愛
藍原絵茉
愛
彼は、『向日葵のような笑顔でした』なんて……そんな可愛らしい言葉で言い表せられるような人柄ではありませんでした。確かに、彼は本当に笑顔が素敵で、その笑みさえあれば大抵の女性は勘違いをしてしまうでしょう。とにかく、大勢の方が好意を抱いてしまうような、そんなお人で。まぁ、私も彼に魅了されてしまったうちのその一人ではあるのですけれども。
そんな彼が、日によって違う女性を連れているところを見られることが多いことは知っております。とにかく、大変奔放なお人でしたから。常ならば叱られて然るべきだとは思いますが、「彼なら仕方ない」と許されてしまうお人ではありました。そして私も、許してしまっていたのでした。その他大勢の彼の女性たちも、皆同じ気持ちだったのでしょう。まるで売れない恋愛小説の、ヒロインを弄ぶどうしようもない男性の台詞のようではありました。ですが、彼が私の好きなあの笑顔を浮かべるたびに、この心臓はどうしようもなく高鳴ってしまうのです。とても狡いお人です。砂糖菓子をもっともっと煮詰めたようなそんな甘い声音で、「もうしないから」と言われてしまえば私は勿論、誰だって文句は言えるはずもありません。それが彼の常套句だと知っているはずでしたのに。
人を愛するということは本当に愚かなことです。苦しいことです。本当に、しっかりとそう言えます。それが分かっていてもなお、彼の傍に在りたいと願うのはいけないことでしょうか。いいえ、そんなことがあるはずございません。人の心というものは、どうしようもなく手に負えないものなのですから。誰かに言われたからとて、自分自身が分かっているからとて、どうしようもならないのが人を愛することなのだと私は思うのです。
彼との逢瀬はあまり多くはありませんでした。……何故って、彼には沢山の女性がいるからです。むしろ、それ以外に男性との逢瀬が少ない理由などありませんでしょ? でも、私は分かっていましたし、それでも彼の傍にいることを望んだのは他でもない私です。そのことに文句なんて言えるはずもありません。
これまでの私の話を聞いてくださっている貴方ならお分かりでしょうけど、こんなにも浮気性な彼が、それでも今まで許されてきたのには理由があります。一つは先程も申し上げた通り、それが彼であるということ。そして、彼の笑みや言葉に酔ってしまっているのが二つ。そして最も大たる理由としては、彼がしっかりと私たちを愛してくださるということが大きかったのでしょう。
彼は絶対に忘れないのです。誕生日も、記念日も。忘れずに一緒にいてくださる。今思えば、そのことが唯一の救いだったのかもしれません。そうでなければ、早々に彼は誰かしらに刺されていたでしょうから。
「誕生日には何が欲しい?」
そんな風に優しく問いかける彼に、私はいつも「綺麗なお花を一つ」と答えておりました。彼が他の女性に宝石類やバッグを贈っていたのは知っております。彼の周りにいるのは、図々しくも高価なものを強請っている女ばかりでしたから。
そんな中で花を強請る私は珍しかったのでしょう。彼は私が毎回花を強請ることを分かっていたはずなのに、面白がって毎回同じように尋ねるのです。ですから、私も同じように答えておりました。
ずっとそんなやりとりをしていた私と彼でしたけれど、彼が「いつも花が欲しいと言うけれど、君は花が好きなのか」と私に問いかけた時もありました。正直に言ってしまえば、私は特別花が好きというわけではありません。それでも、彼の周りにいるような強欲で、どうしようもない女たちと同じようになりたくないという気持ちから、豪華な花束を強請るでもなく、安価であろう一輪を望んだだけなのです。ですが、他の女性のようになりたくないとはどうしても言えず、私はただ小さく頷くだけでした。
「そうか、実は僕も花が好きなんだ」
頷いたまま下を向く私に、彼はそんな風な嬉しそうな言葉を返してくださいました。私はそのことに大層驚いてしまって、「そうなのですね」としか答えられませんでした。
言葉少ない私に気分を損ねることなく、彼は楽しそうに彼のことを教えてくださいました。昔から彼の母が花を好んでいたこと、それによって彼自身も花を好ましく思うようになったこと。
これは本当に珍しいことでありました。何分、ご自身のことはあまり話したがらないお人でしたから、こんなに些細なことでも彼について知れるのはとても喜ばしいことでした。きっとこれは、彼に高価なものを強請ることしかしないあの女たちは知らないことでしょう。私は彼の秘密を知ってしまった。そんな思いが、私の恋心をより一層深めていったのです。彼の特別にさえなれた気がしました。それだけではなく、ひっそりと、喜びに浸る私に、彼は約束をしてくれたのです。
「控えめなお願いをする貴女に、せめていつも違う花を贈りましょう」
それが僕から貴女への想いである、と。
あのお人は、本当に女の扱いがお上手なのです。私は何度も彼に心を奪われております。何度も何度も、この胸を切なさで、愛おしさで、恋しさで、悲しさで、妬ましさで、痛みで満たしておりましたのに。そんな私をあのお人は嘲笑っておいででしたのでしょう。扱いやすい女だと、馬鹿な女だと、笑いものにしていたのでしょう。
でもそれも全部、周りの女が悪いのです。
あぁ、勘違いなさらないでください。別に彼のことを憎んでいる訳ではないのです。むしろ、深く深く、愛しているのです。だからこそ、彼の裏切りが許せなかったのです。今でもはっきりとこの目に焼き付いておりますもの。
初耳でしたか? ……そうですね、確かに私はこの話の詳細を語ってはおりません。もし、貴方が聞いてくださるのでしたら優しい貴方にはお答えしましょう。
