第5話 知らない家で目が覚めて

 海に呑み込まれてから脱するまで、時間にしてみれば、おそらく30分もかかっていなかっただろう。事を振り返ってみて、真希はそのように認識した。

 だが、たったそれだけの時間の出来事でも、彼女の人生観を揺さぶるには十分過ぎた。侵略者と表現された敵、自らが搭乗して操った機体、一緒に巻き込まれた女性。心を煩わせる事はいくらでもあって……


「高原ァ~」

「はっ、はい! 何ですか?」

「いや、窓の外眺めてんじゃないよ」


 授業に身が入らぬのも、無理からぬことではあった。

 名を呼ばれた真希は、授業中にボーっとしていたペナルティとして、問題を解くこととなった。数式並ぶ黒板へ向き合った彼女は、チョークをつまんで空中で泳がせる。幸い、授業開始早々の問題は昨日の復習で、彼女はすんなりと解にたどり着いた。


「正解、戻ってよろしい」

「は~い」

「しかし、高原が朝からボンヤリするのは珍しいな」

「えっ? いや~、たまにはこんな時もあるって~」

「他の教科の時にしてほしいもんだ」

「おい」


 ポツリとこぼすように言った担任教師の言葉に、前列の生徒が噛みつくようなツッコミを入れ、教室に笑いが起こる。真希も少し笑った。

 それから彼女は自席へと戻った。すると、前の席の友人が振り向き、彼女に小声で尋ねてくる。


「マッキー、もしかして……」

「コイバナとかじゃないよ?」

「なんだ~」


 急に興味を失い、友人は黒板へと向きを直した。

 もっとも……そういう話とは、まったく無縁の悩みでもないと思われるのだが。海で助けたあの女性は、真希の目には失恋したように思われた。そして、あの時のことを思い出すと、当時の諸々が連鎖的に浮かび上がってきて――

 またもボンヤリと授業から遠出してしまいそうになる頭を軽く振って、彼女は机に吊ったカバンに目を向けた。この中に、あの時搭乗した機体の”核”が入っている。当時語り掛けてきた声の発生源でもあるのだが、戦いが終わって陸に上がってからは、何一つ話しかけてきていない。

 この沈黙について、おそらくは自分に配慮してくれているのだろうと、真希は考えた。もっとも、仮にそうだとして、そういった配慮自体はありがたいことではあるが……一方で、そういう振る舞いについて気になる部分もある。

 というのも、この機体の意志は、人間社会の有り様について理解が深いように思われる。ここまで黙しているのが、真希が不要な面倒に巻き込まれないための配慮とするのなら……そうした配慮の前に、先立つ理解や把握があるはずである。

 ただ、あれこれ考えても、直に聞き出すまでは本当のことはわかりはしない。考え込んでボーっとすれば先生にも悪い。思い直した彼女は、普段よりもさらに意識的に、黒板へと意識を傾けた。



 真希に助けられた女性が目を覚ましたのは、同日の午前10時過ぎあたり。彼女はタオルが惜しげもなく敷き詰められた縁側で目を覚ました。

 目覚めた彼女は、まず、ちょっとした頭痛に顔をしかめた。この理由はわかる。そして彼女は、辺りに視線を巡らせ、何者かに介抱されていたことを悟った。

 次いで、彼女は自身の不確かな視界から、メガネがないことに気づいた。枕元においてある様子もない。瞬間的に、彼女はメガネが“流された“のだと察した。浜辺へと行った記憶はあって、そこから記憶がすっかり抜け、そして知らない民家で寝かされている。それも、全身びしょ濡れで――

 この状況は、こうなるまでの過程を想起させるに十分であった。全身を悪寒が襲い、息が荒くなる。胸元を弱々しく握り、彼女は平静を取り戻すのに努めた。


 ややあって、彼女は周囲の観察を再開した。ここはいわゆる日本家屋のようで、縁側に続く部屋は畳張りとなっている。また、縁側と塀の間はそれなりのスペースがあって、物干し竿や庭の木らしきものも。古くから続く家といったところか。

 こうした見知らぬ民家で目を覚ましたことについて、彼女の胸中に、不思議と恐怖は湧いてこない。どこかノスタルジーを感じさせるこの家の雰囲気が、落ち着きや安らぎを与えてくれているのかもしれない。

 ただ……彼女の胸中でより大きなウェイトを占めるのは、申し訳なさだ。きちんと思い出せる辺りから意識を失うまでの間が、霞がかったように判然としないものの……他人様に迷惑をかけたことだけは理解できる。


 すると、彼女が迷惑をかけたであろうお相手が姿を現した。眼鏡をかけた長身の老人である。髪は白いが、かくしゃくとした男性だ。彼女の目には、その辺の成人と比べてもなお、姿勢が良いようにも映る。

