苺ジャムスコーン
私はしがない花屋の娘にございます。田舎の、小さな小さな花屋を営む家に生まれ、平凡な暮らしを送って参りました。都会や、大学なんていうものに憧れを抱いてはおりましたが、何分貧しい家でしたから。そんなものは夢のまた夢……というものです。ですが、私はそのことに関して嘆いておりませんでした。家族のことを愛しておりましたし、地元や、家業の花屋も全て私の愛すべき宝物だったのです。ですから、私は何も『可哀想な娘』ではありません。
昨年の秋に母が腰を痛め、父一人で花屋を営むことになりました。ですから、私はそれを機に事務員の仕事を辞めました。花屋を手伝おうと思ったのです。父も母も、「そんなことはしなくていい」と必死になって止めましたが、私の決心は固く、既に辞表を提出しておりました。
「私は、私の意思で辞めるのよ」
これは本心です。毎日毎日、上司に怒鳴られながら、時に同僚に詰られながら、同じことを繰り返すだけの日々。そんなものに嫌気が差してしまったのです。ですから、本当は自分のための行動であったのです。家業のためとか、家族のためとか、そんなことを言っておりましたが、一番は自分のために継ぐのです。
両親はそんな、私の本心からの言葉を聞いて、ようやく頷いてくれました。そして、父と二人、二人三脚の仕事が始まりました。母に関しては、店頭で仕事をすることは難しいとは言え、安静にしていれば何ら問題はありません。ですから、事務関係を担っておりました。そうして、新しくフラワーアレンジメントというものも始めたのです。とても、幸せな気持ちでした。愛する家族と共に仕事ができる。それ以上に幸せなことなどありません。
そうして、私と、私の家族はそんな生活に慣れ始めておりました。それもそうです。もう季節は夏なのですから。私一人で店頭に立つこともありました。
「ごめんください」
ある日、一人で店頭に立っていると、外からそんな声が聞こえて参りました。入口の方へと視線をやると、そこには柔らかい笑みを浮かべた男性が立っておりました。幾らか行った先に住む、常連の方でした。
「いらっしゃいませ」
「あれ、今日は店主はいらっしゃらないのかい」
「ええ。今日は母の通院日ですから。私だけで店番をしております」
「そうかいそうかい。大変だ」
「いえ。もう慣れましたから。今日はどうされますか」
実を言うと、私はこの常連の方があまり得意ではありませんでした。確かに、たくさん花を買ってくださる方ですから、とても有難いことは分かっております。ですが、どうしても苦手だったのです。恐らく、彼の悪癖によるものなのでしょうけど。人様の生活に何も言わない方が良いと思いますけれど、そんな彼の悪癖は巷では知らぬ者がいないと言われるほど。今更、何かを付け加えて悪く言うことはするべきではないでしょう。そもそも、私はそんな風に既に噂されているものとは違う理由で彼のことを得意としていなかったのです。
「今日はお勧めの花にするよ。一輪、一等綺麗なものを包んでくれないだろうか」
「それでしたら、旬の花をご用意しますね。少しお待ちください」
「ありがとう」
彼は、一輪の花を包むときもあれば、たくさんの花を包むときもありました。理由なんてものは聞いたことはありませんでしたけれど、頻度としては一輪であることが多かったことを覚えております。……けれど、彼が花の種類までを指定することは稀でした。きっと、花のことはよくご存知ではないのでしょう。
いえ、このことも関係はありませんね。話が脱線ばかりしていては混乱させてしまいます。
彼は、花を包む私に言葉を掛けてくることがあるのですが、毎回同じようなことを仰るのです。
「それにしても、君は可哀想な方だね」
「……いいえ、私はこの生活に満足しておりますもの。可哀想なんてことはありません」
私のこの返答すらも、彼には強がりからのものだと見えてしまうのでしょう。彼は眦を緩く下げて心底同情してみせるのです。
「君は家業のために仕事を辞め、田舎の花屋で生涯を過ごそうとしているのだから。それが可哀想だと言うのだよ」
「何度もお伝えしたはずです。私は自ら望んでこの道を選んだのです。望んだ生活を送っている私の、それのどこが不幸だと仰るのですか」
「君はこの世界の外を知らないでしょう。都会の暮らしを知らないでしょう。外のことを知らぬ蛙、それが今の君、」
「お花、包み終えました。どうぞお帰りくださいまし」
私はそう言うと、ぴしゃりと戸を閉めてしまいました。そうして、暫く息を潜めておりますと、店から出ていく音が聞こえました。そうして、もう暫く待ってから店頭へと戻ったのです。
本当に、失礼なお方。私は彼のこのような物言いが、大変腹が立って仕方ないのです。まるで、ご自分が幸福であって、私の方は不幸であることを嘲笑っているように思えるのです。実際、彼は私のことを見下してはいたのでしょう。
「本当に、失礼な方」
常連のお客様ではなく、道端で出会ってしまうよく知らぬ近所の方なんて存在でしたら、私は彼のことを容易に拒否できますのに。このときばかりは、少し嫌な気持ちになってしまうのです。そうは言っても、彼がお客様であることは変わりません。私はなるべく話さずにいたいとそう願っておりました。
