第二話 鱗と翼の異邦人①
◆
どんな日でも陽は落ち、そしてまた朝がやってくる。山岳の鶏の一声で飛び起きたイスカは、変にすっきりしない頭と腫れぼったい目元に顔をしかめた。
(ああ、そっか。私そのまま泣き疲れて眠っちゃったのか)
いつもと同じ朝のはずなのに、身体はひどく重く気だるい。散々泣きはらした顔は鏡を見ずとも酷いのが歴然だった。
顔を洗って気を引き締めよう。今日もまた子供たちがやってくる。イスカに元気が無ければ、彼らだって不安になる。
身支度を整え、髪を簡単に梳いて部屋を出ようとする。と、ここである重要な事に気が付いた。
いつも部屋を出る前に開ける鳥籠の中にジンロがいない。そこはもぬけの殻になっていて、鳥が居座っていた形跡すらなかった。
「嘘……ジンロ……」
昨晩イスカはジンロを抱いたまま眠ってしまった。起きた時には側にいなかった。部屋を見まわしても、その姿は無い。
今までジンロが勝手にどこかに行く事はあったはずなのに、昨日の今日で弱り切っていたイスカの頭ではまともに思考出来ない。すぐさまイスカは狼狽し始めた。昨日イスカの涙を拭いてくれたあの姿を思い出す。あの後ジンロはどこかに行ってしまったのだろうか、イスカを置いてどこか遠くへ行ってしまったのでは――。
「……っ! ジンロ!」
居てもたっても居られず、イスカは家を飛び出した。ジンロの行く先などわからない、ただ走って走って、ジンロの行方を探すしかない。
けれど闇雲に走ったって見つかりはしなかった。繁華街の煉瓦の壁に手をついて、ぜえぜえと息を吐く。
(ジンロどうして? ジンロまで私の事嫌いになっちゃったの?)
自分が弱音を吐いたから? どうしようもない奴だと思われたから?
ジンロは鳥でもきっとわかっている。だから失望したのだ。飼い主があまりにも不甲斐ないから、彼はイスカをおいて出ていった。
昨日あれだけ流したはずの涙がまた溢れだしそうになった。ジンロがいなくなったら、本当に一人になってしまったら――、
「あれー、イスカせんせー。なんでこんなところにいるの?」
泣き崩れそうになったイスカに声をかけたのは、ミルスだった。兄のベンも一緒にいる。どうやら私塾に向かう途中のようだ。
「ベン、ミルス……。ああ、そういえばあなたたち家この辺りだったっけ……」
「そうだけど……。どうしたんだ先生。なんかすげー顔色わりぃぞ」
ベンが心配そうに覗きこんでくる。いつもなら空元気でも取り繕って心配させまいとするイスカだったが、今はそれすらも出来なかった。
「……ジンロ、いなくなっちゃったの」
「えっ、ジンロ⁉ なんでだよ逃げちゃったのかよ⁉」
「わかんない、今朝起きたらいなくって、どこを探しても……、どうしたらいいのかわかんないよ……!」
イスカの視界が涙で滲んだ。人目も構わずに蹲って泣いた。
自分は教師失格だ。子供の前でこんなに取り乱して、あまつさえ泣くなんて。
すると、イスカの頭の上に小さな手が乗せられた。顔を上げると、涙の幕の向こうににっこりと笑うミルスがいた。
「だいじょうぶだよ、せんせー。ひとりでさがせなかったらボクたちもさがすよ」
「ミルス……」
「そうだぜ先生、ジンロの事だからきっとどこかに餌でも捜しに行ってるんだよ」
そう言ってベンも笑った。普段は生意気でも明るく元気な少年たち、今以上に彼らの笑顔を頼もしく思った事は無かった。
「そうと決まれば作戦会議だ! 先生、ミルス、塾へ行こうぜ!」
「おー」
「え、塾へ行くって……、ちょ、ちょっと待って⁉」
我先にと駆けだすベンとミルスを追って、イスカは慌てて涙をぬぐいその後を追った。
数十分後、いつもならイスカが教壇に立って授業を始めている時間。何故かイスカは生徒側の机に座らされ、いつもイスカがいる場所にはベンとミルスが立っていた。