 そして、今こうしているように寝かされている自身に比べれば、明らかにしっかりした人物の登場に、彼女は急に恥ずかしさを覚えた。


「あ、あの……」

「ああ、目が覚めましたか」


 老人は答えつつ、女性の近くに未開封のペットホトルを置いた。コンビニによくある、ただの天然水だ。


「まずは、水でもどうぞ。落ち着いたら、着替えの候補がそちらに」

「候補?」


 女性がゆっくり体を起こして老人が指さした方へ目を向けると、畳まれた服が何着か用意してあった。


「孫が自分で選んだ服で……あなたに合うかどうかはともかく、当座の替えになればと」

「そ、そこまでしていただくなんて……」

「いえ、こちらとしても、あなたには色々と確認したいことがあります。ですが、濡れた服のままでお話というのも……どうかと思われますので」


 それは確かにそうである。これらの着替えは単なる厚意ではなく、彼女が説明責任を果たす上でも必要となろう。尻込みはかえって失礼と思い直し、女性は申し出を受け入れた。

 すると、老人は少し表情をほぐして言った。


「体が冷えているようでしょうし、シャワーでもご自由に。必要があれば湯でも入れますが」

「で、では、お言葉に甘えまして、シャワーを使わせていただきます……」

「わかりました。案内は下を見てください」


 そう言って老人は隣の部屋に移った。見たところ将棋を触っているようであり……「準備が出来たら話しかけよ」といったところだろうか。

 女性は身を起こし、少しずつ力を込めて立ち上がった。酔いが残る感じはないが、軽い頭痛に加えて倦怠感もある。それでも、一人で歩けそうだ。

 そして、一度立ち上がって床を見て見ると、先ほど老人が口にした”案内”とやらが視界に入った。床にタオルや手拭いが、矢印の形になって行儀よく並んでいる。濡れたままの足でも――という心配りもあるのだろうか。

(まさか、このためにタオルを買いに行ったんじゃ……)と、女性はタオルの多さを少し妙には思った。しかし、それ以上に強く感謝の念を覚えた。少しユーモラスで温かみのある、この心遣いに。


 縁側周りはいかにもな和風建築だったが、水回りはどうやらリノベーションをしてあるらしい。女性の予想に反し、脱衣所と風呂場はイマドキであった。たったそれだけのことだが、彼女は妙な感動と安心を覚えた。使い方がわからない給湯システムだったら……そういう懸念があったからだ。

 彼女は、温かなシャワーを浴び、生き返ったような心地になった。それから、着替えとしてはジャージを選択。ちょうどいい塩梅あんばいの丈にも安心と感謝を覚えながら、彼女は老人の元へ向かった。

 すると、本を片手に将棋を打っていた彼は、その定石本らしきものを脇に置き、女性に向かって座布団を差し出した。彼自身は味気のないモスグリーンの座布団を使っているが、女性に差し出したものは、カバーがかけてあり、もう少しポップな感じである。

 差し出された座布団の上で正座をすると、女性は深々と頭を下げて、まずは名乗った。


「町田香織と申します」

「高原圭一郎です」

「高原さん、この度はご親切にしていただき、本当にありがとうございます」


 そう言って香織は平伏する勢いのお辞儀をしてみせたが、逆に圭一郎は少し戸惑いを見せた。


「礼なら孫に。助けたのも服を提供したのも、あの子ですから」

「お孫さんのお名前は?」

「真希です」

「わかりました。マキさん、ですね」


 そうして少し和やかに言葉を交わした二人だが、会話は徐々に重苦しい雰囲気になっていく。香織は、深刻な表情で尋ねた。


「私は……海で溺れたのでしょうか?」

「記憶がありませんか?」

「当時の記憶があいまいで……浜辺に行ったことまでは、確かに覚えています。その後……波? いえ、風……ものすごい強風にあおられて……」


 記憶をたどるように話す彼女は、途中で圭一郎から視線を外し、両腕で自分を抱くように回した。恐ろしいイメージから身を守るように。

 すると、圭一郎は穏やかな声音で言った。


「あの子が帰ってからでいいでしょう」

「……申し訳ありません」

「いえ……ただ、あの子はあなたのことをかなり案じている様子でした。話せる分は話してもらえれば」

「はい」

「それまでは……何もない家ですが、適当にくつろいでください」

「はい、ありがとうございます」


 しかし、答えてから少しして香織の顔が青ざめた。


「何か?」

「いえ……その、スマホが……それとメガネも」


 すると、事情を察したのか、圭一郎は同情するように顔を曇らせた。

 それから、香織は手回り品について思考を巡らせた。スマホがダメなら、きっと財布も厳しい。カードはともかく、現金の何割かは、乾かしても交換の用をなさなくなっているかもしれない。そう持ち歩いているわけでもないけど……

 そうして打ちひしがれる様子の彼女に、圭一郎は声をかけた。


「昼食は……良ければ、こちらで作りますが」

「……お願いします」


 すっかり弱った感じで頭を下げる香織に、圭一郎は同情するような目を向け、その背を優しく何度か叩いた。

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