第10話 Xデー②

 発端は一隻の漁船であった。場所は千葉県南端から南西へ数キロ程度の沖合。一仕事を終え、港へと帰ろうというその矢先、一人の漁師が空に何か奇妙な物体を認めた。日が去り暗くなっていく洋上に、何かきらめく物が漂っている。

 距離感から言って、相当大きな物体だ。輪郭はきらめき、内部は透き通っているように見えるその中で、茜の空に赤い光がまたたく。

 第一発見者は、目にしたそれを、何かしらの自然現象のように考えた。宙に浮かぶ物体にしては、あまりにも奇妙すぎると。あるいは、単に仕事疲れによる錯覚ではないかとも。しかし、仕事仲間にそれとなく伝えたところ、仲間たちも同様の存在ないし現象を空に認めた。

 彼らにとって幸いだったのは、帰還を優先したことだ。目にしたものに対する興味が無いこともないが、どこか空恐ろしい雰囲気がある。それに、見慣れない物に不用意に近づくリスクを、彼らは嫌った。特に洋上では。

 そんな彼らがやったことと言えば、その場から離れつつ、目にした奇妙な何かを映像として収め、拡散しただけである。


 電子の海に投下されたこの奇妙な映像について、SNS上ではさっそく食いつく者が続出した。まずは、耳が早く興味本位の者たちが、大喜利のように言葉を連ねていく。そうした動きが互いに影響しあい、波と波が重なって波高を増し、より多くの者の目に触れる事態となっていく。

 当初は物珍しさから寄りつく者が多く、お気楽な雰囲気さえ漂っていたが、徐々に空気感が変わっていった。映像が映し出すものの奇妙さ、得体の知れなさに、ネット上のざわつきが少しずつ真剣味を帯びていく。

 最初はウケ狙いで始まった当て推量に、真面目な意見が飛び交うようになったが、なかなかそれらしい答えには至らない。そんな中で出た有り得そうな答えは、観測気球の残骸ではないかというもの。役目を果たしたか、あるいはトラブルによって落下するところだったのでは、と。

 この穏当な見立てで、議論は一時の落ち着きを見せた。しかし、確定したわけではない。


 そして、ネットとリアルが緊密に結びつく情報化社会、好奇心か承認欲求によるものか、実際に見に行こうという者が出るのは必然の流れである。果敢な者が何グループか名乗りを上げ、現場へと競うようにボートを走らせる運びとなった。

 だが、事態は急展開を見せた。ある生配信において、空に赤い閃光が走り、それきり音信不通に。そして、他のグループたちが収めた映像では、空から放たれた赤い線が一隻のボートを焼き払っている。

 また、この騒動に前後する形で、海上保安庁が出動したという情報もSNS上を駆け巡った。それが正確な情報か、あるいは興味を惹こうというデマか、傍観者たちには定かではないものの、疑おうという声は不思議なほど少ない。“祭り“に参加しているつもりだった者たちの多くは血の気を失い、とんでもない事態に直面をしていることを悟った。


 そして、海保の初動からほぼ数分の後、今度は空自が緊急発進を行った。



 現場の海域についた巡視船の艦橋は、未曾有の事態を前にしてひりつく緊張感に満たされている。光線によってボートが焼き払われたということは、この場の一同も把握している。敵性存在について、より詳細を知りたいのは山々ながら、不用意には近づけない状況だ。

 それに、どうにか双眼鏡で視認できる程度の距離感でも、艦は異常を察知している。クルーの一人は、レーダーの不調を訴えた。電波的に、そこに敵がいるのは感知できるものの、電子戦による撹乱を受けているようだと。

 そうした報を受け、いかめしい顔の船長は、苦々しい顔を艦橋の外に向けた。それから彼は、集中と動揺入り交じる部下を一通り見回した後、一人の同乗者に目を向けた。

 船内には一人だけ、部外者が乗り込んでいる。上からのお達しで乗り込んだ、スーツ姿の青年だ。周囲とは違う服装で明らかに浮いている彼は、立川春樹と名乗った。その所属は……


「立川さん」

「はい」

「救星軍として、敵についての情報と見解は?」


 その青年は、救星軍所属と名乗っていた。船長にとっては初耳の組織であり、差し出された名刺も、どこか嘘くさく感じられたものだ。だが、嘘くさいと言えば、宙に浮かぶあの敵自体がそうだ。今や日本全体、それどころか世界も注視しつつある、この状況も。

 そして、同乗する青年が醸し出す、緊張感と使命感に満ちた空気は、少なくとも彼がこの事態の対応のために動いていると信じさせるものがあった。そんな彼だが、情報を求められると、真剣な表情をやや苦そうに歪めた。


「詳細までは把握できていません。また、答えられる範囲での回答となってしまいますが」

「構いません」

「衛星及び探査機による調査では、あれらが電波を発振することが判明しています。その利用目的までは不明ですが、おそらく互いの意思疎通ではないかと」

「例の光線については?」

「大気圏内では初観測です」


 憎らしいほど淡々と答える若者に、船長は思わず苦笑いを浮かべた。そして彼は考えた。救星軍とやらが持っている情報は、宇宙空間におけるものが主体なのだろう。それを今まで隠蔽されたのでは、我々門外漢には知りようもない。

