大勢の声、蝶の羽音と混ざって、寂しくて……。


——また、ずっと。


あの日、手を差し伸べられたのならば。身体を、この怪獣に捧げた妻の気持ちが、少しでも分かっていたのであれば。こんな形で、幸せにならずに済んだのであろうか。


——ずうっと、踊っていましょう?


虚ろな声だけが、胸に響いている。

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