第15話 岐路に立って
時は遡って、同日夕方。その日、香織は図書館で天文関係の書籍を読み込んでいた。付け焼き刃にしかならないだろうとは思いつつも、状況を理解する助けになればと思ってのことである。
そんな彼女は、真希から送られた連絡に30分ほど遅れて気がついた。文面を読み進めるほどに心臓が高鳴っていく。気づけば、彼女は図書館を足早に出ていた。
その後、半ば信じられない思いの彼女は、震える指先で手当たり次第に検索にかけてみた。すると、まだ大規模な騒きになっていないものの、情報に飢えた者たちのアンテナには捉えられているようだった。東京湾の沖合で、何か不審な物体が目撃された。それが近づいてきている。見物に近づいたボートは熱線で焼かれた等々。
香織にとって、この状況についての当事者意識はあった。だが一方、初戦をほとんど夢うつつで過ごしたこともあり、どこか傍観者的に構えてしまう部分もあった。アストライアーを正しく運用できる機関があれば、そちらに任せてしまいたい――もし叶わなければ、政府に渡りをつけよう、と。
しかし、そういった段取りまでもを、圭一郎に頼きるつもりでいた自分に気づき、彼女は強く恥じ入った。孫と香織への気遣いからか、圭一郎本人が請け負う姿勢を見せてはいたものの。
そうして無意識的に、正面から向き合うことを避けていた現実が、避けようのない形で眼前に示されている。スマホを操る指のみならず、今や視界全体が軽くぐらつくように感じ、香織は目を強くつむった。
真希からの連絡には、最後に「逃げて」とあった。
しかし……人生の分岐路に立たされた香織は、図書館前の大通りの、それぞれの道に目を向けた。
真希が向かうであろう東への道は、すでに太陽が去って薄暗く、前方の十字路が陰の中に横たわっている。一方、現場から去る西への道は、去り行く太陽の光が差して明るい茜に染まっている。
だが、今の香織の目には、夕日に染まる茜色の道は、さほど明るい物としては映らなかった。去りゆく日を追うように逃げていって――その後、何が残る? 太陽はじきに沈み、夜闇の中できっと負い目と無力感だけが残る。
香織の中で、様々な思考と感情が、目の前で行き交う車列以上に激しく渦巻いていく。即座に解を出せず立ち止まった彼女だが、一つ言えることもあった。逃げは決して、自明な答えではないということだ。
それに気づいた時、彼女は真希が向かうであろう戦場へ自身を運ぼうという、何らかの心の動きがあることを強く感じた。それを思いとどまらせようという
ふと我に返ると、彼女は道路に身を乗り出して手を挙げている自分に気づいた。
もしかすると、今回の騒動について、すでに情報は出回っているのかもしれない。東へ向かう車はまばらで、逆方向は見るからに混んでいる。しかし……本当に逃げ出したい者は、今も東にいる。だったら……
そんな彼女の見立ては正しく、ほどなくしてタクシーがつかまった。真希がいる場所へ向かわせる、心の原動力はわからないままに、どうにか現地へたどり着こうと思考が巡りに巡っている。初めて感じる自身の有り様を少し奇妙に思いつつも、彼女は思考を先に推し進めた。
(ここから最寄り駅までは、車で数分。でも、大事になって公共交通機関が止まる可能性は……ありえる。だったら、このタクシーでできるところまで……)
考えながら香織は、タクシーに乗り込んだ。運転手は40代ぐらいの男性で、やや緊張した感じがある。彼はやや硬い口調で「どちらまで?」と尋ねた。問いに少し間を開け、意を決した香織が口を開く。
「東までずっと……久里浜あたりまで行ければ」
「はい?」
香織の言葉は予想外だったのだろう。聞き返す運転手の声には、困惑や戸惑いがある。そこで香織は尋ねた。「もしかして、東の方のことはニュースになってます?」と。タクシードライバーならではの情報網に何か、新情報がかかっているかもしれない。
すると、運転手はためらいがちに答えた。