二人の後ろの黒板にはでかでかと、
『ジンロほかくだいさくせん!』
と書かれており、意気揚々と教壇に立った兄弟は、他の生徒たちに向かって語りかける。
「それでは諸君、これより作戦を遂行する!」
「すいこうするー」
ミルスが反芻すると、他の生徒たちも「おー」と高らかに手を上げた。
「ターゲットはこの私塾の門番にしてイスカ先生の相棒ジンロだ。皆、人相はしっかり記憶したな⁉」
「「「いえっさー‼」」」
ベンは黒板に貼られたジンロ(と思われる物)の落書きらしきものをバンと叩いた。それを合図に皆驚くほど真剣な顔つきで、ジンロの人相(もとい鳥相)を目に焼き付ける。
「では、これよりこの教室を『ジンロほかくたいさくほんぶ』とする! これより役割担当と配置の割り振りを発表する、耳をかっぽじってよく聞くように!」
「「「いえっさー‼」」」
(何だろう、このノリ……芝居か何か見たのかな……)
一人周りのテンションについていけないイスカは、ただ茫然と子供たちが捜索の配置を決めているのを黙って見ている事しか出来なかった。
「では、各人決められた配置について捜索を行ってくれ。それから路地裏へはむやみやたらに入らない事、山岳に入る場合は近くの大人に同行してもらう事。いいな⁉」
「「「いえっさー、ボス!」」」
「先生は俺たちとここで待機、いいよね?」
「えっ、あ、はい!」
輪に入る事をすっかり放棄し、意識を飛ばしていたイスカは慌てて返事を返した。
「それでは作戦を開始する! 解散!」
皆一斉に立ち上がり、そして捜索部隊は外へと飛び出していった。本来なら止めるべきなのだろうが、
(なんかもう、いいや。どうにでもなれ……)
最初の狼狽はどこへやら、イスカは放心状態で元気にはしゃぎまわる子供たちを見守っていた。
◆
一方、昨日重要任務を受けたローレンスの心中は大変穏やかではなかった。騎士の振る舞いもすら忘れかけ、苛立ちを隠そうともせずにガニ股で歩を進めているため、後ろについている兵たちは気が気でない。
「ほら吹きやがって、あの爺……!」
未来の父親になる上司に対して悪態をついたローレンスは、怒りの収まらぬまま繁華街の一角を練り歩いていた。
昨日、ハイネルから受けた命はこの国で数ヶ月前から起こっている謎の変死体事件についてだった。
五か月前の年始の頃の事だ。とある地方の町で一人の娼婦が全身に鱗を生やしたような姿で亡くなるという事件が発生した。その二ヶ月後にも一組の夫婦が、その直後にも若い鍛冶職人の男性が相次いで同等の症状で死体となって発見された。
あまりにも悲惨な死に様から、王国政府をはじめ各地方の領主でさえその事件について大々的に公表したがらなかったが、シルキニスの国民達の間では少しずつ噂が広まっており、この鱗の怪死体事件は密かに語られるタブーとなっていた。
被害数こそ少ないが、その範囲は広く今や王国全土を網羅していると言っても過言ではない、それほどの脅威だ。この町ではまだ発生してはいないが、それも時間の問題だろう。
疫病か、それとも何者かの仕業なのか。この事件の何より恐ろしい点は、その原因及び犯人が未だにはっきりとしていないという事だ。
ローレンスの苛立ちの原因はまさにそこだった。ハイネルはこの事件の原因を突き止める事が出来れば、騎士団長に推薦すると言ってきた。つまり、ローレンスが騎士団長になるには、全国に広がっている謎の怪死、王国の騎士たちを総動員しても未だに掴めないこの事件を解決しなければならないのだ。
一騎士のローレンスには荷が重い。はなからローレンスを推薦するつもりなどないのか、未来の息子に対して無理難題を突き付けて楽しんでいるのか。いずれにしても不愉快極まりない。
(だがこれを成し遂げればそれこそ国家レベルの功績だ。一気に上層部へのし上がれる……!)
