第一話 帰ってきた幼馴染①

 その日、いつものように山岳の鶏が高らかに朝の訪れを告げると同時にイスカは飛び起きた。

 カーテンを開けると温かな日差しが部屋に差し込む。陽光を浴びればイスカの一日の始まりだ。

 水桶で顔を洗って服を着替え寝癖は適当に。鏡の前でくるりと回ると気合を入れて慌ただしく部屋を飛び出す。

 いや、部屋を出る前にもう一つ大事な作業がある。


「おはよう、ジンロ」


 部屋の隅に取り付けた小さな鳥籠の中に呼び掛けると、そこから一羽の鳥が飛びだした。金色の輝かしい全身に少し虹色がかった尾羽、そしてほっそりとしたシルエット。イスカの愛鳥ジンロは今日も美しい姿で部屋をぐるりと一周すると、すとんとイスカの肩に着陸した。

 羽を一撫でするとイスカはジンロを肩に乗せたまま一階へと降りる。


 まずは教室の掃除。イスカは自宅でもあるこの場所で下町の子供たちの為に私塾を開いており、通りに面した大部屋が私塾の教室になる。並べられた机と長椅子、教壇には一面に黒板が取り付けられており、昨日子供たちが放課後に描いていった落書きがそのまま残っていた。

 後二時間もすれば、元気な町の子供たちがここへやってくる。塵を掃いて、散らかっていた教科書や文具教材を片付けた。


 片付けが終われば次は休憩時間のおやつ作り、昨晩寝かせておいたクッキー生地を型抜きして、オーブンで焼いている間に自分の朝食を用意する。


「あ、こらジンロ!お前はこっち!」


 お腹をすかせたジンロがイスカのパンを啄ばんでいたので慌ててジンロ用の粟の実を掌に乗せて差し出した。


「鳥って普通決まった時間に食べないって近所のおばあさんから聞いてたのに、お前は変わってるのね」


 パクパクと嬉しそうにイスカの手の上の粟の実を突いているジンロを見ながら、イスカは片手でパンに齧りついた。

 ジンロとのささやかな朝食が終わる頃にはクッキーの焼ける香ばしい匂いが立ち込めてきた。オーブンから取り出したクッキーはこんがりと黄金色に焼けている。子供たちの為に作った動物やハートの形を模したクッキーに、イスカは無意識に鼻歌を歌っていた。


「よし、次は洗濯!」


 上機嫌のまま洗い物に精を出していると、


「先生おはよう!」

「イスカせんせー、おはよー」


 朝早くから生徒第一群がやってきた。二人の少年、お調子者の兄ベンと元気いっぱいの弟ミルスだ。


「おはよう、ベン、ミルス。今日は早いのね。授業はまだ一時間以上後よ」

「俺は真面目なんだよ先生、早く行って勉強しておこうと―――」

「あー今日のおやつはクッキーだ!すごい、お兄ちゃんの言うとおりだ!」

「あ、馬鹿!言うなよ!」


 じゃれあう兄弟にイスカは破顔した。二人はいつ見ても仲がいい。


「おやつは授業が終わってからよ。早く来てもあげません」

「えー、せんせーいじわる。クッキー食べたいー」

「ダメ。さあ、二人ともせっかく来たんだから早く上がりなさい。勉強するんでしょ?」


 イスカが意地悪く笑うと、兄弟は二人揃ってあからさまに肩を落とし、とぼとぼと中へ入っていった。後でジュースでも出してやるか、そんな事を考えながら洗濯物を続けていると、またイスカの元に来訪者がやってくる。


「あらイスカちゃん、おはよう」

「おはようございます。シャロンさん」


 イスカの前に現れたのはエプロン姿の中年の女性、彼女はイスカの家の隣で宿屋を経営している。


「さっきの二人、リーンヘルツさんとこの兄弟?元気ねぇ、こんな朝早くから」

「ええ、今日はおやつにつられて早く来たみたいですけど」

「まあ。それにしてもイスカちゃんは偉いわね。お婆様が亡くなってからもこうして私塾を経営して生計を立ててるんですもの。きっとあの子たちもあなたの事が大好きなのね」

「いえ、そんな私は……」


 実際の所イスカの家計は火の車もいいところだ。亡くなった祖母が経営していた私塾を継ぎ、この町の子供たちに読み書きや計算を教えているが、名門の大学に付属する小学校や家庭教師に比べてもそれほど授業料は高く取れない。ほぼボランティアでやっている状態だ。最近では貴族や裕福な子供は勿論の事、庶民でも中流家庭なら無理をしてハイレベルな学校に通わせたがる親も多いため、この私塾も一昔前に比べ塾生は減少していた。


