第7話
「は あ゛あ゛あ゛…… き゛ょうも疲れたァ゛ァ゛」
まるでゾンビのように身体を左右にふらつかせながら、私は一段、また一段と踏みしめるようにアパートの階段を上っていく。灯りが一室もともっていない
――あの後、正式に新プロジェクトのメンバーに抜擢されてからというものの、私の日常はすっかり一変した。
帰宅は終電が当たり前。
深夜の寝静まったアパート内を一人、他の住人を起こさないようにそっと階段を上がり、まだ人気のないほの暗い廊下を誰よりも朝早くこっそりと出ていく日々。
毎日のささやかな楽しみだった、帰りがけの電車内で聴くワタリの定期配信も、リアタイできずに後からアーカイブで追っかけ視聴するのが当たり前となってしまった。
「遠い……遠いよ、ワタリ……」
ガタンゴトンと揺られる朝の車内で、ぽつりと漏らした私の本音だけがこだまする。
昨晩のワタリの配信画面がついたスマホを握りしめたまま、私は腕を両脇へ放り出すと、ため息のように白く曇った窓ガラスを訳もなくぼーっと見つめる。
というのも、以前と同じように画面越しにワタリの愛らしい笑顔や声を聞いていても、何かがどうにも違うのだ。
(なんていうか、壁?みたいなものがある感じ…。向こう側へ渡りたくても渡れない、大きな大きな壁が……)
こういう時にたまに実感する。いま自分が生きている現実は三次元で、
(……なんか)
「ちょっと寂しい…かも、」
しかも、私の心に追い打ちをかけているのはそれだけではない。――なにより、あれ以来ぱったりとお隣の海堂さんを見かけなくなったのだ。
それもそのはず。これまでだったら、ちょうど私が帰宅するくらいの時間帯に、ダル着にヘッドホン姿、いつ見てもキャンディーを口にくわえた彼女が夜食を求めてコンビニから戻ってくることが多かったのだ。
初めこそ、その整いすぎた顔立ちとジャラジャラついたピアス、ヘッドホンから音漏れするほど流れた大音量の音楽にどこか近寄りがたい雰囲気を感じたものの、話してみると彼女は思ったよりも礼儀正しく、年齢のわりに落ち着いていて、きちんと毎回挨拶を返してくれる。
おそらく、ちゃんとした親御さんにでも育てられたのだろう。
(……お隣さん、今頃なにしてるんだろう?まだベッドの中だったりして)
普段は大人びていても意外と寝起きとか悪そう♪、なんて頭の中で妄想を膨らませては一人ニマニマしていると、どうやら眠気が伝染してきたらしい。
私は車内の揺れに身をゆだねるように意識をそっと手放した。
* * *
――カタカタ、ダダダッ。カタカタカタ。
「「………」」
その日、私は心配そうにこちらをチラチラ気にする周囲の同僚をも寄せ付けないくらいの気迫でPCとにらめっこをし、目の前にある仕事を次から次へと片していった。
(うん、なんだかちょっとスッキリしたかも…!)
どうやら朝電車のなかで寝たのがかえって良かったらしい。
ここ最近塞ぎ込みがちだった気持ちも、家と会社だけの往復の日々で積み重なった孤独感も、まるで頭が冴えるようにすーっと溶けていくようだった。
そして、
(今日は絶対に定時で終わらせる!それでそれで、今日こそぜっったいにワタリの定期配信をリアタイするんだからッ!!)
密かにそう心に誓いながら、会社のキーボードを高速で叩いていく。その時だった。
――トントン。
集中してゾーンに入っているところをふいに背後から肩を叩かれ、驚きつつもそーっと振り返ってみると、見慣れた顔が「よっ」と軽く片手を上げながら立っていた。
「鈴本、今ちょっといいか?」
波島さんだ。
「は、はい! なにか…?」
ミスでもしてしまっただろうか…?いや、もしくは心の声が漏れてしまっていたのだろうか…?などとビクビクしていると、
「実は今夜、プロジェクトのみんなで飲みに行こうってことになってさ。鈴本ももちろん来るだろ?」
「え…。今夜ですか?」
波島さんの誘いに、私は分かりやすく顔を曇らせる。
(飲み会か…。そもそもお酒自体あんまり得意じゃないし、なにより――)
ふいに、過去のイヤな出来事が脳裏をかすめる。
もう過ぎたことだと分かってはいても、飲み会というあの独特な空気感、お面のように上っ面だけニコニコさせて下心や本音を隠した人々の表情、ひそひそと水面下で繰り広げられていく会話がやけに生々しく記憶に迫る。
(…申し訳ないけど、やっぱり適当に理由をつけて断ろう)
だが、こちらが「あの…」と言うよりも先に、波島さんが続ける。
「まぁ飲み会つっても、接待とかじゃなくてあくまで親睦会みたいなもんだから。今回、新しくメンバーに選ばれたやつもいるし、顔合わせ?的な。だからあんま構えず、気楽に、な?」
「は、はあ……」
たしかに、初めてプロジェクトメンバーが一堂に会する機会。最初っから欠席というのは、さすがに良いイメージを持たれないだろう。
ましてや、そのほとんどが自分よりもベテランや優秀な先輩ばかり。ここで変に断って、今後の業務やチームワークに差し障っても困る。
「…わ、わかりました。喜んで、ご一緒させていただきます」
頬が引きつっているのを自分でも感じつつ、精一杯の作り笑いでそう答えると、波島さんは「そうか!」と、表情をパアっと輝かせる。
「じゃ、駅前の○○っていう店に20時集合だから! お互いちょっぱやで仕事終わらせて、一緒に店まで向かおうぜ」
「は、はい…!」
ゴキゲンに戻っていく波島さんの背中に手を振って完全に見えなくなるまで見送ると、私はくるりと椅子の向きをデスクの方へ直し、そのまま机に突っ伏した。
「はあ………」
(――今日もまた、ワタリに会えない。)
バーチャルの海を渉って、キスしにきて。 雨下 @unknown_user
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