そうだ、そう思えば別段悪い事でもない。ローレンスが無理やり自身に言い聞かせている一方で、後方から気の抜けた兵たちが会話を続けている。
「でも鱗まみれの死体って、あれ思い出すよな。なんだっけ……
「ああ、あのおとぎ話な。触れる物全てを鱗に変えるっていう恐ろしい王様。俺も小さい頃お袋に読んでもらって眠れなくなった覚えがある」
「俺も俺も。ほんとに蜥蜴の王の仕業だったりしてな」
「はは、そりゃ恐ろしい」
馬鹿馬鹿しい、とローレンスは舌打ちした。そんな空想で片付けられるなら我々がこうして地道な捜索を続けているわけは無いのだ。
露骨に不機嫌な顔で後方の兵を睨みつけると、彼らは悪魔に目をつけられたかの如く真っ青になって固まった。
「お前たちは下町の出身だったな、何か事件に関する噂話などは無いのか?」
棘のある口調で詰問したが、しかしその後半は近くを通った子供たちの声でかき消された。眉を寄せて通りの向こうを見ると、十歳前後の子供たちが五人ほど、何故か意気揚々と通りを行進していたのだ。
しかもその子供たちときたら、随分奇怪な歌を高らかに唄っているものだからローレンスは愕然とした。
「我らは正義のヒーローだ
私がここにいる限り
悪は決して栄えない
困った時は私を呼べ
どこへも飛んでいこう
山の向こうも海の向こうも
この星の彼方までも
私はあなたを助けに行こう」
首をひねっているのはローレンスだけで、二人の部下はほほえましそうにそれを眺めていた。
「ありゃあ、この間この町にやって来ていた劇団のミュージカルの一節ですよ。正義の仮面ヒーローたちが闇の組織の悪事を裁く勧善懲悪の活劇でしてね、子供から大人までそりゃあもう夢中になって――」
「そんな事は聞いてない!」
ローレンスのフラストレーションは今や頂点に達していた。耳障りな子供の歌に奥歯を噛みしめる。
(くそっ、これだから下町の連中は……)
ローレンスが内心で毒づいていると、子供たちの内の一人がこちらに気づいてあろうことかトコトコと駆け寄ってきた。部下の一人に向かって無邪気な笑みを浮かべる。
「あー、レンブラントおじさんだ!」
「おや、君は確かブラックさんとこの……エリンちゃんだったか、こんにちは」
「なんだ、お前知り合いだったのか」
「ええ、ハイネル騎士団の傭兵だったブラックの娘ですよ、御存じありませんか?」
「ブラック……、ああ、シュベリア部隊にいた二等兵か」
騎士団に所属して二年ほど遠征に行っていたローレンスは、自身の部隊以外の兵卒もそれとなく言葉を交わす機会があり、顔見知りも多かった。ブラックは確か南方の街で一度だけ酒を飲んだ事がある。もううろ覚えだが娘の事も話していた気がする。
「エリンちゃん、学校じゃなかったのかい?」
「うん、でも今日は『きんきゅうしれい』なの。ジンロがいなくなっちゃったから探さなきゃなの」
「ジンロ……友達かい? それは大変だな……」
「うん、友達。おじさんたちも見かけなかった? すっごくきれいな金色をしててね、ふわふわなの」
「金色……? ふわふわ……?」
およそ人間の形象とは思えない用語に兵は目を白黒させた。そんな中、ローレンスはジンロという言葉にどこか懐かしさを覚えた。
(ジンロ……、どこかで聞いた様な、どこだったか……?)
ローレンスは一人考え込む。だが、いくら記憶を辿っても思い起こす事が出来ない。
「友達を探すのはいいことだけど、あまり人通りの少ない所を君たちだけでうろついてはダメだよ? 最近変な事件が多いからね」
「うん、わかってるよ。おじさんもジンロ見かけたら教えてね」
「勿論、覚えておくよ……。金色ふわふわ、ね……」
どうあがいても見つかるはずの無い形容詞を残したまま、子供たちはあっけなく通り過ぎてしまった。
嵐が通り過ぎた後、ローレンスはようやく散策を再開する。随分時間を無駄にした様な気がする。二人の兵に鋭く命令すると、ローレンスはまた歩き出す。
結局『ジンロ』という言葉が何だったか、彼は最後まで思い出せなかった。
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