第6話 状況確認

 同日夕刻、帰り道で級友と別れた真希は、途中のコンビニで炭酸水を買った。友人との付き合いでもなければ、普段はあまり買い食いしない彼女ではあるが……なんとなく、スッキリしたかったからだ。

 買ったペットボトルはとりあえずそのままに、彼女は自転車をこいで茜に染まる街を駆けた。やがて踏切に差し掛かると、警報機がカンカン鳴り出し、バーが降りてくる。

 そこで彼女は、ちょうどいいタイミングと思って炭酸水を取り出した。キャップをひねると、中の気が漏れ出す音。飲み口から、冷えた強炭酸の心地よい刺激感が喉へ流れ込み――


『真希さん』


 急に話しかけられ、真希は炭酸が口の中で暴発するような感覚に襲われた。紛れもなく、声の主は“アレ”である。カバンにしまい込んだはずの。

 聞かれていないか、心配になった彼女だが、まずは平静を装うことを優先した。警笛のおかげで、声を聞かれている心配は少ないだろう。仮に変に思われるとしたら、それは彼女自身の振る舞いが引き金になってのことだろうと考えてのことだ。

 すると、機体の核が再び話しかけてきた。


『あなたの心に直接話しかけているはずです。周囲には聞こえていないものと思いますが……』

『そ、そういうことは先に言ってよ~! 心臓に悪いじゃない』

『申し訳ありません』


 それから真希は、周囲をさりげなく見回した。辺りに歩行者は見当たらない。ただ、すぐ近くの車の助手席にいる勤め人らしき男性は、先程の真希の反応を目にしたようだ。炭酸が口の中で炸裂する様子を見てしまったのか、微笑とも苦笑いとも言えない、なんとも微妙な表情を浮かべている。

 そんな彼に、真希は恥ずかしさを覚え、はにかんだ笑顔を返してみせた。すると、男性は感じの良い笑みで返答した後、同僚らしきドライバーと会話を始めた。

 とりあえず、周囲では彼以外の興味を惹いた感じはない。その事を確認して安心した真希は、核との直近の“会話“を思い出してハッとした。声に出さずとも、つい思い浮かべただけで実際に会話になっている――それを実際に体験したことで、彼女は核の言を真実だと把握した。


『……それで、いきなりどうしたの?』

『いえ、こういうこともできると、必要になる前にお伝えすべきと思っていましたが……話しかけられるタイミングを見計らっていました』

『ああ、なるほどね』


 そこで真希は思った。

(学校の中だと、私のリアクションで、みんなに変に思われかねないから。それで、下校中で友だちと離れて一人になった今なら、ってことかな。警笛がうるさいから、私がつい声出しても、他の人には聞こえづらいだろうし……チャリこいでる途中で話しかけられると危ないしで、踏切がちょうど良かったんだ)


『そういうことです』

『……あ~、そっか。思ったこと、そのまま通じちゃうんだ』

『はい』

『ちょっと、やりづらいかな~』

『はい、それはわかります。今回は、あくまでお伝えしただけです。こういうこともできますよ、と』

『わかった』

『とりあえず、連絡は以上です。では、声を切りますので』


 とりあえずは、本当に事務的な連絡、あるいはお試し的な意味でつないできたようだ。この接続が切れる前に、真希はなんとなく『寂しい?』と尋ねてみた。

 すると、核は少し遅れてから『面白い人ですね』と答えた。どこか嬉しそうな響きの声で。

 声が聞こえなくなって少ししたところで、電車がやってきた。会話のちょっとした余韻のような物を、通過音が押し潰していく。

 こうして普段の下校風景に戻った真希は、再び少しだけ炭酸を口に含み、自転車をこぎ出した。



「ただいま~」


 いつもと変わらない声音で帰宅を告げると、少し遅れていつも通りに声が帰ってくる。


「おかえり」


 これだけのやり取りに少し安心感を覚えつつ、真希は地面に目を向けた。玄関口の靴は減っていない。おそらく、あの女性はまだ家にいるのだろう。

 その見立て通り、例の女性――香織は家の中にいた。今まで圭一郎と将棋を指しているところだったようだ。そんな彼女は、帰宅した真希に体を向けて正座で正対し、真剣な面持ちをしている。

 すると、真希はやや困ったような笑みを香織に向け、祖父に向かって一言放った。


「将棋やってるとは思わなかったよ、どう?」

「強いぞ」

「そりゃ、じーちゃんが弱いの」

「お前もどっこいだろう」


 軽い調子で言い合う祖父と孫だが、間に挟まれる感じの香織は、やはり神妙そのものの顔つきである。そんな彼女の様子を見て、真希はふと思った。

(もとからこういう髪質なんだ)

 香織の髪は、今も少しウェーブが入った感じである。初対面の時は全体的にくたびれた印象から、髪がたまたま手入れされておらず、そのようになったのではと感じていたのだが……