そうして、何度か同じようなやり取りを繰り返していたのですが、ある日、不思議なことが起こりました。いつものように、彼はやって来ました。そうして、たくさんの花を使った花束を用意して欲しいと仰ったのです。
「今までの中で、一等豪華で、一等綺麗なものを」
「はい。少しお待ちくださいね」
珍しい、とは内心思っておりましたが、断る理由などありません。私は彼の注文通り、今までの中で一等豪華な花束を包み、それを渡しました。
「お待たせしました。包み終えましたよ」
彼は花束を受け取ると、何を思ったのかできたばかりの花束をこちらに差し出しました。
「どうされたのですか? 何か、気に入らないものでもありましたか」
彼は、首を横に振ります。私は何が何だか分かりませんでしたから、差し出された花束を受け取ることもしませんでした。そんな状態に焦れたのか、彼は口を開きます。
「これを、君へのプロポーズにしたい」
「え……?」
かなかな。
遠くで蜩が鳴く声が微かに聞こえます。私は、彼が何を言っているのか分からず、何も返すことができません。
「君をこの小さな籠から救い出してやりたいんだ」
彼の言葉で、私は我に帰りました。そうです、彼は、この男は私を憐れんでいたのです。勘違いでしかないのに。それなのに、この男は相も変わらず私のことを、家族のことを馬鹿にしてくるのです。カッと頭に血が上るのが分かりました。
「ふざけないで、私は貴方のことを好いてなんかいません。そもそも、お付き合いから申し入れるべきものを、そんな侮辱の言葉で結婚を申し込むなんて。恥を知ったらどうなの」
「な、僕はただ、君のことを想って……!」
「私のことを本当に想うのなら、二度と私を不幸だなんて、可哀想だなんて言わないで頂けるかしら。そもそも貴方がどれ程の女性と関係を持っているか、知らないはずないでしょう? そんな、浮気者の言葉なんて信じられないわ」
腹が立ちました。ええ、腹が立ったんです。私が彼の申し入れに涙を流して頷くとでも思ったのでしょうか。そんな、そんなはずないでしょう。私は彼の放った侮辱を一つ残らず記憶しているのです。女癖が悪いと、巷で噂されていることも勿論知っておりました。それだけならいざ知らず、その中に加われと? どこまでも彼は私を馬鹿にしておりました。
暫く呆気に取られていた様子でしたけれど、私のあまりの剣幕に日を改めることにしたようです。
「す、すまなかった。一先ず、関係を解消してくるよ。それから、もう一度話を聞いて欲しい」
「勝手になさってください。私は気持ちを改めることはしません」
「また来る」
彼はそう言って、花束を抱えてとぼとぼと歩いて行きました。本当に、この夏一番の向日葵を使った力作でしたのに。あんな使い方をされるなんて。私は、そんな風に怒っておりました。
ですから、本当に驚いたのです。
彼が、刺されて亡くなったと聞いたときには。
*
ピィ。
そんな甲高い音が話に夢中になっていた思考を止める。何の音かと思ったが彼女が用意していたケトルの湯が沸いたことによるものだった。
「失礼しました。丁度お湯が沸いたようです。お持ちしますね」
先日の、男性が付き合いのあった女性から刺された事件。どうしても真相が気になってしまい、独自に調査を進めていた。その一環としてきっかけとなった花屋で話を聞いてみようと思ったのだ。地図と聞いた話を頼りに現地へと赴き、店へと入ってみるとそこにいたのは年頃の女性が一人。事件について聞いてみると、驚いたことにあの時加害者の女性が目撃していた現場の張本人であったのだ。
「田舎の花屋ですから」
突然の訪問で、なおかつ初対面であるにも関わらず、そう言って快く話を聞かせてくれた彼女には感謝しかない。この時間のために店を一旦閉めてくれると言うのだから。
新しい情報を得ることにより、また一つ、加害者の女性について知ることができた。訳の分からない不可思議な存在から、段々と印象が変わっていっていることが自分でも分かる。……分かったところで、何の意味もない。それは理解していた。それでも、この身体は追わずにはいられないのである。だから、自分自身の感情や行動を把握しきれないまま、衝動のままに突き動いてしまっている。
どうして、こんなにも執着してしまうのだろう? 知人からは自ら抱いた疑問と全く同じことを問われたことだってある。そのときの自分は答えることができなかった。何故ならば、自分自身でも理解していないからだ。自分ですら理解できないこの衝動を、どうやって言語化すれば良いというのだろう。知人は、そんな自分を見て「のめり込むなよ」と呆れたように苦言を呈した。
なんで、そう言われるのか。
「お待たせしました。紅茶を用意してしまったのですけれど、苦手ではなかったですか?」
「あ、いや。問題ないですよ」
「良かった。丁度お茶の時間でしたから、紅茶に合うお茶菓子もお持ちしました。よろしければ貴方もどうぞ召し上がってくださいな」
