第四話 回想と噛み痕②

 ◆

 フェリシアに連れ出されてから数時間後、イスカの手には紙袋いっぱいの洋服や、雑貨、劇場のパンフレットなどが握られていた。

 フェリシアの言われるがままに、買い物に行ったり、屋台でお菓子を食べたり、舞台を見に行ったり、とにかく遊びという遊びを沢山した。


「はー、こんなに遊んだのって子供の時以来かしら!」

「子供の時よりもいっぱい回ったと思うよ……。もう、フェリシアったら気にいったらどんどん物を買っちゃうんだから」


 日も傾いて来た頃、さすがに歩き疲れたイスカとフェリシアは広場の噴水で、近くの露店で購入したジュースを飲みながら一息入れた。


「でも楽しかったでしょ?」

「う、うん……まあね。でも良かったの? 一日中私に付き合ってくれたけど。婚約者さん怒ってない?」

「ないない! あの人こういう事には放任だから、さすがに朝帰りとかしたら怒られると思うけど、これくらいならどうってことないわ」

「朝帰りは私でも怒るから止めてあげて……」


 フェリシアは奔放な所があるから結婚する相手は大変だな、と思いつつ彼女の様に明るい女性に愛される人は幸せだなとも思った。


(いいな、フェリシアは大切なものも出来て、幸せそうで)


 そんな風に考えてしまう自分が浅ましかった。自分にだって大切なものはある。でも今は皆イスカの元からは離れてしまっているから、こんな風に卑屈になってしまうのだろうか。


「それで、イスカ。何をそんなに悩んでるの? 塾がお休みになった事だけじゃないでしょ、そんなに元気が無いのって」

「う……、まあそうなんだけど」


 イスカは口ごもる。ここ数日に起こった処々の出来事は、幸せなフェリシアにはあまり言いだせないことばかりだった。特にローレンスとのことは。とはいえ彼女は事の発端を目撃しているわけだから、薄々気づいているかもしれないが。

 かといって恐ろしい殺人犯に襲われた事なんか話したってかえって心配させるだけだ。仕方なく、イスカはジンロがいなくなったという事だけを伝えた。


「えっ、ジンロいなくなっちゃったの!?」

「うん、元々よくふらふら出歩く子だったから大丈夫だと思うんだけど。やっぱり心配で……」

「それ早く言いなさいよ!」


 フェリシアは予想以上に切迫した様子で立ち上がった。イスカはびっくりして慌てて彼女を引きとめる。


「ま、待って大丈夫だよ、私は―――」

「大丈夫じゃない! ジンロはあんたの大切な相棒でしょ! 待ってて、騎士団は無理でも町内の自治会に掛け合ったら手を貸してくれるかも」

「えっ、ちょっと、今から頼みに行くの!?」


 フェリシアの行動は実に俊敏だった。荷物を抱えるとフェリシアはあっという間に駆けだしていく。一拍遅れたイスカは急いで彼女の姿を追うも、人ごみに紛れてフェリシアの姿が見えなくなってしまった。


(フェリシア、速すぎる……!)


 フェリシアは幼い頃から行動派で、運動神経も抜群だ。足の速さなら並みの男子にも負けはしなかった。大人になった今でもそれは変わっていないようだ。

 だが今はそんな事を考えている場合ではない。置いて行かれそうになったイスカは慌てて彼女を呼びとめようとした。息を吸い込み、彼女の名を叫ぶ。


「待って! フェリシ――――!!?」


 イスカは最後まで発する事が出来なかった。というのも、突然後ろから何者かに口を塞がれたからだ。

 思わぬ事態にイスカはパニックになる。頭に浮かんだのは先日出会った鱗の男の事。


 ―――まさか。


 イスカはゾクリとした。もしあいつなら早く逃げなければ―――。

 半ば錯乱状態でイスカは自分を拘束している手を振り払おうとする。すると、


「待て、危害を加えるわけじゃねぇから。放すから絶対に叫ぶなよ」


 耳元で男の声がした。聞き慣れない、だが、どこかで聞いた事のある低い声。

 イスカが暴れるのを止めると、男の手がイスカの口から離れた。

 イスカは持っていた紙袋を盾に、男に向き直る。そして、男の顔を間近で見た。


 目に飛び込んだのは、美しい金色の髪に群青色の瞳。年はイスカより十歳くらい上だろうか、あまりその世代の男性と面識が無いイスカでも、この男は均整のとれた美青年だと思った。