 それはさておき、座布団の上で静かに待つ香織を前に、真希は「ちょっと待ってください」と言った。その後、押し入れから適当な座布団を掴んで敷き、二人が無空き会う格好に。

 すると、香織が先に動いた。平身低頭の構えで陳謝に入る。


「町田香織です。この度は、私の軽挙に巻き込む形でご迷惑をかけてしまい、誠に申し訳ありませんでした」

「あ、いえ、その……大丈夫です」


 真希からすれば、香織は第一印象の時点では、酔っているように見えていた。たぶん、ヤケ酒した後に海へ来たんだろうと。その時の擦り切れたような印象から、(あんまりしっかりした人ではないかも……?)と思っていたところに、この折り目正しい深謝である。これには彼女も驚いた。

 それから気を取り直し、彼女は口を開いた。


「あ、私は高原真希です。祖父が先にお伝えしたかもですけど」

「はい、事前に伺いました」


 頭を上げた香織と顔が合うと、真希はややたじろいだ。香織の目には、うっすらと湿った感じの物が見える。感謝、申し訳なさ、恥ずかしさ、色々な感情が入り混じっているのだろうか。

 軽い話で終わらないだろうと、覚悟を決めて家の敷居をまたいだ真希ではあるが、思っていた以上にシリアスな空気だ。謝られた側ながら、むしろたじろいでしまう彼女は、視線をそらして壁を見、そこで何かに気づいた。


「じ~ちゃ~ん、夕飯は……」

「当番はお前だぞ」

「やっぱり?」

「材料だけは多めに買っておいたから、好きに作りなさい」

「……じゃ、いっか」


 すると、真希は意識してフレンドリーな調子で、「またね!」と香織に言った。ある程度は心理的なイニシアチブを握っていることをなんとなく察し、場の空気を明るくしようと思っての挙である。それから彼女は、さほど足音を立てず静かに、それでいて足早にその場を離れた。

 そんな真希の背を見送ってから、香織が圭一郎に問いかけた。


「食事は、当番制ですか?」

「はい。週末にジャンケンで決めています」


 そこで香織は、居間のカレンダーについて合点がいった。ホワイトボード上に留められているその上に、赤と青の小さな磁石が7つ並んでいる。今日の当番ということは、真希が赤、圭一郎が青なのだろうと察した。

 そして……他の色はない。それが意味するところに思いが至らないわけではないが、早合点という可能性もある。何より、場の空気が自分の存在でこれ以上沈むのを嫌い、香織は話を切り替えた。


「私の分まで作っていただける流れでしたが……本当に、よろしいのでしょうか?」

「あの子もその気のようですし、別に構わないでしょう」

「……このご恩は、必ず」


 涙ぐむ顔でそう言って、香織はまたも深々と頭を下げるのであった。



 調理を始めてからしばらくして「おまたせ~」と、真希が居間に姿を表した。少しラフな感じの部屋着にエプロンと三角巾という出で立ちの彼女は、食べる前からツヤツヤした様子だ。

 そして、彼女は意気揚々と料理を並べていく。大皿に盛った炒飯が三人前。鍋敷きの上に、回鍋肉ホイコーローが入ったフライパン。それとは別に、麻婆豆腐が入ったフライバンが1つ。


「真希、取り分け皿は?」

「えっ? だって、いっつもチャーハンと一緒に」

「町田さんの分だ」

「あっ」


 やり取りに割って入るように「大丈夫ですから」と言う香織ではあったが、真希はと言うと、「やっちゃった」とでも言わんばかりに舌を小さく出して台所へ駆けていった。それからすぐ、何種類かの取り皿を携え、香織の傍らへ。「どれがいいかわからなかったから、適当に使ってください」と。

 その後、食前の合掌を行ってから食事が始まった。真希と圭一良は、ごく当たり前のように、炒飯の脇へとおかずを取り分けていく。感覚としてはカレーに近い。

 二人に倣って……とも考えた香織だが、せっかく取り皿を用意してもらったというのに、使わずに済ませるのも申し訳ない。加えて、それぞれを別々に味わいたいという思いもあり、まずは取り皿によそって食すことにした。まずは麻婆豆腐を一口……

 すると、期待感からか少し目を輝かせる料理当番の真希が、彼女に問いかけた。


「どうです?」

「……おいしいです!」


 口元を手で覆いながらも、見るものには十分伝わる笑みで香織は答えた。


「良かった~。好みがわかんなくて、いつもよりも少し甘めに作ったんですけど、お口にあったみたいで」

「……レトルトとかじゃなくて、ご自分で?」


 香織が尋ねると、真希は若干わざとらしくドヤ顔になった後、「これぐらい簡単ですよ~」と、手をヒラヒラ振りながら朗らかな笑顔で言った。

 しかし、食事をだいたいレトルトで済ませる香織にとっては、調味料を合わせて作るというだけで、大した技のように感じられる。そして同時に、祖父の圭一郎氏も似たような料理の腕なのだろうと、彼女はなんとなく考えた。