彼女は銀のトレイに紅茶の入っているであろうポットとティーカップを二つ、それと美味しそうな茶菓子を乗せて戻ってきた。まさか、茶菓子まで用意してもらえるとは。どうやら、彼女は随分と心根が優しいようだ。確かに、これではあの被害者の男性に勘違いされて好かれるのも納得だろう。彼女からしたら、迷惑以外の何物でもないだろうが。
「突然のお願いを快諾して頂けただけでなく、このようなものまで……本当に何から何まで申し訳ないです」
「いえ。私も丁度休憩しようと思っておりましたから。そのついでに貴方に世間話をすることくらい何も迷惑でないですよ。むしろお話し相手になって頂けて嬉しいです」
彼女はそう言って柔らかい表情を浮かべた。その笑みに、愚かにも心臓が音を立てたようにも思えたが、全ては気のせいだろう。一つ、咳払いをしてから出された紅茶を一口飲む。少し温められたカップは紅茶の温度を損なうことをしない。紅茶について何も知らない自分でも、この茶葉は上質なものであると分かる。
「……とても、上品な味がしますね」
「あら、お分かりになりますか?」
紅茶を褒められたことに、彼女は気を良くしたようだ。頬を少し蒸気させ、血色の良くなった顔をこちらに向けてくる。ずい、と少しだけ互いの顔の距離が縮まる。
「これはとっておきなんです。何か、良いことがあったときにだけ、ご褒美のようにして飲んでいるものなんです」
「そんな上質なものを……? それに、良いこと、とは」
彼女は少しだけ、考えるようにしてそのままの体勢、表情で静止する。変わらず、距離は近いまま。時間にすればほんの六十秒くらいであろう。それでも、自分にとってはもっともっと長く感じたものだ。
「そうですね。貴方は私の話を聞いてくださったんですもの。それに、貴方が知りたいことは、先程の私の言葉だけではきっと足らないでしょう」
そう言って彼女は体勢を直す。そうして、テーブルに両肘をついて紅茶に口をつけた。先程までとは少し様子が異なっており、不覚にもそんな些細なことにすら自分の愚かな心臓はどきり、としてしまう。
「貴方は、とても優しいお方のようです。そんな、お優しい方なら、この話をしてもきっとなんら問題はないでしょう。ええ、きっとそうに違いありません」
彼女はすっかりと自分の世界に入り混んでしまったようで、もはや自分の声は届いていないのではとすら思える。それでも、彼女がうわ言のように呟く内容は自分にとって全く無関係な事柄ではない。そのままじっと待っていると、ようやく彼女は「貴方にだけ、お話しましょう」とこちらに視線だけを向けて頬を緩ませる。
「実を言うと、あの常連の方が亡くなるだろうことは分かっておりましたの」
「え?」
ゴクリ、と聞こえた音は自分が発したものなのか、それとも彼女が紅茶を飲み込んだ音なのか。正直自分では判断できなかった。
「何分、良くも悪くも有名なお方でしたから。あの方の周りにどんな女性がいるのかなんて、少し探ってみれば分かりますでしょう? ですから、すぐに分かったんです。この花屋で一番多く注文される『一輪の花を贈る相手』がどんな方なのか。やっぱり、あんな方を盲信される方ですから、すぐ勘違いしてしまわれました。私は、彼の方なんてどうとも思っていませんのに。本当に恋は人を盲目にしてしまうのですね。愚かなことです。……これ以上は、追加することもないのですけれど、」
彼女は、口元を深い笑みの形に歪ませる。
「どうです? 貴方が知りたかったこと……お分かりになった?」
その後、挨拶もそこそこに花屋を去った。正直なところ、後半はもう混乱してしまってあまり反応できていなかったように思える。実際、何も反応はしなかったのだろう。それでも、彼女はもう何も言うことはなかった。
何も答えないまま、そろそろ帰ります、と心なしか震えた声を残した自分に対して、人好きのしそうな笑みで「お送りしますね」と快諾するだけだった。
もう、部屋の外は薄暗くなりかけている。この間までとは異なり、段々と日が落ちるのが早くなっている。首筋を撫でていく風だって、もうあの熱気は含んでいないのだ。そのことに、ヒヤリ、としてしまう。
「それでは、本日はありがとうございました。個人的なものですから、特に世間に知れ渡るようなものでもございません。万が一、外部にお話しすることになった際には必ず事前にお伝えしてから、許可いただけた部分のみ公開させて頂きます」
「ええ。信じております」
昼間とは異なり、夕暮れのせいなのか少しだけ、彼女の表情が分かりにくいように思える。彼女が浮かべている表情が、しっかりと分からないことに少々の不安を抱いてしまう。
「それでは」
頭を下げ、そのまま日常へ戻ろうと背を向ける。少し、それこそ五メートルくらいだろうか。不意に聞こえてきた「あぁ、そうだ」という彼女の声に思わず振り向く。彼女は先程から全く動いていないにも関わらず、自分の耳には嫌に彼女の声が大きく響いたように思えた。
「スコーン、特製の苺ジャムで作ったものでしたの。もしよろしければ、またきてくださいね。そのときはとっておきの紅茶と一緒にお出ししますから」
約束ですよ。
終
愛 藍原絵茉 @sternmeer_
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