第3話
「はあ~、今日もめっちゃ疲れた……。やっぱり残業してると、こんくらいの時間になっちゃうな……」
退社すると、私は左手の腕時計に目を落としながら一人、ぼやく。
時刻はちょうど、22:50を回ったあたりだった。日中は活気で溢れてるオフィス街も、さすがにこの時間となれば人通りもめっきり減って、ビルの照明もまばらになっている。
(ワタリの配信開始まで、まだちょっと時間があるな……。まあ、いいや。駅まで歩きがてら、ワタリの歌でも聞いて待ってよっと)
早速、取り出したイヤホンを耳に挿すと、私はポチ、ポチっと再生ボタンを押して、誰もいなくなって静まり返った街を一人ルンルン気分で歩いていく。
――たまたま、私がワタリを知ったきっかけは普段の配信だったが、Vtuberっていうのは昨今、歌ってみたにも力を入れている傾向にある。
当然、ワタリも何曲か投稿しているのだが、初めてその歌声を聴いた時は、ぐわっと心臓を鷲づかみされたような衝撃を受けた。
というのも、普段の明るくて元気いっぱいで、ちょっとふにゃふにゃした愛嬌のある、まさしくワンちゃんって感じのしゃべり方とは打って変わって、ワタリの歌声は低音が利いていて力強く、それでいて女性っぽい柔らかさというか、艶めかしさを併せもっていて、聴いてる人の度肝を抜くものだったからだ。
配信の時はあざと可愛くて、歌っている時はカッコいいとか、私の推しはどこまでヲタクを喜ばせる天才なのか。控えめに言って、最高。両声類、バンザイ!って感じである。
なんてことを思いながら、ワタリの歌声を高音質イヤホンで堪能していた私だったが、そこでふと、あることに気づく。
(……あれ? この、ちょっとハスキーで掠れている感じの声、どこかで聞いたことがあるような……?)
おかしい。ワタリのこの曲は、もう耳に焼きつくくらい何べんも聴いてるはずなのに、そんなことを感じたのは初めてだった。
うーん、どこだっけ…。わりと最近だった気がするような、しないような…?
いつの間にか、足を止めてすっかり考え込んでいた私だが、やがてハッと我に返ると、途中かけになった思考を脇へ放り投げる。
『ハッ! そんなことより、もう時間じゃん!』
時刻は、23:00数分前。
私はあせあせとスマホを操作して、待機所と呼ばれるライブ予約画面へ向かうと、そこにはすでに、同じくワタリの配信開始を今か今かと待ちわびている大勢のリスナーが、チャットを打って盛り上がっていた。
【きちゃーーっ!】
【wktk】
【ずっとこの日を待ってた!】
(今日は久々の復帰配信だもん。絶対に、最初からリアタイしなきゃだよね…!)
こうして待機していれば、推しの配信を一分一秒たりとも見逃さずに済むというわけである。
待ってる間、その膨大な数のチャットを眺めながら、心の中でこっそり他のファンに共感していた私だが、やがて軽快な音楽とともに、静止画だった画面が動き出す。
(きた……!)
ワタリを含め多くのVtuberが、いきなり配信を始めるのではなく、オープニングといわれる既存の映像を冒頭の数分間に流すというスタイルをとっている。
これをじれったいと言う人も多いが、私はこの、配信に向けて「来るぞ、来るぞ…!」と、じわじわと期待感を高められていく感じが意外と嫌いじゃない。
そして、ふいに流れていたOP映像がプツン、と途切れ、配信内にわずかな静寂が訪れると――。
『ばあっ!』
と、満面の笑みのワタリが画面下からいきなりフレームインする。しかも、顔の真横に、その小さなあんよをめいっぱい大きく咲かせて。
「う゛っっっっ!」
そのあまりの可愛さに、全く心の準備ができていなかった私は突如、道端で胸を押さえてうずくまる。こんな不意打ちはズルい。ほんとヲタクの心臓によくない。
コメント欄にも私と同じく、心因キュン死性の病人が何人か出ていたが、それらに構わず、久しぶりの配信でいつもよりもテンション高めのワタリが、お馴染みの挨拶をする。
『こんばんわーたりっ! みんな、久しぶりーーっ! 元気だった?』
「あ゛あ゛ぁ! か わ゛い゛い゛よ゛ぉ゛……!」
なんで、高評価って一回しか押せないんだろう。
ここが外だということも忘れ、私はむせび泣きながら、自分のスマホ画面を人差し指でドスドスどついて、高評価ボタンを連打する。今にも破壊してしまいそうな勢いで。
すると、【おかえりー!】で溢れかえっていたコメント欄も、次第に【引っ越し、どうだった?】【新しい環境はもう慣れた?】と、休止中の近況を尋ねるコメントが目立つようになっていった。
『うん! 引っ越し作業は大変だったけど、なんとか無事に終わったよ~』
すぐさま、【分かる。引っ越しって色々めんどいよね】【引っ越し作業、ちゃんとやれて偉い】【お疲れさま~~】という労いの言葉で埋まるコメント欄。
『えへへ、ありがと。でも、ボク、リアルだとめっちゃ人見知りだから、お隣さんに挨拶する時とか超緊張しちゃったよ~。ピンポン押す前なんて、一人で何度も台詞確認してたもん!笑』
「くっ……」
それを聞いた私は、今度は吐血しそうな勢いで下唇を嚙みしめる。さっきから、まさにひとり百面相ってやつだ。
(マジかよ、ワタリのお隣さんとか羨ましすぎるんだが。一体、前世でどんな徳を積んだら、ワタリに直接挨拶してもらえるんだよ)
緊張でモジモジしながらも少しはにかんで、懸命に用意してきた挨拶を頭の中でなぞるワタリの姿を想像するだけで、まだ見ぬお隣さんに対する嫉妬でどうにかなりそうだった。
しかし、そんな醜い感情も、ワタリがこう言って、安堵しきっている表情を見たら、どこかへ吹っ飛んだ。
『でも、お隣さんすごく感じが良さそうな人で安心したー! なんかね、包容力のある年上の美人お姉さんって感じ! ここでなら、なんとかやっていけそうかも!』
(…そっか。良かったね、ワタリ)
その後も、休止中に起こったあれこれについて、雑談話に花を咲かせていたワタリだが、ちらっと時間を気にすると
『じゃあ、まだダンボールの片付けとかあるから、今日はこの辺で早めに終わるね~。みんな、今日も聞きに来てくれてありがと! また明日~!』
と言って、笑顔で配信を締めくくった。
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