 それでも将来仕事をするための最低限の知識を身につけたいという中流以下の子供たちがこうしてイスカの塾へとやってくる。イスカの仕事は彼らに生きていく上での知識と常識、マナーを身につけさせることだ。


「おばあちゃんに比べればまだまだですよ」


 謙遜の言葉を述べるとシャロンは苦笑して、イスカに手に持っていた包みを押しつけてきた。


「これは?」

「昨日お客さんに出したシフォンケーキ。作りすぎちゃったからあんたんとこにおすそ分け。ちびちゃんたちと食べな」

「いいんですか⁉ ありがとうございます!」


 シャロンのシフォンケーキは絶品だ。甘すぎず綿雪の様にふわりと蕩ける触感が堪らない。

 今日はとても幸先がいい。お菓子程度で自分も単純だな、と思うのだが、なんだかいい事がありそうだ。


 ◆

 この日の授業は国語から始まった。この国の詩聖ザウド=パウエルの詩集を読みながら、イスカは生徒たちの間を歩く。


 空は広く遮るものなどない、海は青く留まるところを知らない

 では大地は

 大地は何が広がり、何が見えるのか―――


 詩を読みあげていると、その続きを元気な声が遮った。


「せんせー、『うみ』って本当に青いの?」


 唐突な生徒からの質問にイスカは朗読を止めた。そして、うーんと唸る。


「青い……、んじゃないかしら?絵本の挿絵でも青以外に塗られている事は無いわ」

「でも海って広いんでしょ?もしかしたら赤い海や黄色い海もあるかもしれないでしょ?」


 いやもしかしたら緑かも、と隣の子が口を挟むと、次々に子供たちが海は何色かを話し出した。子供たちはまだ幼い、本当の海を見た事が無いのだ。ありったけの想像力で見た事も無い本物の海を想像している。


「海に赤いのも黄色いのも無いわ。青いものと決まってるの」

「そんなことないよ!きっとある!」

「先生は見た事あるの?」


 その質問にイスカはうっと喉を詰まらせた。

 子供たちに偉そうなことは言えない。自分だってまだ一度も海を見たことなどないのだ。


「……そうね、先生も見た事はないから本当の事はわからないわね」


 悔しいけれどこう言う他無かった。自分にもっと経験があれば、子供たちに見聞を語ってやれたのだが、こればかりはそうもいくまい。

 すると元気よくミルスが立ち上がってこう言った。


「じゃあせんせー、えんそくにいこうよ!みんなでうみを見にいくの!」


 周りの子供たちも遠足と聞いてきゃあきゃあとはしゃぎだす。だがイスカは遮るようにぴしゃりと言った。


「だめよ、この町の外に出ていくのは禁止」

「えー、どうしてー?」

「危険だもの、町の外には何があるかわからない。私はあなたのパパとママからあなたたちを預かっているんだから、危険な事はさせられません」


 このメルカリアは比較的治安のよい所だが、他の都市でもそうとは限らない。女子供が迂闊に出歩けばあっという間に捕らえられ商品として売り飛ばされる、なんて事例はよく耳にするし、一歩町を出れば盗賊や猛獣もうようよいる。

 厳しい口調で言うと、子供たちはあからさまにしゅんと項垂れた。そんな彼らに、今度は優しく語りかける。


「あなたたちなら大人になったらきっといけるわ。海でも、どこへでも、自分の行きたいところに」

「ホントに?」


 イスカは彼らを安心させるように笑う。彼らは今子供でもあと数年すれば立派な大人になる。そうすれば町を出る事を咎める者もいない。どこへ行くのも自由だ。

 だが、ミルスだけはまだ不安そうにイスカに問いかける。


「せんせーは?」

「えっ」

「せんせーは行かないの?」


 イスカはまた、言葉に詰まった。純粋なミルスの目が、生徒たちの目がじっとイスカを見つめている。その目に少し引け目を感じる。


「……先生は忙しいから、きっと無理ね。……さ、続きやるわよ」


 彼らに悟られないようにあっけらかんと答えると、すぐにまた詩集の朗読に戻った。


(先生は行かないの、か……)