 男は不機嫌そうにイスカを見下ろしている。整った顔立ちに似合わず、随分俗っぽい顔をするんだな、などと冷静に分析していると、


「人通りの多い所ででかい声出すなってばあさんに言われてただろうが」

「え、おばあちゃん……?うん、そういえば、言われてた、かも……?」


 突然祖母が出てきてイスカは面食らった。

 どうして祖母の事を?

 しばらく固まったままのイスカに、男はやれやれとため息をついた。


「お前な……こないだあんな事があったんだから、ちょっとは危機感持てよ……、相変わらずぼーっとしてるというか抜けてるというか」

「なっ! あなたに何がわか―――むぐっ」

「だからでけえ声出すなって言ってんだろーが!」


 また男に口を塞がれた。イスカはムキになってじたばたと暴れても、男は聞く耳を持たない。


(なんなのこいつ……! 偉そうに、一体私の何を知って……)


 そこでイスカはふと思い至った。この男は先日イスカが鱗の男に襲われた事を知っていた。それにこの体格に金色の髪、もしかしなくてもそうかもしれない。


「ひょっとして、この間助けてくれたのって、あなた……?」

「なんだ、覚えてたのか。忘れちまってたのかと思ったぜ」


 男は意地悪く笑った。イスカは怒りたくなると同時に驚きで言葉が出なくなる。


(という事は、この人が子供たちの言ってた人……。あれ、でも―――)


 イスカは思わず男の背後に回り込んでみる。子供たちの言っていた、虹色の翼など当然そこには無く、男の筋肉質な背中がそこにあるだけだった。


「……なんだよ?」

「えっ、ううん別に」


 怪訝そうな目で睨まれてイスカは慌てて取り繕った。目の前にいる男はどう見ても普通の人間にしか見えない。子供たちの話ではこの人がイスカの身体も治してくれたというが、そんな事が出来る様にも見えなかった。


 とにかく御礼だけは言わなければ。イスカはわざとらしく背筋を伸ばすとぎこちなく頭を下げた。


「先日は助けて下さってありがとうございます。あなたは命の恩人です、感謝してもしたりません」

「……今更そんな丁寧に礼言われても痒いだけなんだが」

「……確かにお礼を言うのが遅くなりましたけど、それはあなたがどこのだれか知らなかったからで―――」

「いや、そういう事じゃなくてな」


 じゃあ何なの、と礼儀の仮面を取り払いたくなったイスカの頬に男の手が触れた。イスカは一瞬びくりとしたが、不思議と抵抗が無い。見ず知らずの、今日がほぼ初めての対面である男なのに、だ。

 男は愛おしそうにイスカの頬を撫でた。イスカもなんだかされるがままになってしまう。

 イスカは男の目を見た。深い蒼の目が寂しげにこちらを見つめている。先ほどまでの意地悪そうな表情とは違う、憂いを帯びたどこか切なげな表情。夕日を背に輝くその姿に、何故だかイスカは既視感を覚えた。


「……ごめん」


 イスカの頬を撫でながら、男がぽつりと謝罪の言葉を呟いた。


「ごめんって、何が……?」

「色々」

「色々って……」


 言葉が曖昧すぎて理解が出来ない。けれどどうしてか、イスカの心臓が痛んだ。彼が何に心憂いているのか知りたい、何を悔いているのか知りたい。イスカはそう思いながら、そっと男の手に触れた。


 その時後方からイスカを呼ぶ声がして、イスカは我に返った。慌てて男の手を振り払い距離を取ると、ちょうどそこに息を切らして走ってきたフェリシアが帰ってきた。


「町内会の会長さんにジンロの事頼んどいたからね、あんまり人手は出せないけど探しておくって!」

「そ、そう。ありがとう」

「なによ、随分反応薄いわね……って、その方、どなた?」


 フェリシアはイスカの肩越しを覗きこんだ。そこには変わらず金髪の男が不機嫌そうな顔で立っている。イスカはどう説明して良いかわからず、冷や汗をかきながら言葉を探していると、フェリシアの方が勝手ににやりと口角をあげた。