 それからは黙々と、彼女はレンゲを口に運んでいった。味付けがやや濃い目で、ご飯が進むからというのもある。ただ、家の二人が静かに食べているものだから、それに合わせたという面も。切り出す話題にも困った。

 そうして様子を見ながらの食事ではあったが、ここ最近一人で食事することが多かった彼女にとっては、温かな団らんであった。同時に、ここまでしてもらえていることへの申し訳なさと、自分自身の情けなさで、目がじわっとにじむ。

 すると、圭一郎がポツリと言った。


「真希」

「なに?」

「泣けるほど美味しいらしい」

「じーちゃんは泣かないの?」

「私の方が上手いからな」

「乾いてるだけでしょ、も~」


 そうやって軽口をたたき合う二人に、香織は目元を軽く拭って微笑みを作った。


 夕食の後、せめて片付けだけでもと香織が申し出ると、結局三人で片付けをする流れになった。その流れで茶の準備も整え、三人で向き合う形になり……

 いよいよ身の上話をする時間がやってきた。香織にしてみれば口にするのも恥ずかしい話ではあるが、二人に対する感謝の念から、話をするのにもはや迷いはない。

 決然とした顔つきになった彼女は、二人に向かって事情を話し始めた。「実は、失恋をしまして」と切り出し、そこで少しだけ反応をうかがった彼女は、どこか痛ましそうな表情の二人へと言葉を続けていく。


「この春までは高校で英語を教えていました。そこで職場内恋愛をしていたのですが、相手に浮気をされ……」


 その"職場内恋愛"という単語に、お相手が先生かはたまた生徒か、疑問が真希の脳裏をよぎった。ただ、彼女は(生徒なわけないか)と思い直し、話の腰を折らないようにと黙っておいた。それはさておいて、香織は話を続けていく。

 

「それで、そのことが周りに知られてしまって……同僚の先生方にも、生徒にも。みんな、私のことを慰めたり、励ましてたりしてくれたんですけど……あまりにもみじめになって、居づらくなって……」

「少々よろしいですか?」


 圭一郎が口を挟むと、真希は彼にいぶかしむような目を向けた。「余計なこと言わないでね!」と言わんばかりの。

 一方、腹を括っている香織は、真希の様子に少しばかり苦い表情で含み笑いを漏らしてから、「どうぞ」と質問の続きを促した。


「この時期に辞められたということは、学年が切り替わるまでは我慢なさったと?」

「……はい。学年の終わりがけに私事で辞めたのでは、教え子にあまりに申し訳ないですし……それに、教師ってもともと、この時期に職場を渡り歩く仕事ですから。時期に合わせて辞めても、それほど変に思われないかと」

「なるほど。今の時期まで耐えられたのは、ご立派だと思います」

「いえ……別に辞めなくたって、転勤すればいいという気もしますが、どうにも引きずってしまいそうでしたので。一度辞めて、スッキリしたくて……」


 実際、そう語る香織の様子は、すがすがしいとまではいかないが、少し吹っ切れた感はある。そうした彼女の有り様を見て、真希は海での叫びを思い出した。腹から絞り出すような絶叫で、全て振り切ったのだろうか。

 香織があの時海にいた理由は、以上である。今後どうするかといったなどといった、立ち入ったところまでの質問は、特にない。

 そこで、そそくさと立ち上がろうとする真希だが、それを圭一郎が声で制する。


「真希」

「……なに?」

「お前の方から、話せることがあるなら話しなさい」


 その言葉にためらいを見せる真希だが、祖父に「町田さんにも関係のあることだから」と言われ、彼女は思い直して再び座に着いた。

 一方、名前を出された香織は、恐る恐る尋ねた。


「私が……海に吹き飛ばされてから、何かあったのですね?」

「何か心当たりが?」

「記憶があいまいで、はっきりとは思い出せませんが……夢とも現実とも言い切れない、妙な心地を味わっていたようには思います」


 そして、真希に二人の視線が注がれる。彼女自身としても、未だに信じられない体験をしたという自覚はある。言っても信じてもらえるかどうか……

 と、その時、彼女の脳裏に一閃の気づきが。ハッとした表情になった彼女は、祖父に尋ねた。


「じいちゃん、あの時、海で何か見た?」

「……ああ。遠くの方で、渦潮みたいなものが見えた。それが止んでから、浜の方に白い光が海中を進んできて……二人が海から出てきた」


 つまり……真希は頭の中で整理した。

(じいちゃんの視点では、海の中で何か激しいことが起きていて、それが終わると海から私たちが出てきた……ってことは、関係あったと考えるには、もう十分じゃない?)

 下手に隠し立てできるものでもなく、かといって嘘をつく気は更々ない彼女は――悩んだ末に、証言者をもう一人用意することに決めた。肌身はなさず持ち歩いている例のアクセサリーを、ポケットから取り出し……二人の視線を気にしつつも、意を決して声をかける。


「お願い。一緒に話して」


『はい』

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