あの日、何があったのか。
あの日は、本当によく晴れた日でありました。あまりにも暑かったものですから、私は昼の外出を避けて、少しだけ涼しくなった夕暮れに出掛けることにしたのです。
かなかな。
そんな鳴き声がやけに耳に響く、今思うと不思議な感覚を抱く日でした。
普段でしたら彼のおうちの方までは行かないのですけれど、なんだか無性に恋しくなってしまって。そうです、いつもは貰ってばかりですから、今日くらいはお返ししましょう。そんな気持ちで、花屋へと行くことにいたしました。
彼のおうちへ向かってたのですから、当たり前かも知れませんけれどそこは奇しくも彼がよくくださるお花のお店だったのです。そうして、近付いてみると、そこにはなんと彼の姿がありました。思わず、歓喜に震えてしまいました。だって、彼に会いたいと思ったら、目の前にいらしたのです。運命です。やはり私たちは運命で結ばれていたのです。他の方とは違って。
声を掛けようとしましたが、よく見ると彼の隣には見知らぬ女性の姿がありました。私たちの暗黙の了解として、他の女性の前では声を掛けないというものがありました。稀にそれを破ってしまう女もおりましたけれど、それは本当に愚かなことです。愚か者になりたくはない私でしたから、すぐに帰ろうとしました。えぇ、本当に帰ろうとしたのです。
「これを、君へのプロポーズにしたい」
そんな、彼の声が聞こえるまでは。
私は耳を疑いました。彼がプロポーズをしているということも勿論でしたが、最も私の心臓を痛めたのは花を贈る相手が他にもいたということ。私だけではなかったのです。それを知った私のなんて惨めなこと。ただの自惚れ。なんて、愚かな女なんでしょうか、私は。
私は思わず逃げ帰ってしまいました。私の部屋には確かに彼からいただいた証拠があります。全て、あります。この花たちが私たちの愛であったはず。それなのに、彼は別の女にも同じような愛を与えていたのです。そんなの、裏切り以外の何物でもない。
ねぇ、貴方もそうは思いませんこと? 私の部屋に残された彼の愛の中でも、一等綺麗な向日葵。それを見る度、彼の笑顔のように思えて心臓を高鳴らせていたというのに。今では私を嘲笑っているようにしか思えませんでした。許せません。許せるはずがありません。彼は私への愛を一輪の花で表現していましたのに、あの女には色鮮やかな花束を贈っていたのですから。許せない。あんなにも、腕に抱えきれないほどに大きな花束を贈るなんて。私への愛なんて、取るに足らないちっぽけなものだと言外に伝えているではありませんか。
だから、「貴方のそれは裏切り行為以外の何物でもありません」と言ってやったのです。彼は大層申し訳なさそうに、悲しそうに私を見ました。
「貴女への愛が、些細なものであるはずがない。だからこそ、話し合いに応じたんです」
彼はそう仰いました。それでも、私の気は収まりません。嘘ばっかり、貴方の心はもうあの女のもの。そんな裏切り者の言葉なんて信じられるはずがありませんでした。
「今はもう、全てを清算しようとしている。僕は添い遂げたいと願う人を見つけてしまったから……」
だから、分かって欲しいと。私を愛していないわけではないと言われても、結局捨てるのであればそれは愛と呼べるはずがありません。彼はずっと騙していたのです。たかが花一つで舞い上がる安い女だと、密かに。
押し黙った私に、彼は許されたのだと勘違いしたのでしょう。何処かほっとした表情で、彼は私に最後の花を贈りました。
「今まで本当にありがとう。貴女のことも本当に愛していました」
そう言って、差し出された向日葵は本当に、本当に綺麗で。
「嘘つき、」
本当に憎たらしくて、私は彼を包丁で刺しました。
*
「どうして、刺したんですか」
先程まで、何も言えずに聞いていた。だが、語り終えた彼女が口を閉ざし、それにより生まれた沈黙に耐えきれなかったのだ。目の前で俯く彼女に対してそう尋ねる。すると、彼女は「だって、本当に憎たらしかったんですもの」と零した。
「私への愛を花で表すなんて仰ったのに、毎回他の花を贈ると仰っていましたのに、あの日、あの方は私に向日葵を贈ったんですもの」
「それが、彼を刺した理由だと?」
「えぇ。だって、彼は私に約束をくださいました。それをきちんと守ってくださっていたからこそ、私は他の女たちとの逢瀬を許していたのです。何処ぞの愚かな女とは違って、私は彼の全てを愛しておりました」
俯いたまま、彼女は言葉を続ける。
「彼を愛していたからこそ、彼の自由さを許していました。閉じ込めてしまうことは簡単ですけれど、そうしたら彼が彼ではなくなってしまうかもしれませんもの。ね? 私が一等彼を愛していると思いますでしょう?」
彼女が彼を刺した理由が『同じ花を贈ったから』ということを知り、思わず息を飲んだ。目の前にいる女性は、穏やかそうな、普通の女性に見えるのに。その華奢な身体のどこに、狂気を隠しているのだろう。目の前にしているのが、ただの女性ではなく、紛れもない罪人なのだと身にしみて感じてしまった。そのことに、無意識に身体が震えてしまった。
「でも、本当に残念なんです」
彼女はそう、ぽつりと呟いた。
「何が、残念なんですか?」
恐る恐る、聞き返す。その問いこそが、彼女の狂気をより肌に感じることができてしまうものだと、分かっているはずなのに。
「だって、あの人が向日葵を贈らなければ、一緒にいられたんですもの。……いなくなるのは、あの女の方で済みましたのに」
本当に残念だわ。そう言って、彼女は軽やかに笑った。
終
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