 朗読をしながら、イスカは胸の内に引っかかった問いかけを幾度も幾度も反芻していた。




 午前中の授業を終え、教室で今朝焼いたクッキーとシャロンさんから貰ったシフォンケーキを広げると、子供たちは水を得た魚の様に嬉しそうに飛び跳ねておやつを食べ始めた。私塾の授業は基本的に午前で終了する。後は自習でも遊ぶでも好きにしていい午後の時間だ。

 イスカも一切れとっておいたシフォンケーキを教卓で食べながら、傍で机を突いているジンロと戯れ休憩をとる。すると、女の子が二人こそこそとこちらへ近づいて来た。いつも仲良しで二人一緒にいるアナとエリンだ。


「ねー先生。先生は『将来を誓い合った人』っていないの?」


 教卓に来るや否や、アナがとんでもない質問をしてきた。思わずシフォンケーキを喉に詰まらせかけた。その様子を見ていたジンロも驚いたように硬直する。


「なっ、どうしたのいきなり?」

「だって昨日パパが言ってたの。女の子は皆将来結婚するんだって。アナがあと十歳くらい大きくなったらって。先生くらいの年でしょ?」

「う、うん。まあそうよね……」

「だから先生は結婚しないのかな、ってエリンと話してたの。ね、エリン」

「うん。うちのパパとママも言ってた」


 二人は可愛らしく「ねー」と微笑みあった。一方でイスカはどう答えていいかわからずもぞもぞと身体を揺する。

 正直に答えると、イスカは結婚の予定どころか、男性と付き合った事すら皆無だった。確かにイスカはまさにこの時代の結婚適齢期真っ盛りで、同年代の女友達はもう半分近くが父親に紹介された縁談相手と親交を深め、中には結婚が決まった子もいる。

 いき遅れと言われればそれまでだが、イスカにだってそれなりの事情がある。仕事だってやめたくないし、何よりイスカにはずっと待ち続けている人がいるのだ。


「先生好きな人いないの?」

「や、いるかいないかで言ったら、いる、と思うけど……」

「ほんとに!?どんな人!?」


 年頃の少女たちは実にこういった話題が大好きだ。騒ぎを聞きつけた他の子供たちも、興味津々になって寄ってきたので、イスカは思わずたじろいでしまった。

 ここはひとつ先生らしい言葉で誤魔化さなければ。


「……さっきも言ったけど私にとって今一番大事なのは仕事なの。皆が私にとって今一番大切な子たちよ。あなたたちが無事塾を卒業して、働けるようになるまではこの町を出ないし結婚もしない」

「えー、そうなの?」

「そうそう。今は結婚よりあなたたちの成績の方が大事だからね」

「そんな事言ってると一生結婚できねーかもよ先生」

「……うるさい!」


 子供たちは笑い出した。隣でジンロもくるぅと喉を鳴らしたので、なんだか馬鹿にされている様な気がして、こっそりと尾羽をつねってやる。哀れな小鳥が痛みに奇声を上げて周囲を飛び回り周囲に羽が散らばった。


「でも残念、パパが久しぶりにうちに帰ってきたから、もしよかったら相手を紹介しようかって言ってたんだけど」

「へぇ、そうなの。でも私には……ちょっと待って、確かエリンのお父さんって――」

「兵隊よ。昨日遠征から戻ってきたの」


 兵隊、そう聞いた途端イスカは思わず立ち上がった。教室にいた皆が一斉にイスカに注目する。空を飛び回っていたジンロですら鳴くのをやめた。


「ほんとに!?騎士団戻ってきたの!?」

「うん。先生知らなかったの?街でけっこうさわぎになってたよ」


 騎士団が帰ってきた。二年前、精鋭の騎士十数名と傭兵百余名がメルカリアの町を出発した。いつ戻るかは情勢次第。隣国との開戦の兆候も無く平和期の今ならそれほどかからないと踏んでいたが、それでも二年たっていた。

 でも戻ってきた。彼らが、―――あの人が。


(ローレンスに会える!)


 イスカは茫然とする子供たちを尻目に歓喜と期待に胸を膨らませていた。

 二年間思い続けていた待ち人に会えるのだ。

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