 そして――地球にまで入り込まれたこの状況では、彼らが有する情報も、あまり役に立たないのだろう、と。

 すると、春樹のインカムに通信が入り、彼は「失礼します」と言ってそちらと話し始めた。ほぼ同時に、通信士の一人が船長に硬い口調で告げる。


「空自から、2分後を目安にミサイルを試射するとのことです」


 春樹が受けた通信も同様のものだったようだ。話を終えた彼は、緊迫感のある面持ちで船長に告げた。


「電波撹乱により、ロックオンに不都合が生じるかもしれません。そのあたりも含めて、実地の観測データを収集できればと」

「撃墜できる可能性は?」

「敵の出力次第ですが……なんとも言えません」


 二人の会話が途切れると、艦橋内は重苦しい沈黙に満たされ、多くの目は遠くの戦場に向いた。もっとも、肉眼ではなくレーダー越しであったり、あるいは双眼鏡に頼ったりと様々だが。長いような短いような、奇妙な時間感覚の中、彼らはその時を待った。


 そして、遠方でそれらしい動きが生じた。インカムから情報が伝わったのか、春樹が抑えた口調で「撃ちました」と告げる。

 その数秒後、多くが見守る中で爆発が生じた。敵性物体がいる座標ではなく、かなり離れたところで。電波的にも光学的にも、敵の健在が示されている。

 ミサイルは撃墜された――艦橋内が落胆に沈みかけるが、春樹にとっては織り込み済みの事態だったのだろう。緊張感はそのままだが、落ち着きが保たれていることを船長は認めた。

 それから、通信士が次なる報を口にした。


「続いて飽和攻撃を仕掛けるとのことです」

「了解」


 部下からの言を受けた船長だが、表情は硬い。飽和攻撃、すなわち敵の迎撃力を上回る分量のミサイルを、同時に発射するわけだが、レーダーが十全とはいい難いこの状況下では……

 そんな彼の懸念は、やや別の形で裏切られることとなった。空自のパイロットたちは緊密に連携し、ほぼ同座標へ向けて、間髪入れずに複数のミサイルを撃った。そこまではいい。

 しかし、散開してから放たれたミサイルは、順繰りにではなくほとんど同時に撃墜された。他の観測手との通信から、光線が薙ぎ払ったようには見えない。つまり、光線はほぼ同一の座標から、多方向へと放たれた。

 それが意味するところは、敵に同時射撃能力があるか――あるいは、もともと複数いるか。

「どう思われますか?」との船長の問いに、春樹は苦い表情で考え込んでから言った。


「見た目に揺らぎがあるという報が上がっていたこと、レーダー上でも不安定な反応を示すあたり、重なり合っているか、あるいは……」

「あるいは?」

「群体のような性質を持っているのかもしれません」

「群体というと、クラゲのような?」

「はい」


 そこで船長は、双眼鏡で前方の空を見つめた。空間の揺らぎのようにも取れる半透明の物体には、よくよく見れば触手のような突起が生えているようにも見える。なるほど、思いつきで口にしたクラゲという表現は、さほど的外れではないかもしれない。

 しかし、見てわかる情報はその程度でしか無い。もっと近寄れば、得られる情報は精細になるのかもしれないが……その許可が降りることはなく、船長自身も、その危険を許容しなかった。

 なぜならば、この船は可能な限り、敵に張り付き続けねばならないからだ。洋上を北上しつつある、あの敵から付かず離れずの位置で。


 第一弾の観測はそこまでだった。ミサイルの有効性が疑われる以上、別の手立てが必要になる。次なる作戦行動に備え、空自が一時引き上げるという報を受けた後、船長は春樹に問いかけた。


「救星軍として、次の動きは?」


 すると、問われた春樹は、少し悩む素振りを見せた。やがて彼は、静かに口を開いた。


「まず、誘導兵器の類は効かないでしょう。先を上回る密度で飽和攻撃を……というわけにもいかないかと。上もそう判断しています」

「では?」

「艦砲による対空砲火で攻めることになると思われます」


 彼の返答に、場はざわめいた。その当惑が少し落ち着くのを待ってから、彼は言葉を続けた。


「横須賀から艦を出し、東京湾で並べて迎え撃つとのことです」


 艦長のみならず、その場の全員が耳を疑った。それでも、少し間を開け、艦長は困惑を抑えながらも問いかける。


「自衛隊と米軍が、共に動く……いや、すでに動いていると?」

「はい。信じられないかもしれませんが……」


 口にする春樹の方も、よく見ればひきつったような、苦笑いとも言えない微妙な笑みを浮かべている。

 どのような政治判断があったにせよ、お上の決断の速さは異常である。ただ、一時の困惑が落ち着くと、上がしっかり対応する構えを見せているという事実に、面々はいくばくかの安心感を覚えた。

 それからまた通信が入り、終わってから春樹は、少し申し訳なさそうになって艦長に言った。


「陸で仕事ができまして……申し訳ありませんが、何か足を」

「ヘリを飛ばしましょう」

「ありがとうございます」


 その後、船長は手早く指示を飛ばし、春樹は艦橋の面々に頭を下げて退出した。彼を見送り、船長は再び艦橋の外を眺めて黙考に入っていく。

 国からの司令は、予想を超えて早い。しかし、実際に艦を動かすとなると、相応の時間は必要だ。敵の進路次第ではあるが……東京湾に展開する防衛線の位置次第では、大惨事は免れないかもしれない。

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