「ははーん、さてはイスカ……」

「え、なに!? この人はえっと、そう!ちょっとした恩人で―――」

「わかってる、わかってる。そんな焦らなくていいって。いいじゃない、失恋を乗り越えるためには勢いって大事なのよ」


 明らかに何かいらぬ誤解をしている、イスカは弁明しようにもやはり言葉が出てこなかった。

 フェリシアはくるりとステップを踏んで男の前に立つと、花嫁修業で培ったと思われる淑女らしい作法で恭しくスカートの裾を持ち上げた。


「初めまして、イスカの友人のフェリシア=ラングレッタと申します。イスカは少しドジな所もありますけど、とっても可愛くていい子ですからね」

「ちょ、ちょっとフェリシア!」


 これ以上余計な事を言わせまいとフェリシアに掴みかかる。しかしそんな必要はなく、フェリシアを黙らせたのは男の方だった。


「あー、心配しなくてもイスカがドジで抜けててずぼらなのは重々承知してるから。あと、お前も結婚するならもうちょっとそのお転婆ぶり直さねぇと旦那に愛想尽かされるぞ。昔っから強引で周りの奴ら振りまわしてたけど、ちっとも変ってねぇじゃねぇか」


 三人の空気が固まった。正確にはイスカとフェリシアの空気が、だ。男は相変わらず飄々とした態度で二人を見下ろしている。

 一拍遅れて目の前のフェリシアの肩がぷるぷると震えだした。


「ちょっとイスカ! なんなのこいつ!? 初対面なのに失礼すぎない!? て言うかなんで私の事知ってんのよ!?」

「お、落ち着いてフェリシア! 周りの人見てるから! あと私にもよくわかんないの!」


 先刻までの淑女の姿はどこへやら、ぎゃんぎゃんと喚き散らすフェリシアをイスカは必死に宥めるのだった。


 ◆

 結局フェリシアの怒りは日が暮れるまで収まらず、イスカはフェリシアを家まで送り届けた頃には外は真っ暗になっていた。

 久しぶりの外出は随分ハードなもので、イスカもぐったりとしながら家路につく。


「……で、なんでついてくるの?」


 イスカは忌々しげに後ろを振り返った。そこには何食わぬ顔でついてくる男の姿がある。


「別に、なんとなく」

「だったらついてこないでよ。ストーカーだって騎士団に突き出すわよ」

「嫌なら消えるけど、お前本当にここから一人で帰る気か?」


 男は呆れたように言った。ふとイスカは周りを見渡す。

 通りは真っ暗で人っ子一人いない。いつもなら夜遊びに興じる大人たちが沢山いるはずの大通りは、しんと静まり返り最小限の灯りしか灯っていなかった。皆あの事件以来、夜に出歩くことを控えているらしい。

 イスカは思わず身を固くした。家まで大した距離ではない、でももしあの鱗の男が出てきたら、鉢合わせになったりしたら―――


「や、やっぱり送ってもらおうかな……」

「そうしろ、さっさと行くぞ」


 男はイスカを置いて歩き出した。イスカは慌てて男の後についていく。男はまっすぐにイスカの家の方角に歩いていた。


「ちょっと……、私の家の場所知ってるの?」

「知ってる」

「なんでよ?」

「……知ってるから」


 答えになっていない。イスカは不信感をたっぷり込めた視線を男に送ってやった。

 どうもこの男はおかしい。祖母の事も知っていたし、イスカやフェリシアの子供の頃も知っていた。まるで旧知の友のようにイスカに接してくる。イスカはこんな男記憶の片隅にもいないのに、だ。