「……ええまぁ。ニュースと言いますか、仕事仲間から情報が」
それから、運転手は車を出すでもなく、難しい表情で尻こむそぶりを見せた。
――引き返すなら今。香織は完全に迷いを振り切れたわけではなく、説得しようと囁く声が内に響く。
しかし、閉ざされかけた扉を無理やりこじ開けるように、香織は行動に移った。カバンを漁って財布を取り出し、その剣幕に気圧され気味の運転手が見守る中、彼女は無造作に札を何枚か掴んで差し出した。
「これで、お願いします」
おとなしい、あるいは控えめといった印象を抱かせる香織だが、この時ばかりは有無を言わせない、鬼気迫る迫力があった。数えられもしなかった札は、現在地から久里浜まで何往復か余裕でできる。金額的に、断る理由はない。
そして……香織にとって幸か不幸か、この運転手は相応に人生経験を積んでいたようだ。彼女の様子にただならぬ物を認めた彼は、神妙な顔で金を受け取ると、とりあえずボトルホルダーにひっかけた。
車が動き出したことで安堵のため息を漏らした香織は、危機に近づくことにむしろ安心している自分を認識して、何とも言えない感覚を味わった。それから、横の運転手に頭を下げた。
「ご無理を言って、申し訳ありません」
「いえ、何か深刻な感じでしたので」
「はい……知り合いの子が、あちらに」
しかし、香織はそこで口をつぐんだ。向かっているなどと口にしたら、不必要に混乱させてしまうかもしれない。全てを口にできるわけではないのだから、ある程度納得できるところまで明かせばいい――と。
実際、運転手は納得したようで、重ねて問うようなことはせずに口を閉ざした。一方、無理を言って走らせていることと、隠し事をしている罪悪感に
やはり、同じ方向を目指す車は少ない。空いている道を快適にタクシーが駆けていく。断続的に並ぶガイドレールの列をぼんやり眺めつつ、香織は自身の選択を振り返った。
どうして、こんなことをしているのか。思い返せば、理由はいくらでもある。そもそも、真希とステラがいなければ、とうの昔に死んでいた身である。圭一郎にも世話になった。そんな自分がここで逃げだしたら、合わせる顔などなくなってしまうではないか。
そして彼女は、アストライアーの操縦者が真希と香織のいずれかであれば、同乗者に制限はないということを知らない。真希からの連絡で、(真希さん、一人で戦うつもりなんじゃ……)と考えている。
一人でも戦えるのではと思わせる要素もあった。真希のそばにはステラがいる。ステラが止めないのであれば、一人で戦うことも実際には可能なのでは……
しかし、それは希望的観測に過ぎない。そんなものをアテにして逃げようとする思考を、香織は醜く思った。
一方、立ち向かう理由に対し、逃げを選ばせる理由はシンプルだ。命の危険がある。SNSに出回る情報からも、そういった危機感は伝わってきた。夢うつつな初戦で、無意識的に伝わってきた記憶が蘇り、香織の中を冷たい恐怖が侵食する。
だが……真希は間違いなく、アストライアーを使って戦闘することになるだろう。今回ばかりは、衆目に晒されるのを避けられない。
――あの子が死ねば、それとわかる。
そうなった場合、逃げを選んだ自分は、耐えられるだろうか? 人知れず十字架を背負う余生になっても?
そういう、ふてぶてしさや図太さがあることよりも、香織は立ち向かうだけの勇気があることを望んだ。
それに……見ず知らずの自分に、高原家の二人が良くしてくれたこと、3人で囲んだ団欒に幸せを感じていた。つい最近まで教職にあった自分に、年下の恩人が「先生」と親しくしてくれている――
選択が正しかったかどうか、香織には判断できない。悲劇的な結末を迎える可能性もある。しかしそれでも、彼女は逃げ道を振り返らずにいられるだけの理由が自分にあることを、幸せに思った。
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