「そういえばあなた名前は?」

「人に名前を聞くときはまず自分から名乗るもんじゃねぇのか?」

「……イスカ=トンプソン」

「ん、知ってる」

「知ってたら聞かないでよ!」


 いちいち癇に障る、なんなんだこの男は。まるでイスカの神経をわざと逆撫でしているようにしか思えない。

 平常心、平常心と心の中で唱える。誰もいないとはいえ、今は夜、御近所の迷惑にもなりかねない。


「で、あなたの名前は?」

「スクラ。スクラ=ウィンウッド」


 スクラはあっさりと答えてくれた。躊躇するのかと思いきや、むしろ素っ気ない。


「ふーん、どこのウィンウッドさんかしら」

「さてね」

「……」


 あまりに適当な返事にイスカは怒りを通り越して呆れてしまった。もうこれ以上この男に追及したって無意味だ。


 結局名前以上の事は知ることが出来なかったが、仕方なくこのまま家路に付き添ってもらう事にした。

 家に着くと玄関の扉の前に布で覆われた何かがちょこんと置かれているのが見えた。布を取り払ってみると、まだ温かいシチューの鍋とパンが出てきた。シャロンだ。

 最近シャロンはこうしてイスカに食事を届けてくれる。塞ぎこんでいるイスカを心配しての事だった。イスカは本当に申し訳がなかった。こうしていろんな人に支えられてるのに、自分はいつまでこうして燻っているんだろうか。


「お、うまそうじゃん。シャロンさん料理上手いよなぁ」

「シャロンさんの事まで知ってるの……」


 もう滅多な事では驚くまい、イスカは鍋とパンを片手に抱えて家の鍵を開ける。


「……よかったら食べていきます?」


 スクラにそう言ったのは興味本位だ。彼は確かに腹も立つし得体のしれない男だが、イスカの事をよく知っているという事は、もしかしたら祖母の知り合いなのかもしれない。少し話を聞いてみたいと思った。何より、これからまた一人で食事をすることを考えると侘しかった。誰でもいいから話し相手が欲しかったのだ。



 シチューを温めている間、スクラはダイニングにあったジンロ用の木の実を玩びながら、部屋の片隅にある暖炉の壁を眺めていた。そこには祖母が生前生徒たちに描かせた祖母の似顔絵が飾られている。スクラのその瞳はどこか懐かしんでいるような風だった。


「おばあちゃんと知り合いだったの?」


 するとスクラは不思議そうにこちらを向いた。イスカは温まったシチューとパンを食卓に運ぶと、二人分をよそって食べ始めた。スクラも少し考え込んだ後、シチューに手を付ける。


「ああそうだ。リンデ――あんたのばあさんとは古い知り合いだった」

「やっぱりそうなんだ。でもあなた随分若く見えるけど」


 祖母とはいつから知り合いだったのだろうか。少なくともイスカが記憶にある間に祖母とスクラが一緒にいるところを見たことはない。


「ばあさんと会ったのは二十年くらい前だ。当時俺が路頭に迷ってて生活苦しいときに色々世話になった」

「世話になったって、ひょっとしてここの私塾の生徒だったの?」

「いや、そういうわけじゃない。ただ、時々飯食わせてもらったりしてただけだ」


 スクラは懐かしそうに話をする。イスカと会った事が無いだけで、ひょっとしたらこの家に来ることもあったのかもしれない。だからこの家の事も知っていた。度々あって話をすることがあったなら、イスカや私塾の生徒の事を見聞きする事もあっただろう。

 スクラの言葉に嘘は見えない、そのためイスカの中のこの男に対する警戒心が少しだけ薄まった。祖母が長年懇意にしていたなら別段悪い人でもないかもしれない。


「でも残念だったわ。おばあちゃんは三年前に亡くなったの」

「ああ、そうだな」

「それも知ってたんだ。まあ、当然か」


 重苦しい空気の中、イスカは夕食を口に運ぶ。気づけばスクラもずっと手が止まったままだった。


「……ねぇ、よかったらおばあちゃんの話もっと聞かせて」


 何でもいい、イスカの知らない祖母の事を知りたい。少し明るい声で頼むと、スクラも肯いてくれた。今日のイスカはなんだか積極的だ。祖母の知り合いとはいえ初対面の男性と知り合い、家に誘うなんて。でも不思議と抵抗が無い。彼に会えた事が必然に思えて仕方が無いのだ。

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